2018年9月24日月曜日

佇むひと/筒井康隆

ビタミンAからZまでのエピソードをインデックス形式で並べた「ビタミン」や、情報が伝聞されていくうちにデマに代わっていくプロセスを描いた「デマ」など、実験的な内容の短編小説より、「佇むひと」のような作品のほうが個人的には好きだ。

人や犬や猫が地面に植えられた植物のような存在に変えられてしまう物語。犬や猫は食糧不足や緑化のために「犬柱」、「猫柱」にされ、社会に批判的な言動を行う人間は「人柱」にされてしまう。作家である主人公の妻も政府を批判する言動を他人に密告され、金物屋の道路ぎわに植えられてしまう。

徐々に人間らしさを失くし、植物に変わっていく妻を諦められない主人公。
言論統制、全体主義的な社会を批判している作品にも思える。

それにしても、筒井康隆は、夫婦(相思相愛の男女)の愛情関係を描くのがうまい。


2018年9月22日土曜日

万引き家族/是枝裕和

樹木希林が死んだせいもあったのだろうか、普段なら絶対に見ないであろう映画「万引き家族」を見た。

この映画に出ている俳優の魅力が溢れんばかりに伝わってくる作品だと思う。

樹木希林演じる祖母役の年寄り独特のずるさとやさしさ。
リリー・フランキー演じる父親役のだらしないやさしさ。
安藤サクラ演じる母親役の色っぽさとやさしさ。
子役もすばらしかったと思う(特に虐待されてこの家族に保護された女の子)。

小栗康平の「泥の河」と似たタッチを感じた。

個人的に不満だったのは、安藤サクラ演じる母親が、現実の壁にぶち当たり、この”偽家族”の終わりを宣言してしまったことだ。

たとえ嘘でもいいから、”偽家族”の復活を誓うべきだったのでは、もったいない...と思ってしまったのは、この不思議なやさしさに満ちた”偽家族”に魅せられたからかもしれない。


2018年9月21日金曜日

フェミニズム殺人事件/筒井康隆

今、この題名を読んで時代を感じるのは、やはり「フェミニズム」という言葉だろう。

今の潮流で言うと、耳につくのは「ジェンダー」「ジェンダーフリー」であって、「フェミニズム」という言葉は、少なくとも公の場では滅多に聞かなくなった。

女性への性差別の解放から、男女の性差別の解放に範囲が拡大されたということなのだろうか。

しかし、この作品は、1989年の作品なのだから、その違和感はしかたがない...と思いつつ、その「フェミニズム」という言葉にすら、名前負けしている感が否めない。

主人公の小説家 石坂が自分の小説のあらすじのなかで、文芸批評としてのフェミニズムを会員制ホテルに泊まったセレブ系の人々に話すところまでは、まだいいとしても、以降の殺人事件をめぐる物語は、はっきり言って、火サスの世界である。フェミニズムを主張する気の強い美女は出てくるが、タイトルにするほどの重みを感じない。

否定的な見解が続くが、推理小説としても難があるのを感じる。被害者がどんどん増えていくのは面白いが、犯人が誰かもわからないのに、事件に巻き込まれた当事者たちが宿泊を続けることや、犯人が三人もの宿泊客を殺すリスクが私には正直ピンとこなかった。


2018年9月19日水曜日

最高級有機質肥料・腸はどこへいった/筒井康隆

どちらも読むのは覚悟がいる短編かもしれない。
人間の排泄物についての物語だからだ。

「最高級有機質肥料」は、ミトラヴァルナという惑星に大使として赴任した男の悲劇だ。
彼の前任の大使は皆、栄養失調かつ自閉症になって地球に戻っていたが原因が分からない。それでも、男は、行けば上役の美しい娘と付き合える特典に目がくらみ、惑星に赴き、植物から進化したミトラヴァルナ人の首相や大臣たちに豪奢な料理で歓待される。
腹一杯になり、なぜ前任者が栄養失調になったのか不可解に思う男に、首相が目を輝かせて会いに来るのだが…という物語だ。

結局、男も自閉症になってしまうのだが、彼の偉いところは、子孫たちに対して、人間の排泄物を「汚物」として教え込まないほうがよいという提言を報告書にまとめるところだ。しかし、上役の美しい娘に対して何も感じなくなってしまうという悲劇が妙に共感できる。

「腸はどこへいった」も、奇妙な話だ。トイレに入って英単語を覚えることが得意な男が、英単語に気を取られているうちに、自分が3ヶ月もの間、大便を全くしていない事実に気づく。にも関わらず、男の健康状態は至って良好。

原因は彼が腸捻転を患った時に、外科医のおじが施した手術にあることが分かる。それは、メビウスの輪のように彼の腸が別の宇宙につながってしまっていたのだ。男はおじに腸を元どおりに戻すことを頼み、その願いは実現するのだが別の宇宙に隠れていた彼の大便が…という物語だ。

清潔好きで気の弱い方は読まないことをお勧めする。
夢でうなされるかもしれない。






2018年9月16日日曜日

カメロイド文部省・火星のツァラトゥストラ/筒井康隆

どちらも、地球で書かれた小説を地球外の惑星で盗作することを仕事とする男たちの話だ。筒井康隆のパロディ気質が遺憾なく発揮されていて楽しい。

「カメロイド文部省」は、小説を書くことを請われた主人公が、宇宙の僻地 カメロイド星に妻とともに赴き、地球では名作といわれる小説「レ・ミゼラブル」「罪と罰」「チャタレイ夫人の恋人」の盗作を書こうとする物語だ。
しかし、カメロイド星には、日本の文科省の役人のような通俗的道徳感に支配されている同星の文部省の役人がいて、物語の内容(悪人、殺人、不倫)が社会に好ましくないことを理由に、執筆を拒否されてしまう。
カメロイド星の悪口を書かれることを恐れ、主人公と妻を閉じ込めようとする役人たちから逃れようとする二人(というか妻がすごい)の脱出方法が笑える。

「火星のツァラトゥストラ」は、火星の植民地で、古典文献学教授 カン・トミヅカ氏(どこかで聞いた名前)がニーチェの「ツァラトゥストラ」を「誰にでも分かる哲学」風に軽い文章で翻訳し、流行らせるという物語だ。
さらに偶然見つけた「ツァラトゥストラ」風の男をアイコンに使い、「ツァラトゥストラ」をさまざまな手法により商業的に徹底して使い倒す手法は、まるで80年から90年代の日本の社会を風刺しているようにも思える。
しかし、この作品1966年に書かれているところが実はすごいことなのかもしれない。


2018年9月15日土曜日

たそがれてゆく子さん/伊藤比呂美

出だしから、惹きつけられて買ってしまった。
なぜか知らないが、最初、小説だと思ったのだ。
ご無沙汰してました。ご無沙汰していた間、ずんずん老いていきました。つい先日には六十歳になりまして。肉体はたるみ、顔も首も皺だらけ。吊り目だった目は垂れ目になり、生え際は全部白い。
この老いに対する容赦のない描写。この後もっと続くのだが、自分の老いをここまでさらけ出してリアルに書ける人は、そうはいない。

詩人でもある伊藤比呂美さんのエッセイ。

ほとんどが、老い、介護、死、孤独に関する話なのだが、読んでいて不思議に元気をもらった気分になるのは、この人の持つパワーが伝わってくるせいだろう。
(だいたい、六十近くの人がズンバを踊るなんて初めて聞いた)


2018年9月10日月曜日

青の洞窟の怪・ブラジル猫/コナン・ドイル

「青の洞窟の怪」は、肺結核で死んだ医師が残した手記に、治療のために訪れた高原の農場で、ローマ人が掘ったといわれるムラサキホタル石が採掘できる洞窟の噂を聞く。その洞窟の周りでは、真っ暗な晩に羊が姿を消し、洞穴に血がついた羊毛のかたまりがみつかっているという不気味な話だった。

好奇心が強い主人公は洞窟に入り込み、奥へ奥へと進むが、誤って洞窟の中の川に落ちてしまう。濡れたマッチが乾くのを待つうちに、巨大な重量と思われる生物の足音を聞く...という物語だ。

コナン・ドイルの小説は、シャーロック・ホームズの物語でもそうだが、いかに非科学的な事を実証できるか、説明できるかどうかを、かなりしつこく描写・立証していく。まるでワトソン博士のような地味でしつこい執着心を感じる。

「ブラジル猫」は、この短編集中、最もクオリティの高い掌編と言っていいだろう。
叔父のサザートン卿の遺産の第一承継者でありながら、存命しているため貧困にあえぐ青年が、ブラジル帰りの財産家の従兄弟の邸宅に招かれる。

そこで、青年は従兄弟に厚遇されるのだが、何故か、従兄弟の細君には、ひどく嫌われる。そして、ブラジルで見つけたというトミーと名付けられた美しいけれど凶暴な黒猫を見せられる。

そして、青年が借金の工面を従兄弟にお願いした夜、従兄弟は、トミーを飼っている部屋に青年を閉じ込め、檻からトミーが放たれる...という物語だ。

肉食獣の兇暴さが、くさい獣の臭いと俊敏な動きで見事に表現しており、檻の中で青年がいかに自分の身を守るかという緊張したシーンは読みごたえがある。

青年に冷たくした細君の意外な告白と、相続の意外な結末も面白かった。






2018年9月9日日曜日

短編小説講義/筒井康隆

筒井康隆が1990年に書いた「短編小説講義」を読む。
時期としては、「文学部唯野教授」が騒がれていた時期なので、唯野教授風の軽いタッチで説明しているのかと思ったら、意外とまじめな内容だった。

今読んでも、古びた印象がなく、むしろ新鮮に感じたのは、事例として扱った短編小説のどれもが、なじみがないもので、古典といってもよい時代の作家の作品を扱っているせいだろう。
それぞれの作品の着眼点も面白い。

ディケンズ「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」
 作品冒頭の書き出しの戸惑いが、主人公が釈明に苦心している印象を与えている

ホフマン「隅の窓」
 ちょっと見ただけの人物を辛辣に批評し、そこからさまざまな想像を過激に働かせて類型や典型を造形してしまう、何を書いてもかまわない「小説」の自由さを有利に応用した例

アンブロウズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」
 「意外な結末」という拘束と「死」というテーマを貫ぬくという拘束、この二重の拘束が最も効果的に発揮された作品

マーク・トウェイン「頭突き羊の物語」
 トウェイン自身が口演していたことを想像しながら読む。また、彼の精神が後半生では、深い深いぺシミニズム、救いようのないニヒリズムに満たされていることを見落としてはならない。

ゴーリキー「二十六人の男と一人の少女」
 通常は個性の描き分けが必要とされる小説にあって、二十六人(地下のパン工場で働く男たち)を一様のものとして描いており、ゴーリキーはこの書き方によって、こうした環境の中にいる者がいつしか同じような抑しひしがれた感情を持ち、似たような視野の狭い考え方を持つにいたることを表現しようとしたのだろうが、きわめてリアリスティックな効果を齎すと同時に、手法としても新しさを持っているという結果となった。

トオマス・マン「幻滅」
 凡人の眼からは「ほんのちょっとした感覚」としか思えないものをとりあげ、その感覚にとりつかれた人物を典型として造形し、その人物の姿を借りて徹底的に突きつめ、観念の域まで至らしめたこと

サマセット・モームの短編小説観
 これだけ自覚的に自分の短編小説作法を決定し、主張した作家は珍しい。場所は一定、人物は数人、そしてある一定時間内に事件が起こり、終わる。ひとことで言うならこれは短編小説の作法というよりも一幕劇の作法なのである。

ローソン「爆弾犬」
 スラップスティック(ドタバタ・ギャグ)の定石。まず「設定」、構造主義のいわゆる「後説法」。ロシア・フォルマリズムで言う「遅延」「妨害」のテクニック。

文中からにじんでくるのは、筒井康隆が批評家としての一面を持ちつつも、それを上回る小説家的意欲がいかに大きいか、すなわち、従来の小説作法を乗り越え、新しいものを書きたいという思いが、ふつふつと伝わってくる講義集だと思う。

2018年9月6日木曜日

新しい地下墓地・サノクス令夫人/コナン・ドイル

「新しい地下墓地」は、ケネディとビュルガーというローマ遺跡を研究している二人の考古学研究者が登場人物。

ビュルガーの部屋に置いてあった珍しい蒐集品をみた友人のケネディが、新しい地下墓地をビュルガーが発見したことに気づき、その場所を教えてほしいと頼む。

ビュルガーは、地下墓地の場所を教える代わりに、奇妙なことをケネディに要求する。
それは、ケネディが起こした恋愛の醜聞の詳細を話してほしいということだった。

そして、話を聞き終わった後、ビュルガーは、真っ暗な地下墓地にビュルガーを案内するのだが...という話だ。

結末は読んでのお楽しみだが、友人同士の二人が、こんな事に気づかないことなんてあるのかと思ってしまう点が、唯一の欠点かもしれない。

「サノクス令夫人」は、外科医のダグラスと不倫関係にあるサノクス令夫人の夫 サノクス卿が、二人に復讐するという話だ。

これも読んでのお楽しみだが、サノクス卿の考えた復讐の方法はかなり怖い。

シャーロック・ホームズ シリーズでは、男女関係のもつれが犯罪に至るというありふれた事件があまりなかったということに、この2つの短編を読んで今さら気づく。

2018年9月3日月曜日

大空の恐怖・皮の漏斗/コナン・ドイル

コナン・ドイルの恐怖小説を読む。

「大空の恐怖」は、大空で数多く起こっていた遭難事故の原因を突きとめるため、飛び立ち、帰らぬ人となった一人の航空士が残した文書に、空に住む未知の怪物との遭遇が書かれていた...というSFチックな小説だ。

航空機の創世記、数多く発生する遭難事故にヒントを得たものであろうが、今や、単なる移動空間と化した空に未知の世界をイメージできた時代があったのだという貴重な小説だと思う。

この命を絶った航空士が、資産家で自分の趣味の航空関係にお金をつぎ込み、人間嫌いで奇人のような振る舞いをするが、航空士としての能力はピカ一というあたりは、シャーロック・ホームズを髣髴とさせるものがある。

「皮の漏斗」は、主人公が、やはり資産家で怪奇性や神秘的な骨董を収集する友人の家に泊まった時のエピソードだ。

主人公は、友人宅で泊まった際、使用用途が分からない革製の大きな漏斗(じょうご)を枕元に置き、夢見をしてみてはどうかと誘いをかけられる。そして、主人公は夢の中で、中世時代、その漏斗が実際に使われている恐ろしい場面を目撃する..という怪奇小説的な内容だ。

途中まで、まるで、エリアーデの幻想怪奇小説を読んでいるような気分になったが、コナン・ドイルの場合、推理小説のように理路整然とした謎解きを進めているため、恐怖に必要以上に深入りしない健全な物語運びになっている。人によって好き嫌いはあると思うが、そのせいで個人的には恐怖という点では物足りないものを感じた。


2018年9月2日日曜日

お紺昇天/筒井康隆

1964年12月の著者の作品。
しかし、今読んでも作品の質は落ちていないと思う。

車に搭載されたAI(人工知能)お紺との愛。
彼女は老朽化のため、スクラップ工場で壊される運命にある。
主人である私に理由を言わず立ち去ろうとするが、真相がばれてしまう。

お紺との別れを何とか引き延ばそうとする私と、スクラップ工場までついてこようとする主人を気遣うお紺との会話。
まるで人間の恋人同士のやり取りのように、相思相愛感が漂う。

平井和正の初期の作品「レオノーラ」(1962年)も、女性アンドロイドが契約により主人の元を離れることになってしまう物語だが、結末の方向性がまるで違う。

54年前の作品だけれど、この作品で筒井康隆のファンになってしまったような気がする。


2018年9月1日土曜日

誰にもわかるハイデガー/筒井康隆

筒井康隆が、1990年ごろ、胃に穴が二つあいて、死を感じた時に、入院先の病室で1か月かけて、ドイツの哲学者ハイデガーの哲学書「存在と時間」を読み終え、その難解な内容を自署「文学部唯野教授」の語り口を使って、分かりやすく説明しようとした作品だ。

唯野教授の説明を聞いて、私の理解が正しければ、この哲学書は、人間と死の関わり方について考察している。簡単に3つにまとめてみよう。

①人間(現存在)は、自分が死ぬと知っているから、何より自分を気遣う。自分を気遣うだけではなくて、周りの道具、例えば、机、いす(道具的存在者)も気遣う(配慮的気遣い)。そして、自分以外の他人(共現存在)に対しても自分を顧みての気遣いをする(顧慮的気遣い)。

②現存在は、死を忘れようとするため(非本来性、頽落)、共現存在(世人)と空談や空文(どうでもいい話)を交わす。また、美味しいものを食べに行ったり、海外旅行に行き、珍しいものを見ること(好奇心)によっても死を忘れようとする。これらによって、本人が安らぎを得たり、有意義な生活を送っている自覚が生じ、生き生きとするため、本来性か非本来性の区別がつかなくなる(曖昧性)。

③しかし、現存在には、だれでも死を思い出すきっかけ(不安)が訪れる。その不安が訪れた際、世人との関係が崩壊し、今までの安らぎがなくなってしまう。
現存在は、良心のよびかけ(不安)によって死ぬ前に先駆けて(先駆)、本来的に死ぬことを了解しようとする(先駆的了解)ことができる。
現存在は先駆けて、死という可能性を目指して、本来の自分へとたどり着き、自分が死ぬことがはっきりと分かる(到来)。そして、自分が生まれてきてから今まで何をやってきたかを了解すること(既在)によって、自分が既在してきた本当の意味を取り返す。そして、また現在に戻ってくる(現在化)。このプロセス(未来を見て、過去を振り返り、現在に戻ってくる)は順番に来るのではなく、いっぺんに来る(時熟)。

まとめてみて思うのは、上記③の内容になると、ほとんど宗教的といってもいい内容に足を踏み入れているということだ。
「到来」「既在」「時熟」のあたりは、一種の悟りといってもいいだろう。

ハイデガーが三十七歳にして、これだけ”死”を意識した人間存在の解釈を記述した「存在と時間」を書いたのはなぜだろうか。彼が師のフッサールと異なり、死を思い出す契機となる“不安“を重要なものとして捉えていたということは、それだけ、彼の身近に不安が多かったからかもしれない。「存在と時間」が発表された1927年は、時代的にもナチスが台頭し、戦争の恐怖は間近にあった。

この20世紀最大の哲学者とも呼ばれるハイデガーの思想を分かりやすく説明してくれた唯野教授に感謝しつつ、いつの日か、その難解な著作を直に読んで見たいと思った。