2019年12月15日日曜日

イタリアの詩人たち/須賀敦子

須賀敦子の文章は、ちょっと読んだだけでもその世界に引き込む力がある。

彼女の訳を通して、イタリアの作家を、イタリアの詩人を、その作品を知るのだけれど、いつも、その世界に心惹かれてしまうのは、須賀敦子という透明度の高い光をよく通すレンズのせいだと思う。

ウンベルト・サバというユダヤ人の項。ちょっと読んだだけなのに、いきなり、追い立てられる日本の日曜の午後の時間から、イタリアの片田舎の街並みとその風景に溶け込んだ詩人の思いに連れていかれる。
トリエステには 乱暴な
優しさがある たとえば
硬い実のようで 欲ふかい無骨な少年に
似ている 眼が碧くて
花束を捧げるには 大きすぎる
手をした――
嫉妬まじりの
愛にも似ている
ウンベルト・サバの詩に魅せられ、トリエステの街を実際に歩いた須賀敦子のことばが、とてもいい。それは、あらゆる文学作品に魅い入られた読者がその思いだけで赴いた場所で味わう達観のようなものなのかもしれない。
――サバの詩は、まんまと私を騙しおおせていたのに違いない。そして長いあいだ私のなかで歌いつづけてきたサバのトリエステは、途方もない拡がりをもつ一つの宇宙に育ってしまっていて、明るい七月の太陽のもとで、現実の都市の平凡な営みは、ただ、ひたすらの戸惑いをみせているにすぎないのだった。
この本から感じるのは、間違いなく確かな見識を持った批評家の鋭い眼なのだが、仮に、須賀敦子の書くエッセイの一種と言われてもあまり違和感を感じないのは、やはり、紹介する詩と詩の間にはさまれた上記のような文章から、どうしようもなく彼女らしさを感じてしまうせいだと思う。