2020年5月30日土曜日

猫を棄てる 父親について語るとき/村上春樹

非常に短い文章で語られているが、これを書くのに村上春樹氏はどれだけの時間を費やしたのだろうと気になった。

それは文章中に浮かんでくる父親に対しての躊躇いや葛藤がほのかに感じられるからだ。
村上春樹氏は、猫を棄てにいくというエピソードをきっかけに書くことで筆が進んだと言っているが、確かにこの作品は、冒頭と最後に猫に関するエピソードを添えることなくして成り立たなかったように思う。

ただ、ご本人も認めているが、村上春樹氏と父上は、本質的にはかなり似たタイプの人だったことは想像がつく。

安養寺の住職であった祖父の村上弁識(すごい名前)氏が亡くなったとき、家族の期待を退けてその住職の職を引き継がず、自分の家族と生活を最優先した父上の意志は、不和となった父上と二十年以上、音信不通を貫いた村上春樹氏の強固な意志と重なるような気がする。

そして、父上が俳句に情熱を持っていたということも、村上春樹氏に、詩というメンタリティ的な部分で強く影響を与えているような気がする。
村上春樹氏の小説における巧みな比喩は、ある意味、詩的な表現と捉えてもおかしくはない。

この小文でも、高い松の木に登って消えた白い子猫の話を書いており、これは事実ということだが、色々な意味に解釈できる巧みな比喩になっている。

戦争と父、父と息子、その重いテーマを、猫の存在が辛うじて支えているような不思議な印象を持った(珍しく二度読んだ)。


2020年5月16日土曜日

ボーダーライン(Sicario)/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

ヴィルヌーヴ監督を知ったのは「ブレードランナー 2049」を見たからで、「ブレードランナー」が大好きだった私は、この続編に全く期待していなかったのだが、その予想を見事に裏切られた。

映像の静かな美しさ、レプリカントの辿る運命の哀しさが見事に表現されていて、何度も繰り返し見ている。
特にウォレスの秘書的な役割を果たすレプリカント ラヴ(Luv)を演じる シルヴィア・フークスの演技は見事だ。
ほかの作品の彼女を見たが、この作品のラヴのような面影を全く感じないところは、演技力の高さを示していると思う。

印象的なシーンは、オフ・ワールドに、ハリソン・フォード演じるデッカードを移送する際、彼からどこに連れていくのか質問を受けた際、彼女が「Home(故郷)」と答えるシーンだ。
ラヴも、過酷なオフ・ワールドの世界で働いていたと思わせるような一言だ。

前置きが長くなってしまったが、そんなヴィルヌーヴ監督の別の作品も見てみたいと思い、『ボーダーライン』(原題 Sicario:スペイン語で「殺し屋」)を見た。

麻薬カルテルが起こした誘拐事件をきっかけに、女性FBI捜査官のケイトが、国防総省のマットが率いるCIAの特別チームに引き抜かれ、カルテルのボスを追跡する物語で、最初は、女性FBI捜査官の活躍を描く作品なのかと思ったが、全くのヒヨコ扱い、果ては彼女のミスをきっかけに汚職警官の捜査のおとりに使われるという容赦のない物語が展開していく。
(特にカルテルの幹部を移送する際で起きた高速道路のシーンはリアルな緊張感がある)

とりわけ、この物語の非情さを体現しているのが、ベニチオ・デル・トロ演じる謎の捜査官アレハンドロだ。

アレハンドロがケイトに最後に言うセリフが一見優しいようで厳しい。
You will not survive here.
You're not a wolf, and this is the land of wolves now.

こういうハードボイルドな映画も作れてしまうヴィルヌーヴは、すごい監督なのかもしれない。


もう一つ、メッセージ(原題:Arrival)という映画も見た。
こちらは、謎の目的で地球に来たタコのような宇宙人とコンタクトする言語学者の女性の物語で、これもテーマ性のあるしっかりとした映画でした。

2020年5月9日土曜日

異端者の悲しみ/谷崎潤一郎

久々にこの作品を読み返してみて、主人公の間室 章三郎がたびたび感じていた死の恐怖を妙に身近なものとして感じた。

鈴木という学友が心臓が弱いせいで腸チフスにかかって死んだことで、章三郎は自分も心臓が弱いからチフスに感染してしまわないかという強迫観念にかられ、次第に神経衰弱に陥る様子が描かれている。

昔読んだ時にはそれほど共感できなかった部分であるが、この新型コロナウイルス感染症の時代に読むと、彼を苛んだ死の恐怖は決して大げさなものではないように感じた。
(明治時代は、腸チフスで毎年数万という患者が出たらしい)

「己はいつ死ぬか分からない。いつ何時、頓死するか分からない。」

章三郎の心配は次第に、脳溢血、心臓麻痺まで拡大していき、瞬間に五体が痺れてしまいそうな感覚が日に五、六度も起こったり、歩いていると不意に胸が痛くなってしまう。

章三郎はこのような神経性の”病気”にかかってしまったのは、自分が今まで行ってきた背徳的な行為に対する天罰なのだと感じる。(このような思いも共感できる)

しかし、章三郎のユニークというか、したたかなところは、海嘯(つなみ)のように襲い来る死の恐怖を払い除けつつ、現実の世を生きられるだけ生き、己の肉体と官能を、悪魔が教える数々の歓楽の海に浸らせたい、という強い欲望を同時に合わせ持っていたところだろう。

たとえ、自分の家が八丁堀の長屋(学友からは貧民窟と言われている)の「垢で汚れて天井の低い、息苦しい室内」であっても、彼は寝そべっている自分の頭の中に醗酵する怪しい悪夢がいずれ「甘美にして芳烈なる芸術」になると信じた。

この強い自己肯定力が、この小説の力強さというか、魅力なのかもしれない。

2020年5月5日火曜日

青青の時代/山岸凉子

山岸凉子が描いた卑弥呼(ヒミコ)の物語。
彼女の作品なのに、珍しく途中で読むのを止めてしまったが、十数年ぶりに読み直してみて、なぜ読むのを止めてしまったのか、想像がついた。

たぶん自分は「日出処の天子」のような作品を期待して、この作品を読んだのだと思う。

シャーマン的な能力を持ち、国を支配した謎の女王。
「日出処の天子」の厩戸王子にぴったりのイメージではないか。

しかし、山岸凉子は「日出処の天子」とは、まるで違う作品を作った。

まず、この作品の主人公は壱与(イヨ)という、山岸凉子らしくない少女漫画風の目が大きい二重の少女なのだ。
彼女はヒミコの姉であった日女(ヒルメ)の孫娘である。

ヒルメは、ヒミコより強い超常能力の能力を有していたが、ヒミコの策略により、強姦され、妊娠してしまい、聞こえさまとしての地位を失ってしまう。なお、ヒルメは気狂いの老婆として描かれている。

イヨも、ヒルメの強い超常能力を受け継ぎ、その力はヒミコを凌駕しているが、積極的にその能力を行使しようという野心はない優しい少女で、物語の冒頭、島の少年たちに輪姦されて、処女を喪失してしまっている。

物語は、伊都国の王 日男(ヒルオ)の死を契機に起こる王位継承の争いが起こり、ヒミコが推す第一王子の日子(ヒルス)に対抗すべく、第四王子の狗智日子(クチヒコ。これも三白眼)が、ヒルメとイヨを伊都国に連れてきて、イヨが争いに巻き込まれるというもの。

唯一、ヒミコが老女でありながら、美貌を失わず、厩戸王子のイメージに近いが、彼女には厩戸が持つほどの強い超常能力はなく、動物の骨を焼いて吉兆を占うことにとどまる。

また、「日出処の天子」のような登場人物間の恋愛模様はなく、むしろ、ヒミコに象徴されるシャーマン(巫女)に支配される女の政治から、権謀詐術を繰り出すクチヒコのような男の政治に取って代わられる現実的な政治への移行の過程を描いている点で、本当にこれは少女漫画なのかという別の意味での驚きを感じた。

「日出処の天子」から十五年経ち、成長した創作者として「同じ作品は描かない」という作者の強い意思を感じる。






2020年5月4日月曜日

神曲 地獄篇 第1歌~第17歌 ダンテ・アリギエーリ/須賀敦子/藤谷道夫 訳

須賀敦子が上智大学の助教授になる前、イタリア語を覚え始めた藤谷道夫氏に「神曲」の読み方をレクチャーする際に使った彼女の自習用ノートの訳を基に、「神曲」の詳細な注釈と解説が記されている。

西暦1300年4月4日、「人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき」、ダンテは暗い森の中をさまよい、詩人ウェルギリウスに出会い、彼に導かれながら、地獄降りをはじめる。

ダンテの描く地獄はとても観念的で、原罪、愛欲、食悦、貪欲・浪費、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒、異端、暴力、自己破壊、男色等々、罪の重さによって地獄圏が異なり、罪人の罰せられ方も違う。

そして、これらの地獄には、旧約聖書、聖書、ギリシア神話の人物、エピソードが登場し、この「神曲」一冊を読むだけで、実質的にこれら3つの物語を読んだことになる。

今回は、須賀敦子の訳詩の美しさにとどまらず、藤谷道夫が付けた濃密な注釈と解説に魅入られてしまった。

詩の一行一行に、日本人の感覚とは相容れない西洋的倫理観が隠されていて、その意味を明らかにしていく過程が読んでいて実にスリリングだ。