2020年8月2日日曜日

悟浄歎異―沙門悟浄の手記―/中島敦

悟浄が、悟空、八戒、三蔵法師を観察して分析した文章なのだが、これがなかなか名言が多い。

例えば、悟空を評して、
彼は火種。世界は彼のために用意された薪。世界は彼によって燃されるために在る。
災厄は、悟空の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽のように、彼は、いつも全速力で廻っていなければ、倒れてしまうのだ。
八戒を評して、
この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執しておる。
八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寐。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経たっても尽きぬもののように思われた。 
三蔵法師を評して、
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化の術ももとより知らぬ。途で妖怪に襲われれば、すぐに掴まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉しく惹かれているというのは、いったいどういうわけだろう?...我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹かれるのではないか。
師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。
三蔵法師と悟空の共通する点について、
二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼らが天才であることの徴(しるし)でなくてなんであろうか?
そして、彼らと対比した悟浄自身について、
燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。
悟空の闊達無碍の働きを見ながら俺はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂だ。」
俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまで経たっても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどん叱られ殴られ罵しられ、こちらからも罵り返して、身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。 
まったくもって、悟浄の観察と分析は正しいように思う。
そして、程度の差はあれ、我々が住む娑婆においても、上記登場人物たちの性格を持った人々は少なからずおり、私たちはこの物語を通して、悟浄の分析に共感を覚え、我が身や周りの人々を顧みたりするのだ。

最初にこの物語を読んだとき「わが西遊記の中」という副題を見て、他にも作品があるのではないかという期待を持ったが、残念ながら「悟浄出世」とこの「悟浄歎異」だけだったことを知り、とても残念な気持ちになったのを覚えている。

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