家族宛てに送った書簡には、寒い日本の冬を避けられた安堵感が述べられているが、パラオで下痢やデング熱にかかってしまったり、湿気に苦しむ様子が述べられている。一方で、ポナペ(ポンペイ島)、トラック島、サイパンに小旅行すると、体も復調し、少し太ったという記述も見られる。
ただ、旅行から戻ってもパラオでの暑気は体に堪えるらしく、「一日も早く今の職をやめないと、体も頭脳も駄目になってしまう」とか、「記憶力の減退には我ながら呆れるばかり」という記述も見られる。創作活動も「この暑さ、むし暑さでは、頭を働かせることは、殆ど不可能といってもいい」と創作活動が進んでいない様子が述べている。
しかし、間違いなく、中島敦にこの南洋での体験がなかったら、「南島譚」や「環礁」といった作品群は書かれなかったことを思うと複雑な気持ちになる。
私の好みでいうと「李陵」や「弟子」より、これら南洋もののほうが、力みのようなものが抜けており、読んでいて面白いからだ。
昭和16年12月の真珠湾攻撃による日米開戦の影響もあり、彼は結局、昭和17年3月の冬の寒さの真っただ中の日本に戻り、たちまち風邪をひき、体調を崩してしまい、同年12月には喘息の悪化で命を落としてしまうのだが、まだ、三十三歳、作家としてはまだこれからという時期だっただけに本当に惜しいことだったと思う。
南洋の旅が逆に彼の寿命を縮める原因となってしまったのかもしれないが、彼が最後に書いたというエッセイ「章魚木の下で」を読むと、もともとの中島敦の理念であったとは思うが、南洋にいたことも影響して、日本国内で湧き上がった戦争熱に染まらなかった健全な文学者の最後の姿が見られる。
章魚木(たこのき)の島で暮していた時戦争と文学とを可笑しい程截然と区別していたのは、「自分が何か実際の役に立ちたい願い」と、「文学をポスター的実用に供したくない気持」とが頑固に素朴に対立していたからである。章魚木の島から華の都へと出て来ても、此の傾向は容易に改まりそうもない。まだ南洋呆けがさめないのかも知れぬ。比べるのはおかしいかもしれないが、中島敦とカフカの共通点を妙に感じてしまう。
まだ若かったのに病気で亡くなったこと、大きな戦争が始まる足跡を聞きながら、悲惨な状態になる前にこの世を去ったこと、短い創作活動だったが良質な他人に真似ができない作品を生み出したこと、死後、書簡や断片的作品も含めて研究され続けていることなどが共通しているように思う。
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