2020年8月9日日曜日

虎狩/中島敦

「虎狩」という タイトルから、「山月記」を思い浮かべる人もいるかもしれないが、ここで描かれているのは、作者が朝鮮の小学校に通っていた時分、同級生であった朝鮮人(半島人) 趙大煥という男についてのことである。

どちらかというと作者が日韓併合後の朝鮮の人々の様子を描いた「巡査の居る風景 一九二三年の一つのスケッチ」に近い印象を受けた。

趙大煥という少年は、日本語がうまく、母親が日本人(内地人)という噂もあるが、愛すべき少年というよりは、半島人であるがゆえの弱さ、性格的に屈折している点が作者の思い出として語られている。

例えば、趙が自分の名を名乗ることに少しも拘泥していないことを見せる反面、自分が半島人であるということを友人達が意識して、恩恵的に自分と遊んでくれているのだ、ということを非常に気にしていて、彼にそういう意識を持たせまいとする、教師や私作者達の心遣いまでが、彼を救いようもなく不機嫌にした点や、

上級生に生意気だと殴られ、泣き崩れた趙が、あたかも作者をとがめるような調子で、つぶやいた「どういうことなんだろうなあ。一体、強いとか、弱いとか、いうことは。」という言葉(作者は、内地人と半島人の隠しきれない差別感に絶望した感情を感じる)や、

虎狩に行って、虎に襲われそうになった勢子に対して、趙が足で荒々しく其の身体を蹴返して見ながら「チョッ! 怪我もしていない」と言い放つ姿(作者は、講談か何かで読んだことのある「終りを全うしない相」とは、こういうのを指すのではないかと考える)だ。

物語の最後、作者と趙の奇妙な再会が語られるが、ここでも作者は、趙の下卑とも言える表情をきっかけに彼のことを思い出すことになり、あくまで、作者にとって、趙大煥は、半島人であるがゆえの弱さ、屈折している性格のキーワードとして認識されているような気がする。

決して悪い作品ではないのだが、読んていて、気になったのは、中島の視点が支配している日本側のものではないかという感覚がぬぐえない点だ。

もちろん、彼がこれを書いた時代からすれば、あえてこの問題を取り上げていることのほうが称賛されるべきことなのかもしれないが。

敗戦国となった日本人が、むしろ米国で暮らしていたら、周りのアメリカ人にどう思われるか、この作品を読んだら、よけいに身に染みたかもしれない。

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