筒井康隆が、1990年ごろ、胃に穴が二つあいて、死を感じた時に、入院先の病室で1か月かけて、ドイツの哲学者ハイデガーの哲学書「存在と時間」を読み終え、その難解な内容を自署「文学部唯野教授」の語り口を使って、分かりやすく説明しようとした作品だ。
唯野教授の説明を聞いて、私の理解が正しければ、この哲学書は、人間と死の関わり方について考察している。簡単に3つにまとめてみよう。
①人間(現存在)は、自分が死ぬと知っているから、何より自分を気遣う。自分を気遣うだけではなくて、周りの道具、例えば、机、いす(道具的存在者)も気遣う(配慮的気遣い)。そして、自分以外の他人(共現存在)に対しても自分を顧みての気遣いをする(顧慮的気遣い)。
②現存在は、死を忘れようとするため(非本来性、頽落)、共現存在(世人)と空談や空文(どうでもいい話)を交わす。また、美味しいものを食べに行ったり、海外旅行に行き、珍しいものを見ること(好奇心)によっても死を忘れようとする。これらによって、本人が安らぎを得たり、有意義な生活を送っている自覚が生じ、生き生きとするため、本来性か非本来性の区別がつかなくなる(曖昧性)。
③しかし、現存在には、だれでも死を思い出すきっかけ(不安)が訪れる。その不安が訪れた際、世人との関係が崩壊し、今までの安らぎがなくなってしまう。
現存在は、良心のよびかけ(不安)によって死ぬ前に先駆けて(先駆)、本来的に死ぬことを了解しようとする(先駆的了解)ことができる。
現存在は先駆けて、死という可能性を目指して、本来の自分へとたどり着き、自分が死ぬことがはっきりと分かる(到来)。そして、自分が生まれてきてから今まで何をやってきたかを了解すること(既在)によって、自分が既在してきた本当の意味を取り返す。そして、また現在に戻ってくる(現在化)。このプロセス(未来を見て、過去を振り返り、現在に戻ってくる)は順番に来るのではなく、いっぺんに来る(時熟)。
まとめてみて思うのは、上記③の内容になると、ほとんど宗教的といってもいい内容に足を踏み入れているということだ。
「到来」「既在」「時熟」のあたりは、一種の悟りといってもいいだろう。
ハイデガーが三十七歳にして、これだけ”死”を意識した人間存在の解釈を記述した「存在と時間」を書いたのはなぜだろうか。彼が師のフッサールと異なり、死を思い出す契機となる“不安“を重要なものとして捉えていたということは、それだけ、彼の身近に不安が多かったからかもしれない。「存在と時間」が発表された1927年は、時代的にもナチスが台頭し、戦争の恐怖は間近にあった。
この20世紀最大の哲学者とも呼ばれるハイデガーの思想を分かりやすく説明してくれた唯野教授に感謝しつつ、いつの日か、その難解な著作を直に読んで見たいと思った。
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