2020年9月13日日曜日

鷗外 闘う家長/山崎正和

山崎正和氏が三十代後半に書いた作品(1972年)で、明晰な文章が冴えわたっている。

森鴎外の人生、生き方を、彼の作品とともに、夏目漱石や永井荷風の作品、生き方と比較しながら分析していて、とても読み応えのある本だ。

山崎氏は、森鴎外を明治国家の負託に応えながら、同時に彼の家族からの期待に応えてきた生まれながらの「家長」であったことを、その特質として挙げている。

家長というと、よく言われる戦前の亭主関白、家庭における独裁者のイメージもあるが、鷗外の場合は、家族個々人の気持ちや要求、バランスに、痛々しいぐらい気を遣う、ある意味、現代的とも言えるような父の役割だった。
対外的に「外づら」が良くても、家族に対しても「内づら」のよい性格であったことは、明治の男性としては稀有な存在だったに違いない。

そして、国家と家庭からの二重のプレッシャーを受けながら、責任を投げ出さず自暴自棄にもならず、常に良き官僚、良き父の体裁を保ち続けていたことが、非常に苦悩の多い孤独な人生であったことに触れている。

山崎氏の指摘で面白いのは、森鴎外が、そういった場面場面に応じて切り替えて、臨機応変に有能な官僚と父の「演技」をすることができたのは、明治から昭和初期の作家にありがちな胃病や肺病とは無縁の健康体であったことと、運動神経が良かったことを挙げ、夏目漱石(胃病を苛み、家族に対しては不機嫌であった)と比較している点だ。

驚くべきことは、森鴎外が、自分の仕事の話や文学の話、人生上の突っ込んだ問題に至るまで、家族全員にオープンにして、これらが森家の家庭内の話題になっていたということだ。
この習慣は、現代の家族と照らしても稀有なことではないかと思う。

本書では、森鴎外の代表作である数々の作品の文章も引用され、そこに隠れている森鴎外の思考の特質を焙り出しているが、「舞姫」が世間に非常に誤解されて読まれているという指摘は非常に面白かった。

数多くの優れた作品群を生み出し(翻訳数も非常に多い)、仕事も家庭も充実していた人生のようにみえる森鴎外が、晩年、自分と現実世界が疎遠になる感覚を、日常の諸事とつきあうことで、なんとかやり過ごして行くことに努力していたという指摘は、何となく分かるような気がする。

それでも、鴎外は背負い続けてきた家長という責任を捨てることもなく、彼自身に似た存在であった渋江抽斎の家族の歴史を、家全体の生物学的な盛衰を見つめるという意味で「渋江抽斎」という作品にまとめるあたりは、鬼気迫るものを感じた。

森鴎外という、少しとっつきにくい明治の偉人の内面を深く知ることが出来る良書だと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿