2012年11月26日月曜日

「脱原発」は大衆迎合か?

11月25日の読売新聞の朝刊の社説は、読んだ後、なかなか心から離れなかった。
内容が感銘的なものだったからという訳ではなく、自分の考えと正反対の考えが述べられていたからだと思う。

社説では、「懸念されるのは脱原発を掲げる政党が目立つことだ。国民の不安に乗じて支持拡大を狙う大衆迎合ではないか」と述べられていて、民主党が政権公約(マニフェスト)に、2030年代の「原発ゼロ」を盛り込んだことについて、「経済への打撃を軽視した、欠陥だらけの「戦略」をそのまま公約するのは問題だ」と切り捨てている。

その一方で、自民党の安倍総裁が民主党の「原発ゼロ」方針を「極めて無責任だ」と批判したことを妥当な姿勢と称揚しつつ、民主党政権の「脱原発路線」の影響で、火力発電所の稼動に必要な液化天然ガス(LNG)など燃料の輸入が急増し、年3兆円が支出され続けており、工場が海外移転する産業空洞化も加速し、国内雇用は危機に直面している」ことを憂えている。

そのほか、太陽光や風力など再生可能エネルギーが、すぐに原発に代わる主要電源に育つと見るのは甘すぎるといった考えも述べられていたが、ちょっと驚いたのは、以下の一文である。
日米原子力協定で認められているプルトニウム保有という特別な権利も、アジアにおける米核政策のパートナーの地位も、日本は同時に失う恐れがある。外交・安全保障の観点からも、安易な「脱原発」は避けるべきである。
これは明らかに、原子力の持つ核抑止力を手放さないほうがよいという考え方で、最近も、維新の会の石原代表が、日本は「核兵器に関するシミュレーションぐらいやったらいい」と発言したことにも共通している。

ここまで読むと読売新聞の社説は、ある意味わかりやすい。
原発事故を受けて、不安に思っても「原発ゼロ」なんかを主張するのは現実的ではない。それより、経済と軍事的な面を重視すべきである、という考え方だ。

しかし、あの原発事故があってからまだ一年と八ヶ月を過ぎた時点で、脱原発の政策を大衆迎合だと切り捨てる感覚には正直、違和感を覚えた。

福島の原発の廃炉工程もまだ安全な状態とは言い切れず、除染で出る汚染土などを保管する中間貯蔵施設の設置場所もめどが立っていない。
原子力規制庁もできたが、放射性物質の拡散予測ではミスが続出し、稼動中の大飯原発の活断層問題もクリアにできていない。

そんな状態で、原発を再稼動すべきだという考え方のほうがどうかしているのではないだろうか。

明治時代の富国強兵を思わせる力強い国家論で、嘘をオブラートで包み隠そうという卑しさがないところは評価する。

しかし、一方で、この社説を書いた人に、

「あなたとその家族が福島に住んでいたとして、あの事故を経験し、未だ被災地で暮らしていたとしても、この社説を起草することはできますか?」

と聞いてみたいという意地悪な気持ちがどうしても抑えきれなかった。

2012年11月25日日曜日

運転免許証の更新

最近、平日が忙しいので、運転免許証の更新手続をするため、十年ぶりに、運転免許試験場まで行った。
住んでいるところからちょっと距離があるのだが、見慣れない電車で見慣れない駅に降りて見慣れない町並みを十五分程歩く。

試験場に着くとすでに窓口には、多くの行列ができており、更新手続きの人は、①の窓口にならばなければならない。

①の窓口では、お巡りさん?らしき格好をした男の人に、住所変更の有無を確認され、無いと言うと、申請用紙、臓器提供のパンフレットと手続きの流れが書かれた地図をもらい、申請書の赤枠部分を記入してくださいと言われる。

②の手続きとして、申請書を記入。
手続きの地図をみると、全部で7つの手続きを済ませなければならない。やれやれ。

③で適性検査(視力検査)を受ける(視力がだいぶ悪くなっていてギリギリ裸眼でセーフ)。

④で暗証番号を設定する。
5年前ぐらいに、偽造防止のためにICチップを埋め込んだハイテク免許証に切り替えたようなのだが、ICチップを読み取り装置を持っている人が至近距離まで近づくと、そのICチップのデータに記録された個人情報を読み取られてしまうらしい。
それを防止するため、暗証番号が必要ということなのだが、何だか面倒。
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/menkyo/menkyo/ic/ic.htm

偽造防止のためだったら、そんな個人情報を抜き取られる恐れがあるICチップを埋め込まなくても、もっとやりようがあるのではと思ったりする。

⑤の窓口で収入印紙(優良だと3100円)を買い、スポンジで濡らして申請書に貼り付け、それを今度は⑥の窓口で受付してもらう。

それをもって、⑦の手続き、写真撮影があるのだが、ここで二十分ほど並ぶ。
たぶん、スカイツリーに入るより並んだような気がする。
待ちながら、こんな手続き、民間に委託すれば、土曜日や祝日も、複数の場所で受けられるようになるのではと考えて、そういえば、前に来たときも同じことを考えたということを思い出した。

申請書、暗証番号の紙、古い免許証を差し出して、ようやく写真撮影。5秒もかからないうちに終了。安全運転BOOKを渡され、「赤い線に沿って歩いて、3号館の301号室に行ってください」と言われる。足元をみると、緑と黄色、赤のラインが引いてある。

赤い線に沿って歩いていくと、建物を一旦出て、別館に行くことになる。教室の前に着くと、また、紙を渡され、免許証の受領書に日付と署名を書けとのこと。
うーん。まだあるのか。

11時10分から講習がはじまりますので、席についてください、と係りの人に言われて、教室に入るとすでに百人以上の人が座っていた。
席に座って講習が始まるのを待っていると、講習の係りの人がSDカードの説明をしていた。
旅館やレンタカーで割引を受けられますよ、という説明をしていたので、なんだそりゃという感じだったが、本当に割引があるらしい(何故、木下大サーカス?)。
安全運転者に対する一種のご褒美的なものなのかな。

ここで20分ビデオ、10分間はお巡りさんらしき格好をした講習員の人の説明を聞く。
前に更新手続きをした警察署では、ビデオを流している部屋で、時間があったら見ていってくださいというような、かなりいい加減なものだったが、周りの様子を見ても皆さんまじめに視聴されていた。
ビデオの内容や教本も、前に受講した際のものよりはポイントを絞った簡素なものになっている点は好感がもてた。

講習では、自転車の通行方法の説明もしていて、道路標識がないと、原則歩道は通行禁止ということと、知らなかったのだが、高校生が携帯を見ながら自転車を運転していて事故を起こし、5千万円の賠償を命ぜられた事件についても説明があった。

講習が終わると、一人の担当者が「読み間違えがあったらすみませーん」と前置きして、一人一人の名前を読み上げて免許証を交付していく。「サエキヒロトさん、いや、ヒロヒトさんかな?」
何かすごくアナログだなぁ。
そんなこんなで、七十番目ぐらいにようやく免許証を交付される。(写真が自分で見てもかなり不機嫌なのが分かる)

カフカの長編小説「失踪者」の中で、主人公のカールがオクラホマ劇場の採用試験を受ける際、色々な窓口で煩雑な手続きをするシーンが、ふと頭に浮かんだ。

たぶん次の更新の時も同じことを考えるのだろうなと思いながら、運転免許試験場を後にした。

2012年11月18日日曜日

野合とは

最近、太陽の党と日本維新の会などを取り上げるニュースで、「野合」という言葉が目につく。

あまり耳慣れない言葉だなと思って、広辞苑(第五版)の辞書を引いたら、

 男女が婚儀を経ずに通ずること。密やかに結びつくこと。

とあった。ン? 何かエロチック。


Weblioの隠語大辞典(そんな辞書があるんだ)には、より直接的な意味が載っている。
http://www.weblio.jp/content/%E9%87%8E%E5%90%88


ただ、デジタル大辞泉(小学館)では、「野合」についての説明の2つ目に、この場合に比較的意味が近いと思われる説明が載っている。
http://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%90%88

 共通するものもないばらばらの集団が、まとまりなく集まること

おそらく、与党的な立場から見て、蔑みの意味も込めて「野合」と呼ぶようになったのだと思いますが、今の与党である民主党も上記の「共通するものもないばらばらの集団…」に当てはまってしまっているため、半ば発言の意味を失っているような気がします。

「第三極」っていう言葉も何か大げさですね。
これは、広辞苑(第五版)には言葉そのものがありませんでした。

デジタル大辞泉(小学館)では、

政治、軍事、経済などの二大勢力に割って入り、あわよくば主導権を取ろうとねらう新興勢力

とありました。これも、単純に「新興勢力」でいいのでは?

新聞やテレビを見ると何かドラマチックな雰囲気にしようと努力しているのかもしれませんが、周りは冷めていて言葉だけ上滑りしている、そんな感じがします。

2012年11月17日土曜日

美しき停滞

前回取り上げた司馬遼太郎と井上ひさしの対談集「国家・宗教・日本人」は、1995年当時の対談だけれど、司馬遼太郎が、以下のようなことばで日本の発展は終わったという認識を述べている。

「もう、だいたいこれで終わりなんでしょう。日本のいわゆる発展は終わりで、あとはよき停滞、美しき停滞をできるかどうか。これを民族の能力をかけてやらなければいけないんです」

それから十七年経った今、客観的に見ても「日本の発展は終わった」という認識は間違いないと思う。

GDPでは、中国に抜かれ三位になり、ここ数年の外交でも日本の国力が落ちているのが実感としてわかる。

何より、時代の熱気のようなものがない。
対談集では明治時代、土木工学の最初の日本人教授になった古市公威がフランスに留学していたときに、猛烈な勉強をしていたときのエピソードが紹介されている。

下宿のおばさんに「少し休まないと体をこわしますよ」と言われた古市は「ぼくが一日休むと日本は一日遅れます」と答えたという。

今でもそれだけ勉強している人はひょっとするといるのかもしれないが、日本のためという意識で勉強している人は皆無ではないだろうか。

でも、それが自然なのだと思う。少なくとも今の日本は先進国であり世界第三位の経済大国だ。そんな国に暮らしていて、お国のためなどという観念はまず生じることはないだろう。

われわれにこれから必要なのはエネルギーをたくさん使った大量生産・大量消費に支えられた経済発展を目指す大きな国家ではなく、少ないエネルギーをやりくりして効率性を高める一方、重要な価値があるものだけを取捨選択し、必要性の低いものは切り捨てる小さな国家なのだろう。

当然、GDPなどの経済指標の数字は右肩上がりにはならない。しかし、その停滞を「悪」ととらえず、誇りをもって緩やかな後退の道筋をたどること、それが司馬遼太郎が言った「美しき停滞」の意味なのだと思う。

言わば、伸び盛りの夢見がちな青春時代が終わり、現実を見据えた大人への成熟が求められているということなのだろう。

NHKで衆議院解散のニュースを見ながら、そんなことをふと考えました。

2012年11月11日日曜日

鎌倉の谷(やと)と窟(やぐら)

吉田秋生の「海街diary蝉時雨のやむ頃」で、主人公の三姉妹が住んでいる鎌倉の古い家について、次女の佳乃(よしの)が、谷(やつ)の奥で湿気がこもると恋人になげくシーンがある。

この谷(やつ)という場所、谷(やと)とも呼ばれているらしく、司馬遼太郎と小説家でもあり劇作家でもあった井上ひさし(2010年4月没)の対談集「国家・宗教・日本人」を読んでいたら、偶然目に飛び込んできた。

司馬遼太郎が澁澤龍彦(サドの『悪徳の栄え』の翻訳者として有名)の鎌倉の自宅を訪れたとき、

「澁澤さんのお宅はその谷(やと)のいちばんきわまったところにあるんです。たまたま雨が降っていたものですから、鬱然として草木が水になって家に襲い掛かっているような感じでした」

と述べている。

これを受けて、同じく鎌倉の谷(やと)に住んでいる井上ひさしが湿気のすごさについて述べている。

「ぼくがいま住んでいるのも谷(やと)のきわまったところで、その湿気にはすごいものがあります。山の湿気と海の湿気とがぶつかって谷(やと)にたゆたっているらしんですね。
とくに梅雨から九月半ばまでは大変です。
押入れの下には水滴がたまってる、革製品には黴が生える、本はシワシワになる。二階はまだいいんですが、下に降りてくると三十秒ぐらいでズボンが湿気を吸ってなんとなく重くなって、脛にまとわりつくようになる。(中略)
ただ、十月から六月までがとてもいいんです。先生がおっしゃったように、木々の枝が家になだれ込んでくるような感じで、深呼吸をすると花や松の木やいろんな草木の匂いが一度に体に入ってきます。…」

うーん。住んでみたいようなみたくないような。でも、三ヶ月間、我慢すれば…
しかし、読み進めるうちに、これは住めないと思うような記述があった。
それは谷(やと)の奥にある窟(やぐら)という鎌倉時代独特の侍たちの墓に関する井上ひさしの話だった。

「うちの谷(やと)にも窟(やぐら)が二つあります。…窟(やぐら)というのは位の高い武士や坊さんを葬るところですが、まだ生きているうちに運ばれて、窟(やぐら)の中で息を引き取るんだそうですね。ぼくの家は、ダム工事で壊されることになった加賀の農家を譲ってもらって移したんですが、解体した加賀の大工さんが鎌倉に来て組み立てるとき、その窟(やぐら)の中に寝泊りしていたそうです。なんでもおそろしい夢を毎晩のように見たそうです。
ぼくも引っ越して二、三日のあいだ、夜中に仕事をしているときに、
『やあやあやあ、遠からん者は音にも聞け。近くば寄って目にもみよ。我こそはやあやあやあ……』なんて合戦の声が聞こえたりして(笑)。いまは慣れましたが、谷(やと)というのは、なにか独特ですね。」

うわっ、笑い事ではないでしょう。ノミの心臓の私には絶対に住めそうにない。
笑って今は慣れましたという井上ひさしもすごいが、それを特に面白がらず、「独特です」とさらっと受け流す司馬遼太郎もすごい。

この「国家・宗教・日本人」という本、他にも興味深い話が多く載っているので、また、取り上げてみようと思う。

2012年11月10日土曜日

引き分けという選択

将棋の羽生善治さんがフランスのチェスの女王と言われるアルミラ・スクリプチェンコさん(なかなか美人)とチェスの試合をしているのをスカパーで観た。

羽生さんは趣味でチェスをやっている立場のようだが、日本ではランキング1位の実力らしい。

チェスを本業でやっている人からみると、羽生さんはちょっと迷惑な存在なのかもしれないが、将棋ファンでなくても、将棋の名人がチェスの世界でもその実力者と互角に戦っているのを見るのは、なかなか楽しい。

観ていて面白いと思ったのは、二人とも悩むところでは、かなり持ち時間を費やして長考していたことと、将棋と比べてみると駒の動き方がダイナミックなところだ。

今回は30分という短い持ち時間での試合だったが、二人とも重要な局面にくると、少ない持ち時間を気にせずたっぷり悩み悩んだ末、解説者も予想していなかったような大胆で意外な駒の動かし方をしていた。

また、今回2局の勝負であったが、いずれも結果は引き分けだった。
この引き分けというゲームの終わり方も面白い。

チェスには、何種類か引き分けとなるパターンがあるのだが、相手が引き分けを提案してきて、それを受け入れるという双方合意の引き分けという方法もあり、今回の2局はいずれもこの引き分けの方法だった。

将棋には、引き分けという方法なんかないのだろうと勝手に思っていたが、どうもあるらしい
それでも、チェスと比較すると圧倒的に勝負が決まる確率が高いといって間違いではないだろう。
(将棋では取った相手の持ち駒が使えるので、チェスのように消耗戦にならないのも一因のようだ)

しかし、この引き分けという終わり方、外野から見ると、勝ち負けがはっきりしないので面白くないという見方もあると思うが、当事者同士からみると、お互いのメンツを潰さない実に賢い選択ではないだろうか。

こういう白黒つけない事のおさめ方は、本来、日本人が得意としてきたやり方だと思うのだが、最近、妙に白黒つけないと気がすまない人が増えてきているような気がする。

お互いににっこり笑って握手を交わし戦いをスマートに終わらせた二人のチェスの試合に、引き分けという選択肢の魅力を再発見したような気分でした。

2012年11月3日土曜日

文章日本語の成立と子規/司馬遼太郎

丸谷才一の「文章読本」の第一章に、「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであった」という一文があるが、小説家たちがそう評価されるほど、明治期の日本語文章の混乱はひどいものだったらしい。

司馬遼太郎の「文章日本語の成立と子規」(単行本「歴史の世界から」収録)にも、その混乱の様子が描かれていて興味深い。

司馬も、「明治期ほどその(共通文章語〔口語体、標準語の意か〕の)成立までの混乱が長かった時期はなく、当初は、各分野の文章家たちが、みな手作りでやっていたように思える。」という感想を述べており、その一例として、泉鏡花をとりあげ、

「江戸期から継承している草双紙、浄瑠璃、謡曲から噺家のはなし言葉まで参考にしてかれ自身の世界を表現する文章日本語をまったくの手作りでつくりあげたが、この文章をもってモノやコトを認識するというにははるかに遠かった。
大正期に入って鏡花は東京日日新聞にたのまれて新興工業地帯のルポルタージュをやったが、ほとんど全文が意味不明にちかい惨憺たる悪文を残すに至っている。」と述べている。

また、正岡子規と同時代に日本にダーウィニズムを輸入した動物学者 丘浅次郎(論旨の明晰さと平明な文章を書いた人だった)の「落第と退校」という一文を紹介している。

「私が二年と二学期、予備門にいた間にすこぶる点の悪かった科目は、歴史のほかに漢文と作文とがあった。…一度は作文に朱で大きく「落第」と書かれたのが返ってきた。(中略)
作文の点の悪かったのは、何も私に作文の力が劣等であったゆえとばかりは思われぬ。私の考えによれば、作文とは自分の言いたいと思うことを、読む人によくわからせるような文章を作る術であるが、私が予備門にいたころの作文はそのようなものではなかった。むしろなるべく多数の人にわからぬような文章を作る術であった。(中略)
はなはだおかしいことは、作文でつねに落第点を付けられていた私が、その後に書いた文章が、今日の中学校や、高等女学校の国文教科書の中に名文の例としていくつも載せられていることである。」

司馬は、文章を物事(自他の精神内容も含めて)の本質、形状、状態などを自他ともに認識するための道具であるということに明快に気づいていた明治の人として、正岡子規を筆頭に挙げているが、その子規が松山中学校に入った明治十三年のころには、文部省の方針ではじめて国語教育がおこなわれたそうだが、教科内容もはっきりせず、教師もいなかったので、松山中学校では、そのあたりの神職をよんできて、祝詞のようなものを教えていたという。

まるで笑い話のような話だが、文章日本語の成立過程は、こんなところからスタートしたというのが実態なのだろう。

そう考えると、今、特に文章家でもない普通の日本人が、学校やビジネスそして私生活で、特に意識もせず、文章を「物事を自他ともに認識するための道具として」使うことができるようになったのは、すごいことなのかもしれないですね。