2020年1月19日日曜日

マーシェンカ/ナボコフ

ナボコフの最初の長編小説といわれる本書。
ベルリンの亡命ロシア人が集う下宿屋に住む二十五歳のガーニン。恋人のリュドミーラとの関係にも飽き、倦怠感がただよう下宿屋にも嫌気がさしていたころ、隣の部屋に住みだしたアルフョーロフの部屋で、まもなくベルリンに出てくる予定であるという彼の妻の写真を見せられる。
それは、ガーニンが十六歳の時の初恋の相手 マーシェンカだったという物語だ。

それから、ガーニンが追憶する十六歳のマーシェンカの姿や恋愛が描かれるのだが、このあたりの描写は、後の作品「アーダ」にも似ているし、現在のマーシェンカの姿というより、少女の時の彼女への思い以外描かれていないという意味でも、後の「ロリータ」につながるような要素があふれている。「亡命者」という設定もそうだ。

本書でも細緻な技法がさまざまに用いられていることが解説に書かれているが、おもしろいのは、ナボコフが本書を「イモムシ」と呼んでいたことだ。
まだ蝶に成長しきれていない幼虫のような作品だったということをナボコフ自身、認めていたということだろう。

そして、ある意味、衝撃のラスト。
しかし、ガーニンの決断は賢明なものだったのではないかと思う。
ラストシーンで感じられる過去より前に向かっていくガーニンの姿は、妙にすがすがしくて、ナボコフ作品のなかでは特別なものに感じられる。


2020年1月12日日曜日

レベレーション - 啓示 - 5/山岸凉子

本刊では、次第に運気が下降していくジャンヌが、ついに敵方に捕らえられてしまう。
彼女が絶頂期にいたランスの戴冠から1年も経っていないのに、この運命の変わりよう。

そして、彼女の人気と勢いを今まで利用してきたシャルル7世やその異母ヨランド、大司教たちは自らの保身と政略から、捕らわれた彼女を見限ってしまう。
結末が分かるだけに、読んでいて少しつらい。

まだ続いている啓示の声「すべてを受け入れよ」「汝は解放される」が意味深だ。

個人的に興味をそそられたのは、ジャンヌが二度も牢獄から脱出を図ったこと。
シーツを破いてつなぎ合わせてロープ代わりにして、二十メートル近い高さの塔の部屋から逃げようとするのだが、重みに耐えかねてシーツは切れてしまう。
山岸凉子は、シーツを握りしめたまま、奈落の底に落ちていくようなジャンヌを描いている。

印象的といえば、敵国のイギリスに引き渡され、牢獄に入れられたジャンヌが自身の純潔だけは守りぬこうと決意する場面も。

男装と処女性は、彼女にとって神に選ばれし者であることを証明する最後の砦だったのかもしれない。

彼女を待ち受ける異端審問が今後の見どころになるのだろうか。


2020年1月11日土曜日

イタリアの詩人たち/須賀敦子 その2

本書は、イタリアから日本に帰国した須賀敦子が初期に書いた作品らしいが、そのクオリティの高さと文章の一部に抑えきれないように噴き出す情熱のような激しさが随所に感じられ、読んでいて飽きない。

例えば、これは、一片の詩のような趣がある文章だ。
...老いた詩人は、長い夕暮の道を、ゆっくりと辿りはじめる。なんという長い臨終の季節だったろう。...晩年のウンガレッティは、復活を信じて、自らの吐く白い糸で、薄明の繭に、このうえなく楽観的な幽閉を実現してゆく、哀しくて高貴な幼虫のいとなみを想像させる。(ジュゼッペ・ウンガレッティ)
これは、文明批評。
...いにしえの日に、アレキサンドリアの図書館の火事が、ほとんど象徴的に、古代の文化を葬り去ったように、いま商業主義の猛火が、すべての価値観を浸蝕し、人類が本質的にうたを喪失しはじめたことに...(エウジェニオ・モンターレ)
これも批評(どちらかというと辛辣な)なのだが、なんて美しい言葉で批評するのだろう。
...燃えつづける生命の火のかわりに、クワジーモドが盗んだのは、まさに火花だったのではなかったか。人間の崇高な運命や実存については、一言の約束をも用意してくれぬままに、彼の栄光は、光と風の爽やかな錯覚に彩られた、言葉だけの透明な世界――水子の 儚さにも似た世界にしかもとめられない。(サルヴァトーレ・クワジーモド)