2014年7月6日日曜日

呪いの時代/内田樹

鷲田清一といい、哲学者が良質な文章でエッセイを書き、その哲学の知識・メソッドに基づき、現在起きている出来事の分析を読むことができる時代になったのは、とてもいいことだと思う。

わたしが高校生ぐらいの時には、岸田秀の「ものぐさ精神分析」ぐらいしかなかったような気がするが、今は、色々な著者を選択できる。

こういった小説家でも作家でもない学者の文章というのは、ずばり物事の本質を言い当てるところが、やはり読んでいて面白いところだ。

例えば、本書においても、以下のようなことが指摘されている。
他人が見ている私とは違うところに「ほんとうの私」がいる。それこそが「真正の私」であり、世間の人間が見ているのは仮象に過ぎない、と。
だから、「世間の人間が見ている私」の言動について、「ほんとうの私」は責任を取る必要を感じない。
これは、政治家が不祥事を起こした時に、何故、不祥事そのものについて詫びないのか?
(政治家にとっては、野党やメディアが叩いているのは「他人から見た私」という仮象なので、痛くも痒くもない)

についての説明の文章なのだが、 自民党の政治家の数々の失言があった時の対応や、最近話題の県議会議員の対応などを思い浮かべると、すごく納得できる。

また、本書では、上記の考え方を、秋葉原で無差別殺傷事件を起こした犯人についても当てはめているが、確かに、PCの遠隔操作ウイルス事件の犯人や、ストーカー事件の加害者(今晩やっていたNHKスペシャル)の心理も説明できるような気がするということは、日本に広く蔓延している病巣の本質を捉えているのかもしれない。

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