2021年6月27日日曜日

一神教 VS 多神教/岸田秀

 一神教というと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が三大宗教だが、そのルーツは、ユダヤ教にあり、ユダヤ教からキリスト教が派生し、さらにイスラム教が派生したという。
(宗教ではないが似たような構造で、マルクス主義と大日本帝国の天皇制を挙げている)

岸田秀の説では、モーセに連れられてエジプトから脱出した人々は差別されていて、パレスチナににやってきて、ユダヤ人になったという。

しかも、その差別されていた理由は、ユダヤ人が白人だったこと。人類は、アフリカの黒人種を共通の祖先とし、その黒人種が中近東からヨーロッパに入って白人種となり、白人種がさらにアジアに入って黄色人種になったという。
アフリカの肥沃な土地からヨーロッパの寒冷な痩せた土地に追い出された白人種は、黒人の間で気味悪がられ、追い払われたという仮説である。

つまり、ユダヤ教は、もともと差別された人々の宗教であり、だから、その宗教には”恨み”がこもっていた。それが一神教の特質だという。

一神教の特質として、神は復讐欲が強く残酷な罰を与える傾向がある。また、自分のものと違った信仰、考え方、見方をすべて認めない点がある。

もともと、ヨーロッパ民族にも、独自の多神教(ギリシア神話、ローマ神話、ゲルマン神話、ケルト神話など)があったが、ローマ帝国の軍事力によって、ヨーロッパの人々にキリスト教が押しつけられた。

人間は押しつけられると押しつけ返す(被害者が加害者に転じる)傾向があり、近代ヨーロッパ人の行動の基本パターンは、世界中の諸民族にキリスト教を布教(押しつける)し、植民地化を進める猛烈な行動エネルギーとなった。
(アステカ帝国やインカ帝国の滅亡、アメリカ先住民の虐殺など)
そして、黒船来航で同じ思いを押しつけられた日本は、朝鮮に対して押しつけ返した。

以上の通り、岸田秀は、一神教に対して強い批判を持っており、その理由として、一神教は、唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が、人類に最大の災厄をもたらしているという点を挙げている。

強い自我というと、よい印象も受けるが、自我が不当に被害を受けると、回復しようとする衝動を持つのが自我の宿命ということで、いわゆる復讐欲は、失われた自我の位置づけを回復しようとする衝動であるという説明をしている。
(個人的に、この指摘にはどきっとしました)

岸田秀が、神社に初詣に行き、結婚式を教会で挙げ、葬式でお坊さんがお経を読み上げる日本のちゃらんぽらんな感じのほうが健全であると指摘しているのが面白かった。
追い詰められたり、不安に強く襲われると、一神教が求められる傾向が強くなるという指摘も興味深い。

この本は、確固とした自我を持たなければならないと焦っている人や、無宗教であることに引け目や不安を感じている人にとっては、よい解毒剤になると思う。

2021年6月26日土曜日

立花隆の時代

立花隆さんが、今年4月30日に亡くなっていたというニュースをみて、私も一つの時代が終わったなという感慨を抱いた。

今でも、本棚に見え隠れする立花隆の著書。

「田中角栄研究」
「ロッキード裁判批判を斬る」
「日本共産党の研究」
「農協」
「中核VS革マル」
「宇宙からの帰還」
「宇宙よ」
「文明の逆説」
「サル学の現在」
「青春漂流」
「精神と物質」
「脳死」
「知のソフトウェア」など

作者のこの頃の著書は、むさぼるように読んでいたような気がする。
一貫して感じるのは、彼の仕事の誠実さと桁外れの知的好奇心だ。

膨大な資料を徹底的に読み込み、事前に勉強をしてから、対象者にインタビューを行う。
新聞や雑誌の関連記事は、テーマごとにスクラップブックにファイリングする。
収集した情報に基づき、年表や図表を作成し、事実関係を整理し、分析する。
(この辺のノウハウは、「知のソフトウェア」に詳しい)

徹底した事実認識に基づき文章を書く。実にオーソドックスなやり方といえるかもしれないが、このようなスタイルで仕事を貫いているジャーナリストは今、いるのだろうか。

知的好奇心という点では、著書のタイトルを見ればわかるが、政治、宇宙、人体、環境問題、絵画など、あらゆる分野に口を突っ込んでいた。自らを学問のディレッタント(好事家)と呼んでいたが、「文明の逆説」のような、やたらスケールが大きい本を書いていることからもわかる。

私個人の勝手な思いだが、立花隆は、インターネット時代到来前のほうが、ずっといい仕事をしていたような気がする。膨大な紙の資料をかき集め、そこから情報を抽出し、有機的に結び付け、隠れていた事実を明らかにし、時の政権を倒すことに寄与するほどのペンの強さを見せつける。今思うと、まるで神話のような話だけれど。

そういう堅実な方法で膨大な著書を書き上げ、ジャーナリズムの黄金期を作った人であることは間違いない。

2021年6月19日土曜日

唯幻論始末記/岸田 秀

わたしは、岸田 秀の著書「ものぐさ精神分析」を読んでから三十年以上、彼の著書を読まなかった。

その事に引っかかり、自分の心を探り、おおよそ見当はついたのだが、この本を読んで確信に変わった。

自分は、 彼の著書を読んで、おそらくは危険だと感じたのだ。
彼が唱える「唯幻論」は、破壊力のあるバズーガー砲のように、世の中の確固とした(と思っていた)常識を容赦なく打ち砕いていく。

性欲も、宗教も、歴史も、日本とアメリカとの関係も、親子関係も。

とりわけ、親子関係(母親との関係)に関する彼の容赦のない分析は、たぶん、高校生の頃の幼い精神には耐えられなかったに違いない。

彼の主張は、ほとんど明確に理解できるし、納得できる。論理的におかしなところがない。
特に対米関係において、日本が属国であることに心の底では気づいているが、表面上取り繕うことが習い性になり、そのせいで国のアイデンティティが揺らぎ、日本人の多くが自分とは何者なのか、何のために生きているのか、どう生きればいいのか分からなくなっているという主張には、ほぼ100%同意できる。

しかし、その鋭利な刃物のような分析の根拠が、作者の本来プライベートな部分をさらけ出すことで明確になっているのは事実であり、その特異性には、今になっても恐ろしさを感じる。

本書の最終章「消えた我が家」は、儒教的な価値観で言えば、岸田秀自身が言っている通り、「親不幸の最たる者」ということになるのだろう。しかし、それを自認し、一連の悲劇を隠さずさらけ出していることにある種の感銘すら覚える。

わたしが、若い頃、彼の著書から本能的に距離を置いたのは間違いではなかったように思う。ある種の劇薬のような強さがあるので、読む人はご注意を。

2021年6月13日日曜日

幻獣の話/池内紀

「世に役に立たない本はない」というが、「幻獣辞典」を書いたボルヘスの「むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」という言葉は真実だと思う。

マルコ・ポーロが東方見聞録のなかで、スマトラの一角獣や侏儒、樽のような蛇を語った時、ヨーロッパの人々はまだ見ぬ東方の世界に想像を逞しくすることができたのだろう。

しかし、世界の津々浦々まで踏破され、科学知識が行き渡った現在でも、「幻獣」はいると思う。

それは、確かに人の心の中にいる。精神病患者の不思議体験、文学作品に現れる奇妙な動物(村上春樹の「羊男」だって「幻獣」だと思う)。

本書は、ドイツ語文学の翻訳を手掛けた池内紀だけあって、ボードレールやフローベル、ポオ、カフカ、寺山修司の作品についても触れられている。

興味深かったのは、ダニエル・パウル・シュレーバーの幻覚の話だ。
有能な法律家だったが、四十二の時に精神変調の兆しを見せ、回復するも、五十一で再発。強度の幻覚症状を示した。医師の診断はパラノイア。

彼は「女であって、性交されているならば本当に素敵であるに違いない」という妄想に襲われる。

男性生殖器が「撤収」され、ついで内生殖器の同時的改造が進む。そして、これが奇妙だが、数ミリの大きさのそっくりよく似た「チビ男」の二人組が現れ、頭の上で会話をしたり、瞼をつねったり、食べた食事の一部を食べたりしていたらしい。

エレベータに乗ったような状態で地球の深部に降りていき、地球の全歴史を逆行するかたちで体験し、「人類の原始原」を示す第一地点にも足を踏み入れたという。
精神病理学では「世界没落」の幻覚というらしい。
(ケン・ラッセル監督の撮った「Altered states」のような世界をイメージしてしまう)

本書では、作者は結論めいたことは言わないが、なぜ、その人の前に「幻獣」は現れたのかという、その人の生活や社会的立場に視点を当てていて、読んでいて興味深かった。

2021年6月12日土曜日

日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論/岸田 秀

実に理路整然とした文章だ。矛盾を感じる部分がない。

まず、岸田は、人間について、歴史についてこう定義する。

動物は本能に従って生きているから、物語を必要としないが、人間は本能が壊れているから、物語(歴史)を作る。

人類が賢明であるという思い込みこそが最も愚かな幻想。

愚者がわけもわからず試行錯誤しながら何とかやってきた病的現象として理解する必要がある。

自分の愚かさを知った人間のみが、その分だけ、少しばかり利口になる。

そして、歴史を振り返り、日本は常に外的自己と内的自己とに分裂してきた国であると主張する。

外的自己とは、日本が外国の属国であることを容認し、外国を崇拝し、外国に適応しようとする自己であり、

内的自己とは、外国との関係を避けて自己の中に閉じ籠もり、外国を軽視し排除して、自己中心的・誇大妄想的に なって、外国を蔑視し攻撃しようとする自己である。

日本は、古代・中世においては、中国に対して、近代・戦後においては、米国に対して、分裂した外的自己と内的自己とが葛藤し続けてきたという説明が実に明快だ。

日本がなぜ、工業生産力が十倍もある米国と戦争を始めようとしたのか、それはペリーの黒船以来の脅迫と侮辱に対する復讐だったという説も興味深い。

そして、太平洋戦争の結果について「馬鹿な軍部が暴走した。国民が騙された。」という、今日、多くの人が支持している定説を信じることに警鐘を促している(騙されたとぼやく人はまた騙される)。

彼らは気が狂っていたわけでも馬鹿だったわけでも極悪人だったわけでもない。開戦するほかないと判断した彼らの心情を検討する必要がある。

彼らを狂人とか馬鹿とか極悪人と決めつけて事足れりとする人は、彼らが当時置かれていた状況と同じような状況に置かれれば、同じように開戦するほかないと判断するであろう。

彼らが正常な心で開戦するほかないと判断したとき、その判断には、彼らの主観としては、当然過ぎるほど当然な正当性のある根拠があったはずである。それらの根拠をすべて白日の下に晒し、ひとつひとつ詳しく検討し、それらの根拠が目の前にあって迫られていても、戦争に訴えないことができるだけの理論を構築しておかなければ、戦争を防ぐことはできないであろう。

日本国憲法の改憲についても、日本が実質的にアメリカの属国であることを認めないまま、属国を脱することのないまま、自主憲法を作れば、できあがった憲法は今よりももっとアメリカに都合のよい憲法になることが目に見えているという指摘にも反論が難しいように思う。

わたしが「ものぐさ精神分析」を読んだのは、高校生の頃だった。それから随分とご無沙汰して読んだ本書だったが、岸田 秀の切れ味鋭いナイフのような分析は健在だった。

2021年6月6日日曜日

詩歌川百景①/吉田秋生

海街の番外編で描かれていた、すずの義弟 和樹と彼を取り巻く河鹿沢温泉での人間模様。

吉田秋生は、前作でも、本当の家族ではないけれど、それに近い緩やかな人間関係を描いたが、その枠組みは本作も同じだと思う。

両親の離散、死別により、行き場を失った和樹とその弟 守を、温泉旅館あづまやの孫娘 妙と大女将である祖母が見守る。というより、強力にサポートする。

湯守の倉石さんという父親的な存在も配置されているが、これも前作の海街同様、圧倒的に母性的な存在が強い。

この温泉旅館あづまやは、強く賢い女性たちによって、秩序が保たれている世界なのだ。

妙の母親のキャラが、海街の幸たちの母親と全く同じだったりして、配置人物に既視感が漂う。

そういう意味で新鮮味はないかもしれないが、前作同様、人間模様は細かく描かれていて、読んでいてリラックスできる作品になっている。

2021年6月5日土曜日

ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録/片山夏子

原発作業員のインタビューや記事というものを、主要メディアでは、ほとんど取り上げない。

取り上げる価値がないはずがない。彼らがやっているのは、被爆のリスクと戦い、廃炉という福島を原発のない土地に戻すための40年以上かかると言われている必要不可欠な作業のはずだ。

こういう本を読むと、日本という国は、国が国民に見せたくない都合の悪い情報が統制されていることがよく分かる。
そして、選挙になると、真っ先に福島県に駆け付け、「福島の復興を政府の最重要課題として取り組む」などと言ったり、「廃炉や汚染水処理が最重要課題」だと言う政治家が嘘つきだということがよく分かる。

原発作業員の勤務条件が悪すぎるのだ。
とりわけ、2011年12月26日に、当時の民主党 野田政権が出した「事故収束宣言」で、作業員の賃金や危険手当、諸経費がカットされていた事実は知らなかった。
(しかも、これ以降、本を読み進めても給与等の待遇は改善されるどころか、下がっていく)

最も衝撃だったのは、「5年で100mSV」という国が定めた被ばく線量の限度を超えると、作業員が働けなくなってしまうため、線量計を鉛カバーに入れて作業するよう指示していた下請け会社があったことだ。
さらに、「高線量要員」として、短期雇用の臨時作業員を雇い、放射線量の高い場所ばかりを作業させ、年間被ばく限度の20mSvぎりぎりまで使い倒すという非人道的なことまで行われていたということだ。

多くの作業員は、多重下請け構造の中で勤務しており、7次請けや8次請けまで連なっておる。

労働者にとっては、手取りの給与額が、中間業者によって手数料などの名目を差っ引かれて減額され、労働安全衛生上の管理責任があいまいになる。

防護服と全面マスクを被って酷暑の中、汗が水のようにマスクの中にたまるが、内部被ばくしてしまうため外せない。熱中症になって、会社に報告しても、東電の建前上、労務管理が出来ていないことを隠すため、報告はされず、労災扱いにならない。

「俺たちは使い捨てだから」と嘆く作業員。そういったやりきれない言葉がつらい。この本に掲載された作業員のほとんどの人たちは、福島をよくしたいという思いから、身を投じた人たちであることが分かるからだ。

一方で、作業員が地元の被災地の老人から聞いた、2014年のオリンピック招致の際の「オモテナシ」が「オモテムキ」と言い換えられたり、安倍首相の発言「アンダーコントロール」が「情報がコントロールされている」と言い換えたというエピソードも載っていて、人の精神の逞しさが描かれていて、ほっとする部分もある。

様々な作業員の話を、いわき市内の居酒屋の個室などで長時間、聞いて、それを一つのエピソードに書きあげるという地道な作業を繰り返した筆者に敬意を表したい。
それは機械的な作業ではない。人の話を聞き、それを文章にするということは、その人の思いも自分の中に取り込まなければならないからだ。

巻末に、筆者が2014年2月、一行も原稿が書けなくなったというエピソードが載っていた。

福島第一での過酷な作業、そこで働く作業員のこと、そして自分の思い…を書こうとしたが、まったく手が動かなかった。心も体も一杯いっぱいになっていた。

9年間の取材でぼろぼろになった大学ノート179冊が筆者の手元に残ったというが、その努力がずっしりと伝わってくる本だ。