久々にこの作品を読み返してみて、主人公の間室 章三郎がたびたび感じていた死の恐怖を妙に身近なものとして感じた。
鈴木という学友が心臓が弱いせいで腸チフスにかかって死んだことで、章三郎は自分も心臓が弱いからチフスに感染してしまわないかという強迫観念にかられ、次第に神経衰弱に陥る様子が描かれている。
昔読んだ時にはそれほど共感できなかった部分であるが、この新型コロナウイルス感染症の時代に読むと、彼を苛んだ死の恐怖は決して大げさなものではないように感じた。
(明治時代は、腸チフスで毎年数万という患者が出たらしい)
「己はいつ死ぬか分からない。いつ何時、頓死するか分からない。」
章三郎の心配は次第に、脳溢血、心臓麻痺まで拡大していき、瞬間に五体が痺れてしまいそうな感覚が日に五、六度も起こったり、歩いていると不意に胸が痛くなってしまう。
章三郎はこのような神経性の”病気”にかかってしまったのは、自分が今まで行ってきた背徳的な行為に対する天罰なのだと感じる。(このような思いも共感できる)
しかし、章三郎のユニークというか、したたかなところは、海嘯(つなみ)のように襲い来る死の恐怖を払い除けつつ、現実の世を生きられるだけ生き、己の肉体と官能を、悪魔が教える数々の歓楽の海に浸らせたい、という強い欲望を同時に合わせ持っていたところだろう。
たとえ、自分の家が八丁堀の長屋(学友からは貧民窟と言われている)の「垢で汚れて天井の低い、息苦しい室内」であっても、彼は寝そべっている自分の頭の中に醗酵する怪しい悪夢がいずれ「甘美にして芳烈なる芸術」になると信じた。
この強い自己肯定力が、この小説の力強さというか、魅力なのかもしれない。
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