筒井康隆が1990年に書いた「短編小説講義」を読む。
時期としては、「文学部唯野教授」が騒がれていた時期なので、唯野教授風の軽いタッチで説明しているのかと思ったら、意外とまじめな内容だった。
今読んでも、古びた印象がなく、むしろ新鮮に感じたのは、事例として扱った短編小説のどれもが、なじみがないもので、古典といってもよい時代の作家の作品を扱っているせいだろう。
それぞれの作品の着眼点も面白い。
ディケンズ「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」
作品冒頭の書き出しの戸惑いが、主人公が釈明に苦心している印象を与えている
ホフマン「隅の窓」
ちょっと見ただけの人物を辛辣に批評し、そこからさまざまな想像を過激に働かせて類型や典型を造形してしまう、何を書いてもかまわない「小説」の自由さを有利に応用した例
アンブロウズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」
「意外な結末」という拘束と「死」というテーマを貫ぬくという拘束、この二重の拘束が最も効果的に発揮された作品
マーク・トウェイン「頭突き羊の物語」
トウェイン自身が口演していたことを想像しながら読む。また、彼の精神が後半生では、深い深いぺシミニズム、救いようのないニヒリズムに満たされていることを見落としてはならない。
ゴーリキー「二十六人の男と一人の少女」
通常は個性の描き分けが必要とされる小説にあって、二十六人(地下のパン工場で働く男たち)を一様のものとして描いており、ゴーリキーはこの書き方によって、こうした環境の中にいる者がいつしか同じような抑しひしがれた感情を持ち、似たような視野の狭い考え方を持つにいたることを表現しようとしたのだろうが、きわめてリアリスティックな効果を齎すと同時に、手法としても新しさを持っているという結果となった。
トオマス・マン「幻滅」
凡人の眼からは「ほんのちょっとした感覚」としか思えないものをとりあげ、その感覚にとりつかれた人物を典型として造形し、その人物の姿を借りて徹底的に突きつめ、観念の域まで至らしめたこと
サマセット・モームの短編小説観
これだけ自覚的に自分の短編小説作法を決定し、主張した作家は珍しい。場所は一定、人物は数人、そしてある一定時間内に事件が起こり、終わる。ひとことで言うならこれは短編小説の作法というよりも一幕劇の作法なのである。
ローソン「爆弾犬」
スラップスティック(ドタバタ・ギャグ)の定石。まず「設定」、構造主義のいわゆる「後説法」。ロシア・フォルマリズムで言う「遅延」「妨害」のテクニック。
文中からにじんでくるのは、筒井康隆が批評家としての一面を持ちつつも、それを上回る小説家的意欲がいかに大きいか、すなわち、従来の小説作法を乗り越え、新しいものを書きたいという思いが、ふつふつと伝わってくる講義集だと思う。
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