2015年4月11日土曜日

土佐源氏 宮本常一/日本文学全集 14

宮本常一という民俗学者の存在をはじめて知った。
日本各地を訪ね、現地の人々の話を聞いてまとめた民間伝承を膨大な著書として残しているらしい。

そういう意味では、彼の著書はノンフィクションということになるのだろうが、この全集に収められている「土佐源氏」は、まるで一個の文学作品ではないかと思うくらい、完成度が高い。

土佐(高知県)の山中にある檮原(ゆすはら)村に住む盲目の乞食同然の老人が体験してきた数々の女性との性的な関わりあいを、語り口調でリアルに描いている。
わしは何一つろくなことはしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。
わしにもようわからん。男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それですこしでもやさしうすると、女はついてくる気になるんじゃろう。
そういえば、わしは女の気に入らんようなことはしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう。
一見すると、単なる女たらしの言葉だが、同じように牛を可愛がるこの老人の情のこもった言葉を聞いていると、そういうものかなと思ってしまう。

牛と言えば、それを育てる百姓について語る彼の言葉も、不思議と真実味にあふれている。
わるい、しようもない牛を追うていって、「この牛はええ牛じゃ」いうておいて来る。そうしてものの半年もたっていって見ると、百姓というものはその悪い牛をちゃんとええ牛にしておる。そりやええ百姓ちうもんは神様のようなもんで、石ころでも自分の力で金に変えよる。
中上健次の作品同様、この作品でも、乞食、子守奉公、若衆、ばくろう(馬喰…馬・牛の売買の仲介人)という前近代的な今の日本からは消え去った人々の姿が生き生きと描かれている。

私は、決してそういう前近代的な要素を現代に復活すべきだとは思わないが、いわゆる中流層から外れるような人々を受け入れていた懐の深さがかつての日本の社会にはあったのだと思う。

2015年4月5日日曜日

「沖縄の孤独な戦い」/ル・モンド紙

菅官房長官が4月5日の今日、ようやく沖縄県知事の翁長氏と会談の機会を持った。

両者の主張が平行線の結果に終わることは予想できていたが、しかし、ここまで沖縄の人々の苛立ちを増幅し、態度を硬化させてきたのは、安倍政権が、辺野古への米軍基地移設反対を唱える翁長知事を、就任以来、一貫して無視し続けてきたことが原因であることは明白だと思う。

今日の会見で、翁長知事が 「上から目線の粛々と言う言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅していくと思っている。」と述べていたが、今まで、政府がコメントしてきた、法律論を盾に海底ボーリング調査などの移設作業を“粛々”と強行する姿勢を目の当たりにすれば、誰でも沖縄県の人々の怒りは十分理解できてしまう。

内田樹氏のブログにも、 フランスの新聞社『ル・モンド』が3月25日に掲載した「沖縄の孤独な戦い」と題するレポートを紹介している。

http://blog.tatsuru.com/2015/04/03_1842.php

http://www.lemonde.fr/asie-pacifique/article/2015/03/25/int-au-japon-le-combat-solitaire-d-okinawa_4600787_3216.html

この記事を読んで、なるほど外からはこう見えるのかと、妙に納得してしまったのは、「19世紀末に独立王国であった琉球の日本への併合以来、二級の市民とみなされてきた住民たちの怨恨をかたちにしている」という部分だ。

私たちは、今も世界のあちこちで起きている少数民族の迫害を、まるで他人事のように受け止め、彼らの文化や考えを尊重することを主張しているが、第三者的な目で見てみると、日本もまた沖縄に対して同じことをしているのではないかということだ。

「日本から独立すべきだ」という声が沖縄の人々から上がってもおかしくない深刻な事態に陥ってしまっているというのが現状だと思う。

2015年4月4日土曜日

透明な対象/ウラジミール・ナボコフ

ナボコフの最後の未邦訳の作品で、ボリュームも少ないと思って、気軽に手にしてしまったのが、間違いだったと思う。

ナボコフらしい巧緻にちりばめられた仕掛けだらけの作品と言ってもいいかもしれない。


一読したが、注意散漫な読者である私は、訳者の若島正が巻末に用意した作品中の文章、言葉に関する意味と背景に関するノートと、あとがきを読んで、スルーしてしまったたくさんの仕掛けの存在に気づいた。

そして、その仕掛けの謎解きをするために、再読を強いられた。

物語は、文芸編集者のヒュー・パーソンが、4度目のスイス旅行で、かつて泊まったホテルでの回想から始まる。

一度目のスイス旅行は、父との二人旅。そして、父の奇妙な最後。
二度目は作家R氏との対面のため。

そこから、ヒュー・パーソン、R氏の義理の娘であるジュリア、そして、二度目のスイス旅行で乗ったスイス鉄道で、R氏の作品を読んでいたアルマンドとの関係が描かれる。

R氏の義理の娘でありながら、同時に愛人というスキャンダラスなジュリアとの束の間の情事。
アルマンドという若く美しいけれど、性格と習慣に難がある女性との奇妙な初デートと、その後の奇妙な夫婦生活は、いかにも、ナボコフらしい軽妙なタッチでエロティックを描いていて、とても面白い。

ヒュー・パーソンが実は重度の不眠症と夢遊病を抱えていることが物語中、明かされるのだが、それが、その後の物語の伏線となってくる。

この物語は、26章の短い文章で組み合わされているのだが、最初の章で、題名でもある「透明な対象」(原題:Transparent Things)について、こう説明している。
我々がある物質的な対象に焦点を当てるとき、それがどんな状況に置かれていても、注意を集中するだけで、否応なしにその物の歴史の中に沈みこんでしまう可能性がある。物質をその瞬間の正確なレベルにしっかりととどめておきたければ、初心者はまず物質の表面をかすめていくことを学ばねばならない。過去が透けて輝く、透明な対象だ!
 この文章だけでは分からないが、第3章で、ホテルの整理棚にあった鉛筆の姿から、それが出来上がるまでの物語(黒鉛がすりつぶされ粘土と混ぜられたり、松の木が切り倒される)を透かして見ることが述べられている。

第4章から、この物語の主人公ヒュー・パーソンの過去を遡って描いていることから、透明な対象とは、ヒュー・パーソンという男の人生、これまでの物語を透かして見ることを意図しているのだろう。

なお、 ヒュー・パーソンが最後に死を迎える瞬間を「ある存在状態から別の存在状態へと移行する」と表現しているあたりは、ナボコフの死の捉え方(この作品は彼の死の2年前に発表されている)が明確に示されていて、とても興味深い。

そして、謎めいた最後の台詞「まあ気楽に、なんというか、行こうぜ、なあきみ。」 の部分は、ナボコフの遺作という印象をさらに強めている(実際には違う作品が遺作となった)。