2012年4月27日金曜日

1999/R.Tamura

ハードカバーの詩集を買ったのは、後にも先にもこれだけだ。

田村隆一の「1999」

90年代は、あまり、いい思い出がないが、この詩集は折に触れてページを開き、
田村隆一のライト・ヴァースなことばを楽しんでいる。

そして、自分は 二十世紀の世紀末を潜り抜けたのだなと、なんとなく不思議な感じを覚える。

ロートレックが稲妻のごとく仕上げた油彩と三百点の石版。
十九世紀は「人間」の最後の世紀。
詩人は、十九世紀以外に「世紀末」はないという。

そして、二十世紀の帝国主義を蟻のコロニイにも感じ、詩人は、女王蟻その姉妹、雄蟻、働き蟻の過酷な運命を描く。
ギリシャ神話では
アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき
ゼウスは蟻をその住民に変えたという
さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999
田村隆一は、この詩集を発表して間もなく亡くなった。

私が唯一、二十世紀の世紀末の匂いを感じる詩集「1999」

2012年4月25日水曜日

プラトンの箴言

言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、
それを理解する人々のところであろうと、
ぜんぜん不適当な人々のところであろうと
おかまいなしに、転々とめぐり歩く。    プラトン/『パイドロス』

プラトンは、今のような時代を予見していなかったのでしょうが、
ネット時代にぴったりの言葉だと思う。

言葉がひとり歩きすると、よく悪い風な言い方をされますが、
私は、この箴言を読んだとき、逆に言葉の持つ、よい意味での強さを感じました。

2012年4月16日月曜日

牛丼屋で思うこと

いきなりだが、横浜市立図書館を、よく利用している。

その横浜市立図書館に行くときには、京浜急行の「日の出町駅」を利用することになるのだが、この道のりが結構ガラが悪い(といっては偏見か)。

早い話が場外馬券場が近くにあり、競馬新聞を持ったおじさんや、赤鉛筆を耳に指したおじさんをよく見かけるのだ。ストリップ小屋も近くにある。

そういう雰囲気の街並みを抜けて坂道を登り、図書館に近づくにつれ、野毛山の緑が近くなり、なんとなく、空気が澄んでいく感覚が味わえるところが好きだ。

その清濁いりまじった街の濁の方に、牛丼のお店があって、たまにおじさん達に混じって牛丼を食べたりする。

その牛丼のお店の店員さんのほとんどは言葉つきからして中国系の女性なのだが、競馬に負けて機嫌のわるいおじさんにめげずに対応している姿や、メニューにはない「つゆだく」のオーダーに応えている姿を見ていると、不思議といつも、

「グローバル化と女性の活躍」

を考えてしまうのだった。

でも、21世紀は間違いなく、この2つの流れが、さらに進んでいくのでしょうね。

2012年4月15日日曜日

酔郷譚/倉橋由美子

吉田健一のエッセイか何かに、ドライ・マティーニの口あたりのよさから、何杯かお代わりしたら、翌日、酷い二日酔いになってしまい、カクテルという飲みものは安い酒を混ぜて作るものだからと作者が納得する文章があったような気がする。

それを読んだとき、カクテルもそんなひどいお酒ばかりではないと反発する自分を感じながらも、半分は納得する自分を感じていた。

カクテルというお酒は、ロングドリンクなら、まだしも、そうそう何杯もお代わりできるお酒ではない。
自分の経験から言っても、カクテルを飲みすぎた日は、だいたい、記憶をなくしているか、翌日、二日酔いになることが多い。
(最近、コップ一杯の水も頼んでおいて、チェーサー代わりに合間合間で飲んでる人をよく見かけます。意外と効果があるようです)

とくに桜の咲くころ、花びらが雪のように落花するなかで、おいしいカクテルを飲んでいたら、と夢想すると、妖しい気持ちになってしまう。
しんとした暗い夜で周りがうるさくないというのが絶対条件だけれど。

倉橋由美子の遺作「酔郷譚」では、まさにそんな情景が描かれていて、九鬼という得体の知れないバーテンダーが作り出す特製のカクテルを飲みながら、主人公の慧君が妖しい世界に足を踏み入れていく幻想的な作品だ。

慧君の「酔態」の説明がいい。
酔いを覚えると、最初は恐ろしく解像度の高い広角レンズで世界を見るような具合で、何もかもが細かくにぎやかに見える。 口がなめらかに動き、一見才気煥発的になる。
それからだんだんと望遠レンズの見え方になってくる。
限られた部分だけは拡大されて見える。
さらに酔いが進むと、焦点が合いにくくなって、像がぼやけはじめる。
もっと酩酊が深くなった時に、突然、視野の真ん中に穴が開く。
それは桃源郷に通じる穴のようなものに当たる。そこから入っていくと酔郷がある。
でも、難しいですね、
落とし穴という意味で、穴はいたるところに開いているような気がするけれど。

行く春に、お酒を飲みつつ、「酔郷譚」を読みながら、時間がゆっくりと過ぎていくのを感じるだけでも贅沢かも。

2012年4月3日火曜日

死んだ友を思う

部屋の掃除をしていたら、懐かしい写真を見つけた。

10年以上前に死んだ友達が一緒に写っていた。

写真にうつる若い自分と友達を見て、最後に会った日を思い出した。
また、会おうと言いながら、それから3年以上、会っていなかった。

あれから、ずいぶんと時間が経ったけれど、自分は一体何をしてきたのだろうか?

カフカのことばに、こんな一節がある。
出会いがあり、交わりがある
別れがあって、そしてしばしば再会はない。
次に会える保証なんて、どこにもない。

その時が最後の別れになっても悔いが残らないように。