2020年8月1日土曜日

悟浄出世/中島敦

三蔵法師と出会う前、流沙河の河底で鬱々と過ごしていた時期の沙悟浄が描かれている。

彼には、自分の首の周りに食ってしまった僧侶九人の髑髏が見えるが、他の妖怪には見えない。自分の前世が天界の捲簾大将であったことにも懐疑的で、自分というものがただ厭わしく、信じることができなくなっていた。

悩んだ末に、妖怪世界に居る数多の賢人、医者、占星師に教えを乞いに旅に出る。

ある者には幻術を使った実用的な話をされ、ある者には無常観を説かれ、ある者には時の長さは相対的であると説かれ、ある者には神を恐れよと警告され、ある者には自分の醜い姿を肯定され、ある本能主義者には喰われそうになり、隣人愛を説く聖人には講演中に実子を食べる姿をみせられ、ある者には自然に教えを乞うべきであると説かれ、ある者には性行為で楽しむことこそ徳であると説かれる。

それらの教えを受け、ますます自分が分からなくなった悟浄は最後に会った仙人に諭される。
臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐みとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。...物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではないということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。
悟浄はそれでも釈然としなかったが、自分の中にあった卑しい功利性に気づく。そして、遂には疲れ切って何日も眠り続けてしまう。

月光が差す静かな河底で眠りから覚め、体が軽くなった悟浄に、観世音菩薩が訪れ、三蔵法師との旅に付き従うよう告げられる。...という物語だ。

悩みに悩んだ悟浄が完全ではないが倦怠と自己不信という病(精神的危機)を克服する過程は、一種の教養小説と言ってもいいかもしれない。

これを私小説風にやると相当鬱陶しい印象を受けるかもしれないが、西遊記という古典娯楽小説を舞台にしているせいか、物語からは明るい印象を受ける。

なお、日本では河童のイメージでお馴染みだが、中国では僧形をしているという。

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