孟子の書に、「指一本惜しいばかりに、肩や背中まで失っても気づかない人を「狼疾の人」という」言葉があり、冒頭、その漢文が引用されている。
この言葉を、この小説(?)に当てはめれば、自分という存在は何なのかという問いの答えを知りたいがばかりに、生きることの本質や喜びを見失ってしまっている主人公の三造が「狼疾の人」ということになるのだろう。
何をやっても、自分という存在の不確かさに考えが及び、生きることが無意味に思えてしまう。
酒を飲んで酔っ払っても、自分の発言や行動を厳しく検分する自意識に苛まれ、眠ろうとしても、二・三時間は眠れない。
すでに中学生の時から、そのような思いが憑りついてしまっていたというのだから、作者が書いた「悟浄出世」の悟浄のように、重い病にかかってしまったというほか、ないかもしれない。
途中、主人公の三造が、読んでいたフランツ・カフカの「巣穴」について、「何という奇妙な小説であろう」と感想を述べているが、作者の中島敦もこの「巣穴」を読んで実際に同じような印象を受けたような気がする。
「巣穴」では、実在するかも分からない外敵を警戒し、自己保全のために巣穴を改良することに汲々とする小動物を描いているが、自分の存在の不確かさに悩まされる三造の姿を、まるで戯画化されているような気分を味わったに違いない。
思えば、カフカが書く他の小説の主人公も、いや、カフカ自身も「狼疾の人」だった。
中島敦がカフカ自身の奇妙な実生活まで知っていたとは思えないが、他の小説を読んで
自分との共通点に気づいていた可能性は高い。
(カフカの書いたイラスト)
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