2015年2月16日月曜日

森鴎外 青年/日本文学全集 13

漱石の「三四郎」と「青年」が並べられて日本文学全集に収められるとは、さすがの森鴎外も予想だにしなかったかもしれない。

解説にも書かれているが、森鴎外の「青年」は、鴎外が漱石の「三四郎」を読んで、「三四郎」の人物と物語構成を大よそ真似て作られたものだからだ。

小川三四郎と小泉純一、出身は熊本県と山口県で、前者は大学進学、後者は小説家希望と、多少異なっているが、ともに田舎から出て来た青年という意味では変わらない。
(ただ一つ違うのは、純一の方が美少年らしく、出会った女性の関心をことごとく買ってしまうところ)


三四郎の同郷の先輩である野々宮宗八は、同じく同郷の先輩作家である大石狷太郎、
三四郎の母は、下宿屋の婆さん、
三四郎の友人である佐々木与次郎は、瀬戸速人、
野々宮の妹であるよし子は、お雪さん、
美禰子は、坂井夫人と考えると、あらかた符合している。

ただ、広田先生のような明治の日本に批判的な人物が出てこないのは、やはり、 鴎外が体制側の人物だったからだろうか。

おまけに、純一が講義を聴いた平田拊石(ふせき)は漱石で、大石狷太郎は正宗白鳥、鴎外自身も、鴎村という名前で主人公の言葉をして自虐めいた扱いで登場させている。 純一が物語の冒頭で大石の家を探す際に使った地図が鴎外が考案した東京方眼図というのも、ひどくゴシップ的である。

これらの設定からして、ひょっとして、「三四郎」のパロディではないかと思う人もいるかもしれないが、物語は、「三四郎」に漂う軽妙さとは異なり、若干、重いトーンで進んでゆく。

その原因は、明らかに純一の方が自分の中にある性の欲望を意識していて、その抑制に苦しんでいることだろう。

彼をそのような思いにさせるのは、「凄いような美人」の坂井夫人の意味ありげな目つきなのだが、この坂井夫人、実はそれ以外の個性というものが、あまり感じられない。

「三四郎」の美禰子が知的な言葉で三四郎を翻弄するのとは決定的に違っている。

そういう意味で、「青年」の純一と坂井夫人の関係は、会話や社交的な駆け引きによって高まる恋愛ではなく、もっと写実的な生な男女関係のようであり、池澤夏樹が解説で述べているとおり、「自然主義的」な感じを受ける。

鴎外の作品の中では、決して最良のものとは思えないが、純一がスケベ心に勝てず、坂井夫人が宿泊している箱根に行ってしまう件(くだり)なんかは、妙にリアルで共感してしまうところがある。

「三四郎」との比較、ゴシップ部分も含め、鴎外の常のイメージにはない面白さが感じられる当たり、特筆すべき作品なのかもしれない。

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