2017年12月31日日曜日

準B級市民/眉村 卓

日本SF傑作選3(早川書房)では、眉村卓を取り上げていたので、懐かしさも手伝って、ついつい読んでしまった。

作者の1960年代の作品が中心に集められているので、私にとっては、ほとんど未読の作品だった。

しかし、これらの作品にも、ジュブナイル小説同様、やはり、眉村卓としかいいようのない雰囲気が漂っている。

理不尽な環境で懸命に生きる生真面目な主人公。彼は従順に耐え忍ぶが、ある臨界点をもって、その押し込められた感情は爆発する。

ある意味、倫理的と言ってもいいかもしれない。
この準B級市民も、そんな雰囲気の小説だ。

生産人口の調整のために人工的に作られた人間。見た目はまったく普通の人間と変わらないが識別票で厳格にB級(人造ロボット)であることが管理されている。

主人公であるイソミは、B級であることを理由に、A級である人間から差別され、就いた職からも追いやられる。

なぜ、B級であるロボットが人間より、いい仕事に就いているのかと。

やがて、彼は少年の頃に好きだった女の子マツヤと出会い、幸せな生活を送るようになるが、人間たちのロボット排撃運動に襲われることになる。

今、世界各地で起きている移民/難民をめぐる排他的な状勢とほとんど同じ世界が描かれていると言ってもいいかもしれない。

SFが近未来を描く小説ということならば、この1965年の作品はまさにSFだ。
準B級市民という冗談みたいな存在が現実になる社会。

少年の頃好きで久々に読んだ眉村卓の小説に、そんな鋭い視点があったことがうれしい。




2017年12月30日土曜日

竜馬殺し/大岡昇平

司馬遼太郎が描いた坂本竜馬とは異なる側面が描かれていて興味深い一篇である。

しかも「レイテ戦記」を書いた大岡昇平が史実に基づいた冷静な視点で、坂本竜馬とは何だったのかを描いており、なるほどと思ってしまうところが多い。

例えば、坂本が慶喜が大政奉還の宣言をしたことを聞いたとき、「われこの君のために命を捨てん」といったことに対して、「薩長連合を図る一方、彼の行動には親幕路線が一貫している。そこに規模雄大な近代日本創生の構想を見るよりも、陰謀家の両面作戦を見る方が簡単である」という冷静な判断が示されていたり、

時局が鳥羽伏見の戦いに流れていこうとしたときに、坂本がしたことと言えば、越前に行って来ただけ(由利公正に会って新政府の財政政策を聞くためではなく、後藤象二郎の意により松平慶永の上京を促すのが目的)であったことを踏まえ、竜馬暗殺の背後に薩摩陰謀説があることに触れつつも、「薩摩にとっても長州にとっても、竜馬には軍事同盟の仲立を勤めさせただけで、最早用済みといってよい。戦争は始まっていた。竜馬がそれを知らなかっただけである。」と明確に否定している。

暗殺の件についても、坂本は剣術は上手かったが、実戦経験は、伏見の寺田屋で捕吏とピストルで対応したことしかなく、かねての宿願が実現する寸前に殺されたので、明治になってから同情され、美化されたりしたが、「彼等が河原町の醤油屋の二階で、犬ころのように殺されてしまった事実に変わりない」と容赦ない裁断をしている。

この他、有名な「船中八策」も、竜馬自身が考えたものではなく(自筆ではない)、竜馬の矛盾した行動を、その後の歴史の動きに照して、辻褄を合わせただけのものではあるまいかと、これまた厳しい推論が述べられている。

大岡昇平も竜馬を魅力ある人物と認めつつも、ここまでクールな視点で描かれる坂本竜馬も珍しい。

歴史の教科書から、坂本竜馬の名前が消えるかもしれないという報道も流れたが、案外、このような視点からの再評価なのかもしれない。(寂しい気持ちもあるが)

2017年12月24日日曜日

レベレーション - 啓示 - 3/山岸凉子

この巻では、王太子 シャルル7世の信認を得たジャンヌが、ついに、国王軍として4~5千もの兵を率いて、イギリス軍に占領されているオルレアンの解放に出立する。

戦の常道に反するジャンヌの戦略を、軍に参加した代官が様々なかたちで邪魔をするが、神がかった彼女の行動に鼓舞された兵士たちの働きにより、立て続けに勝利を収める。

面白いのは、決して信心深いとは言えない兵士たちが、ジャンヌの存在に感化され、神を信じるようになり、自分たちが神軍であり、神に護られているという意識を持つところだ。

“死なない”と確信した人間は、想像以上の力を発揮するものなのかもしれない。

そして、わずか4日間の戦いで、ジャンヌは、オルレアンを解放し、民衆にも王にも熱烈に祝福され、彼女の人生は絶頂期を迎える。

史実が複雑なので、この3巻を読む前に、1巻、2巻を再度読んでおくと、物語の深みが増すと思う。


2017年12月17日日曜日

ソラリス/スタニスワフ・レム

1961年にポーランドのワルシャワで最初に出版されたスタニスワフ・レムの「ソラリス」は、ポーランド語で書かれており、従来、日本語訳されたハヤカワ文庫の「ソラリスの陽のもとに」は、ロシア語版からの重訳だったらしい。ロシア語版は、ポーランド語の意味を取り間違えていたり、検閲によって削除された部分がかなりあったらしく、日本語訳ですべて修復・復元されたバージョンはなかった。

これらの理由から、ロシア・ポーランド文学者である沼野充義が、オリジナルのポーランド語から新訳した「ソラリス」が出版されたので読んでみた。

この新訳を読んで、改めて思ったが、「ソラリス」は、普通のSF小説とは、全く異質な内容になっている。

人類の善悪・進化・社会を鏡のように対照化した異星人との接触ではなく、全く想定外の未知なものとの接触を描いている。言わば、スター・ウォーズ的な物語とは完全に相反した作品だと思う。

従来の「ソラリスの陽のもとに」との比較で言えば、復元された記述によって、圧倒的に、ソラリスの海が存在感を増している。ソラリスの海が作り出す様々な形態、擬態形成体(ミモイド)の緻密でグロテスクな描写は、生物としてのソラリスの海を強く感じさせる。

また、私にとっての「ソラリス」は、原作を読む前に見たタルコフスキー監督が撮った「惑星ソラリス」に影響されているところが多く、今回、改めてその違いを面白いと思った。

以下、「惑星ソラリス」との違いという視点で、興味深いものを取り上げてみる。

・スナウトの闇
 ソラリス観測のステーションにおいて、好人物であるスナウト。
 しかし、最後まで彼の「客」は何なのか、明かされていない。
 (映画では、柔らかそうな耳たぶの映像が、女性か子供を暗示している)
 スナウトの発言や、クリスが目撃した彼の両手の指の関節に凝固していた血が、彼の闇の部分を暗示している。

・ギバリャンの「客」
 映画では、ロシア人風の少女であったが、小説では巨体の半裸の黒人の女が描かれており、スナウトが「客」について語る「人間のうちにひそむ何かが勝手に考え、湧き出てきたこと」が実証されたような印象を強く感じる。

・ステーションの気温
 映画では、どちらかというと寒々とした印象だったが、小説では、冷房装置が動いでいないと耐え難い暑さであるところも意外な印象を受けた。

・狂っていないことの検証
 クリスが「客」のハリーを見て、自分が狂っていないことを確認するために、小型人工衛星の描く円の位置を手計算し、大型コンピュータが計算した数字と比較して誤差を確認するあたりは、いかにも科学者的なふるまいである。映画では、このようなクールな場面はなかった。

・ソラリスに降り立ったクリス
 映画では、クリスが地球にある父の家に帰還し、すがりつくように父にひざまずく印象的なシーンが描かれるのだが、実はそれはクリスの内面的精神を読み取ったソラリスの海が作り出したものだったという、ある意味、ショッキングなラストで終わる。しかし、小説では、クリスが降り立った岸辺でソラリスの海と静かに接触を交わす場面で終わる。ここは好みの問題と思うが、小説の方が、クリスが、理解不能なソラリスの海と最後まで誠実に接触し、理解しようと努めていたことがより伝わってくる。

あとがきにある、作品の解釈をめぐって、レムがタルコフスキーに対して「あんたは馬鹿だよ」とロシア語で言って別れたというエピソードが面白い。

2017年12月16日土曜日

スター・ウォーズ/最後のジェダイ

エピソード8となる本作。

タイトルと全く明かされないストーリーに色々と憶測が広がっていたが、実際に見てみると、奇をてらった物語というよりは、わりとオーソドックスな物語だったような気がする。

なぜ、こんなにと思うくらい、レジスタンス軍がファースト・オーダー軍に徹底的に叩かれ、次々と勇敢な兵士が死んでいくのだが、レイア・オーガナ将軍は有効な戦略を打てない。

印象に残ったのは、昏睡状態に陥ったレイアに代わって、指揮をとった女性指揮官。
どこかで見たことがある女優だなと思ったら、なんと、ローラ・ダーンではないか。


デビット・リンチ監督の「ブルーベルベット」「ワイルドアットハート」が懐かしい。

一方、レイは、孤島に身を隠したルークを探し当て、助けを求めるが、ルークに拒絶される。ここで、ルークとカイロ・レンの関係が明らかになる。

映画では、レイアとルークが久々に再会を果たすシーンも出てくる。
しかし、二人が主人公として活躍したエピソード4から6に比べると、エピソード7から、スター・ウォーズは、ずいぶんと様変わりしたように感じる。

前作のスピン・オフ作品「ローグワン」もそうだが、個性的な脇役のキャラクターがヒューマンドラマ的な場面を演じるシーンが増えている。しかも、フィン役を演じるジョン・ボイエガ、ローズを演じるケリー・マリー・トランと、役者もdiversityになっている。


こういう、いかにもアメリカ的な雰囲気になったのは、やはり、ディズニーの映画になったからだろうか。

2017年12月3日日曜日

トランプ症候群/井上達夫 香山リカ

法哲学者 井上達夫と精神科医 香山リカの対談集。

題名にある通り、トランプ大統領に象徴される時代の特徴、差別、偏見、憎悪、自己中心性、言語の歪曲・壊変について語られているが、読んだ感想としては、題名よりとても広いテーマを扱っている。

・アメリカの覇権
 ジョゼフ・ナイ(国際政治学者)が唱えていたソフトパワー(精神的・思想的指導力)は衰え、圧倒的な軍事力でもって世界に影響力を与える姿勢が明確になってきている。

・アメリカは巨大な田舎者の国家
 クオリティ・ペーパーを読むようなインテリや教養人は一握りで、ほとんどは国際情勢など知らない人たちが多数。
 本音では他国に好戦的に関わりたくないが、ちょっとした感情的な事がきっかけで火が付きやすい。
 アメリカには、民主主義の強さと危険性の両面がある。

・中間層の崩壊
 排他的ナショナリズムの根本原因は経済問題。
 中間階級が崩壊したら本当に危ない(ドイツのナチズム)
 経済のモラルハザードの真の原因は、市場経済のグローバル化ではなく、金持ちによる税逃れ(タックスヘイブン)などの無責任体制。
 保護主義と開発主義(草創期は保護し、競争力がついたら自立する)は違う

・日米安保の誤解
 憲法9条のせいで軍事問題がタブー化され、知識人含め、日米安保の軍事的・政略的実態に対する知識がなさすぎ。アメリカは日米安保から圧倒的な利益を得ている。

・アメリカ政治の衰弱
 トランプが勝ったのはおぞましいことだが、ヒラリー・クリントンが負けたのは正しかった(ウォールストリートとの癒着)。
 民主党は自己改革の圧力を高めなければならない

・オルタナティブ・ファクト(もう一つの真実)
 森友・加計学園をめぐる安部首相、スーダン自衛隊派遣の日報をめぐる稲田元防衛大臣の答弁。言葉というものに中身、重みが全くない。

・断片化する物語
 統合失調症(精神分裂症)の患者が軽症化している傾向があるが、喜ぶべきことではなく、言語能力、思考力が劣化してきて、面白い妄想を語る人がいなくなった。

これ以外にも、井上氏のアメリカ留学時に感じたアメリカ人の愛すべき点など、興味深かったが、井上氏が語っていた

「私は、いま安倍政権批判をしている人たちだけではなくて、安倍政権を支持している国民、その人たちにもアメリカとの関係について本当に考えて欲しいと思う。」

という言葉が重かった。

この本、憲法改正問題などを中心に2冊目も出るのだという。楽しみだ。

 


2017年11月26日日曜日

死体展覧会/ハサン・ブラーシム 藤井光 訳

作者のハサン・ブラーシムは、イラク バグダッド生まれの映像作家で、この14編の短編はアラビア語で書かれ、英訳されたものを藤井光さんが日本語に翻訳した。

戦争と暴力をテーマとしているが、それだけではない魅力にあふれている。

死体展覧会
クライアントを殺して、その死体を市街に展示することを研究し利益を得る団体。
「狂信的なイスラーム集団や、非道な政府の諜報機関といった下らない連中とは、我々が一切関わりがない」と自負する団体の幹部が語る、裏切り者の“展示”の仕方に戦慄を覚える。

コンパスと人殺し
周りの人々に怖れられる極悪非道な兄に連れ回された弟が最後に体験したこと。
「それは連中の神であって、お前の神じゃない。お前の神とはお前自身だ、そして今日がお前の日だ」と語る兄の口調に、自爆テロリストを唆す語り口を感じる。

グリーンゾーンのウサギ
別荘にいる二人の男。一人はウサギを育て本を読みふける僕と、一人はフェイスブックで作家やジャーナリスト達とweb上で議論を交わすサルサール。戦時下、家族を殺され、気力さえ失いそうになった僕が復讐のため、ある宗派に属し、政府の要人を暗殺しようとする。悪い冗談のような結末がリアル。

軍の機関紙
裁判官に語る軍の機関紙で勤めていた男の告白。男は、ある兵士が書いた短編を、兵士を脅迫し死に追いやった後、自分の作品として発表し、世界中で称賛される。その彼のもとに、死んだはずの兵士からさらに二十篇の短編が送り届けられる。男は改めて兵士の死を確認するが、送られてくる短編は止むことがなく、その内容は素晴らしく独創的なものになってゆく。

クロスワード
クロスワードパズルが得意だった友人との思い出。テロ爆発に遭うことで彼の精神は壊れてしまう。


強盗に追われて穴に落ちた青年が、アッバース朝(750-1258年)のバグダッドに住んでいたという老人に会う。穴を訪れる者は過去と現在と未来の出来事を知る方法を会得するという。

自由広場の狂人
明らかに欧米人と思われる金髪の二人の若者の像を撤去しようとする政府軍と、これを守ろうとするイスラムの民という矛盾。金髪の二人の霊力のおかげであらゆる奇跡は起こるというが、この二人を崇拝する私は狂人なのか?

イラク人キリスト
爆弾の危機を回避する予知能力があるキリスト教徒のダニエル。彼が命を落としてしまう結末とは。

アラビアン・ナイフ
三十秒間見つめ続け、涙が出た時に消えるナイフ。その技を会得している僕と友人と一人だけナイフを取り戻すことができる妻の物語。ナイフは何かを象徴している。

作曲家
軍歌の作曲家だった父。戦争が終わり、彼の曲は世に求められなくなったが、最後まで歌でもって戦った彼は果たして狂人だったのか。

ヤギの歌
独裁が終わり、ラジオ局で設立された<記憶ラジオ>。そこで自分の物語を語る人々。
母親に人糞を食べさせ続けられた男の話。糞溜めに弟を突き落として殺した話や戦争で左足と睾丸を失った父の話。

記録と現実
難民受入センターに受け入れられた難民には、二つの物語があるという。一つは、人道的保護を受けるため移民局で書き留められる物語。もう一つは難民たちが心に固くしまい込み、絶対に人には明かさず反芻する物語。ここで語られる物語は、移民局で書き留められた物語ではあるが、壮絶な内容になっている。イスラム過激派に人質として捕らえられた人のリアルな現実のように感じる。

あの不吉な微笑
ネオナチにリンチされる男。彼の顔から消えない微笑は自己防衛のためのものなのか。

カルロス・フエンテスの悪夢
イラクからオランダに亡命したイラク人の物語。彼は他の移民の誰よりも、オランダ語を早く覚え、仕事に就き、オランダ人女性と結婚し、オランダの社会に適合したが、オランダ語が話せなくなったり、オランダの市街に爆弾をしかける夢を見るようになる。彼は、それを何とか乗り越えようとするが。最後に彼が付けていた指輪の描写が鮮烈な印象を残す。

表紙の絵もタイトルも独特だが、中の作品もすべて面白い。

2017年11月23日木曜日

生頼範義 緑色の宇宙

生頼範義(おうらい のりよし)さんは、スターウォーズなどの映画ポスターや、平井和正の幻魔大戦シリーズなどの書籍の表紙のイラストを描いた方だ。

2015年10月に亡くなられたが、今見ても、その絵から放出される異彩な雰囲気に引きつけられる。

日本人が書いたとは思えない迫力のある金髪女性と、SFチックでバロックなオブジェ、そして緑色の宇宙。


イラスト集を買って、ようやく当時、雑誌「SFアドベンチャー」や「ムー」(懐かしい)の表紙も手掛けられていたことを思い出した。

生頼さんのイラストに吸い寄せられ、こんな雑誌を見てはいけないのかなと思いつつ、「ムー」のページをついついめくってしまったあの頃の記憶がよみがえった。

生頼さんは、東京芸大油絵科中退(藤原新也と同じ)で、ミケランジェロ(イラストにも本格的な彫像の絵が数多く出てくる)とSFが好きだったらしい(早川書房の「世界SF全集」を全部揃えていた)。

また、極度の出不精でほとんど、宮崎の自宅から出ずにひたすら絵を描き続けていた仕事人間だったようだ。

2018年1月6日(土)より上野の森美術館で開催される「生賴範義 展 THE ILLUSTRATOR」をやるらしいので、ぜひ見に行きたい。

2017年11月19日日曜日

明石・澪標/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

明石の編は、須磨に都落ちした光君が、ひとり寝のさみしさから、明石の浦の前の播磨守の入道の娘 明石の君と関係を持つことになるのだが、彼女が懐妊したところで、朱雀帝から命が下り、 明石の君を置いて京に戻るという物語だ。

自分が都落ちしたのは、過去に犯した様々な罪深い行為であるということも、二条院の紫の女君と手紙をやりとりし、彼女もひとり寝のさみしさを我慢していることを知りながらも、強引に明石の君と関係を持ってしまうのは、やはり、女性なしではいられない光君の性癖のようなものなのだろう。

そういう自分を否定せず、京に戻って、自分を思い続けてくれた紫の女君に、明石の君との関係を隠さず話してしまうところも、無神経といっていいのか、ダイヤモンドのような硬質な精神の持ち主なのか、判断に迷う。

澪標の編は、体調を崩していた朱雀帝が退位し、東宮(公には桐壺帝と藤壺の宮の間の息子だが、実は、光君と藤壺の宮の息子)が冷泉帝として即位する。光君は大納言から内大臣になり、亡き妻 葵の上の父の左大臣とともに、権力を掌握する。

ちなみに、この時点で、光君の子どもは、藤壺の宮に産ませた東宮(光君に生き写し)、葵の上との間に生まれた夕霧(光君に似て美男)だが、明石の君が女の子を産み、三人となる。占いでは一人は帝(的中)、一人は后、一人は太政大臣になるという。

その占いが頭にあったせいなのか、光君は明石の君が産んだ女の子を気にかけ、母娘とも京に呼び寄せようとする。

一方で、夕顔、葵の上を生霊として呪い殺した六条御息所は、御代が替わり、娘の斎宮とともに伊勢から京に戻ってきたが、重い病に臥せっていた。

光君は、六条御息所に会いにゆき、彼女が自分が死んだあとの娘の行く末を案じているのを見て、自分が何なりとお世話するつもりだというのだが、これに対して、六条御息所は、自分の娘をどうか色恋沙汰に巻き込まないでくれ、という親としてはもっともなのだが、強烈な一言を光君にぶつける。

光君のお相手をする女性はみな総じて大人しい物言いだが、この六条御息所には、自分の意思を突き通そうとする強さを感じる(想像だが、紫式部とはこのような人だったのではないだろうか)。

六条御息所は数日後に亡くなり、光君は、六条御息所の意向を汲み、藤壺の宮と相談の上、斎宮だった娘を、冷泉帝のお世話役(妃のひとり)として入内させるべく、二条院に引き取ることとする。

こういった人事処理も、また、六条御息所の供養の一つと考えると、男女の関係というものは、一度結ばれてしまうと簡単には切れないものだということを、つくづく感じる。

2017年11月18日土曜日

ティファニーで朝食を/トルーマン・カポーティ 村上春樹 訳

自由奔放で、台風の渦の中心のような人物。

本人にその気はないが、異性の注目をひきつける魅力にあふれ、いつも周りに人々が群がり、はためには恋人をとっかえひっかえしているようにみえる人物。

この小説で主人公がつかの間、関わったホリデー・ゴライトリーもそんな女性だ。

たぶん、この女性が魅力的なのは、一見、能天気なように見えて、自分が空虚なものを求めていることを自覚していて、本質的に孤独だからだと思う。

深くかかわると一生を狂わされるような気がして怖い気もするが、こういう人と人生でめぐり会うのは幸福のような気もする。

会話が多い作品だけれど、軽妙なやりとりがテンポよく続いて、ホリーの奔放な魅力が活き活きと伝わってくる。

村上春樹の翻訳作品の中では、一番好きかもしれない。

#本当にティファニーで朝食が食べられるようになったらしい






2017年11月13日月曜日

花散里・須磨/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

この花散里は、非常に短い編であるが、亡き桐壺院の妃の一人であった麗景殿女御の妹で、光君とかつて逢瀬を交わしたという三の君が突然物語に登場する。

桐壺院亡き後、光君が庇護する二人の姉妹は、光君も含め、めったに訪れる人もない荒れた屋敷に静かに住んでいるが、光君に対して恨みの言葉を口にすることなく、やさしい人柄で接する。

それは、光君が、いまだに生活を支えるパトロンだということも大きな理由だろうが、一度結ばれた男女の関係においては、たとえ、長く待たされたとしても自分から仲違いを仕掛けないという、この当時の男女のつきあいの鉄則が述べられているような気がする。

須磨は、弘徽殿大后が権勢をふるう情勢になり、いたたまれない思いをするようになった光君が京を離れ、かつて都落ちした在原行平も住んだことのある須磨に移るという話だ。

死んだ妻の葵が住んでいた左大臣宅にいる若君(夕霧)にも、麗景殿女御にも、三の君にも、出家した藤壺の宮にも会って別れを告げ、弘徽殿大后の怒りの原因を買った尚侍(朧月夜)と藤壺の宮との子 東宮、六条御息所には手紙を送り、紫の女君と最後に別れを惜しみ、わずかな供とともに須磨に旅立つ。

須磨の光君を慕って、都から訪れる人もいるが、皆、都で噂になることを怖れ、早々に立ち去ってしまうことから、余計に光君はさみしくなる。
おまけに、海辺でお祓いをしようとしたら、海の中の龍王に目を付けられ、呼び寄せられるような悪夢を見てしまう。

単なる王宮での色恋沙汰だけで話が終わらず、主人公 光源氏の不遇の時を描いているところは、源氏物語がまぎれもなく小説であることを証明していると思う。



2017年11月12日日曜日

NHKスペシャル 追跡 パラダイスペーパー 疑惑の資産隠しを暴け

バミューダ諸島の法律事務所などから流出した膨大な内部資料(パラダイス文書)をもとに、政治家や富裕者が税逃れしている実態を取り上げていて、とても興味深かった。

バミューダやケイマン諸島だけでなく、英国に近いマン島も、法人税などが極端に低いタックスヘイブンになっている。

タックスヘイブンの特徴は、税率が低いだけでなく、知られたくない経済活動が秘密裏に行えるという特徴があるという。

今回、流出した文書には、英国のエリザベス女王の名前もあり、アップルやナイキの社名も。日本の政治家、個人、企業では1000超の名前が明らかになり、鳩山由紀夫元総理大臣も名前もあがっていた(これはニュースで見た記憶がある)
他にも、内藤正光 参議院議員 元総務副大臣もいた。
二人とも、そのような事実は把握していなかったとの弁明だが、どうなのだろう。

アメリカでは、トランプ政権のロス商務長官(元々80近くの会社を経営していた)が、いくつものペーパーカンパニーと投資会社を通し、プーチン大統領の側近と義理の息子が経営しているシブール社に投資し、利益を得ていたことが分かる(やり取りした金額78億円)。
ロシア疑惑(米大統領選でトランプ陣営に有利な働きかけをロシア政府が行ったという疑惑)の一つとして騒がれている。

また、イギリス王室の属領 マン島での税逃れでは、自家用としてジェット機を購入しても(税率20%)、ジェット機のリース事業を行っている形にすれば、税率0%にできる「制度があるという。
日本では詐欺事件で逮捕された元社長 西田信義氏が、ドイツで荒稼ぎしている違法カジノ事業の経営者が、F1ドライバーのルイス・ハミルトンも同じような手口で、税逃れをしている。

権力者や富裕者が、これほど税逃れしているとは。

パナマ文書報道に参加していた記者が自動車に爆弾を仕掛けられ暗殺される事件があったが、こういう骨のある番組は取材調査を続け、適宜報道を行ってほしい。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20171112

2017年11月11日土曜日

文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち/藤井光 編

イントロダクションで、藤井光さんが、「日本の語学教育は、文法と読解ばかりでコミュニケーション力が育たないという批判はあるが、翻訳という最大の使い道がある」と述べていたが、なるほどと深くうなずいてしまった。

基本文法が理解できて、知っている語彙が単語教材くらいになれば、たいていの文章を読めるようになり、背伸びをすれば小説も読めるようになる。
しかし、ただ読むだけでなく、(小説の)翻訳ができるようになるには、確かに長い道のりが必要な気がする。

原文をしっかり理解できていること(意味だけでなく、文章の性質も理解する)、対応する日本語の表現もなるべく多く頭に浮かび最適なものを選ぶ能力も必要となる。
加えて、背景や歴史的出来事を辞書やインターネットでしっかり調べるという地道な作業も必要になる。

慣れると、右脳で英語を考え、左脳で日本語を考え、これがつながる「回路」のようなものができるというが、どんな感じなのだろう。

本書で面白かったのは、以下のパートだった。

Basic Work 1 「下線部を翻訳しなさい」に正解はありません それでも綴る傾向と対策
(150年分)

藤井光さん(アメリカ文学)が、明治から現代にいたるまでの様々な文学作品(タイトル含む)の訳を例示し、その時代背景と翻訳者(森鴎外、谷崎精一、村上春樹、柴田元幸ら)の特徴を解説している。

同じポオの作品で、明治の森鴎外が意訳的で、昭和の谷崎が直訳的というのは意外だった。さらに時代が進んで、村上春樹になると、文章を短いセンテンスで切って、日本語の文章のリズム感をよくしたり、意訳と直訳を相互に共存させるなどの工夫がみられるという。

Basic Work 2 なぜ古典新訳は次々に生まれるか

沼野充義さんが、外国文学の「古典」の新訳ブームに火をつけたのは、村上春樹と亀山郁夫(ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」など)の功績であると述べている。

村上春樹がカポーティの「ティファニーで朝食を」の翻訳のなかで、「朝食」を「朝ごはん」と訳していることを取り上げ、タイトルも「ティファニーで朝ごはん」に思い切って変えてもよかったのではないかと述べている一方で、若島正が訳したナボコフの「ロリータ」に関する現代口語の思い切った表現には、懸念を示しているのは、沼野さんがロシア文学専門で、ナボコフに対する姿勢が厳しいせいだろうか?

Actual Work 3 翻訳の可能性と不可能性 蒸発する翻訳を目指して

笠間直穂子さん(フランス文学)が、翻訳する上での経験を具体的に述べていて、興味深かった。 

単語一つ調べるのに、すべての語義、用法、用例を読み、原文に適した語義を選び、辞典で解決しないときは、事典やインターネット検索を行うという根気のいる作業。
担当した学生が「ここが分かりません」というとき、「ほとんどの場合は、辞書に正解が載っているのに見逃しているにすぎず、」と言っているあたり、仕事に厳しい方なのかもしれない。

翻訳に興味がある人は、読んで損がない本だと思う。








2017年11月5日日曜日

葵・賢木/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

「葵」は、光君と夫婦でありながら、仲睦まじい関係になれなかった葵の上が、光君の息子となる夕霧の出産時に、六条御息所の生霊によって呪い殺され、傷ついた光君は、年頃になった紫の上(若紫)に手をつけ、夫婦の関係になるという話だ。

六条御息所は、光君への嫉妬から、彼が愛した夕顔に生霊として取りついて殺している過去がある。

冒頭、「二年がたった」と時の経過が述べられ、退位した桐壺帝が、光君に対し、六条御息所をぞんざいに扱うべきではないと注意する場面があるが、光君は、夕顔にとりついた六条御息所の生霊を目撃しても、なお彼女との縁が切れなかったらしい。
(もっとも縁を切ったら、彼自身取り殺されるリスクはあったかもしれない)

光君より年上で、なおかつ身分も高い自分を正当に扱わない。
そんな恨みに、祭りの際に葵の上の使用人に恥をかかされた恨みが加わり、生霊になるのだが、光君と会話していたはずの葵の上が六条御息所の声になったり、六条御息所が、葵の上を乱暴に打ち据える夢を回想するところは若干怖い。

しかし、妻を呪い殺されながら、六条御息所との関係を断ち切ることもなく、自分が育てた紫の上と新たに夫婦になろうとする光君は、強化ガラスのような精神を持つ稀有な男なのかもしれない。

「賢木」は、光君の父であり、パトロンであった桐壺帝が死去したため、光君の最愛の女性と言っていい藤壺が出家してしまい、光君は二重の悲しみを感じるのだが、一方で、自分の政敵と言ってもいい弘徽殿女御の妹 尚侍の君(朧月夜 別名六の君 )と無理な逢瀬を重ね、その逢引の場を朧月夜の父である右大臣に発見されてしまうという話だ。

この右大臣に、尚侍の君と御簾の中にいた光君が発見されたときの描写がいい。

...すると、やけに色めかしい様子で、無遠慮に横になっている男がいる。今になってようやく顔を隠し、だれだかわからないようにしている....。

このふて寝をして申し訳程度に顔を覆う光君のずぶとさ。
若干憧れてしまう。

しかし、右大臣は、即位した朱雀帝の母でもある弘徽殿女御に、この一件を話し、彼女は光君を陥れる手立てを思案し始める。



2017年11月3日金曜日

ノスタルジア/タルコフスキー

タルコフスキーの「ノスタルジア」は何度も見ていて、ヴェルディのレクイエムや光や水の映像の美しさにいつも陶然とした気持ちになるのだが、今回観たときは、エウジェニア(Eugenia)を演じたイタリア人のドミツィアナ・ジョルダーノ(Domiziana Giordano)の魅力に引き込まれた。

タルコフスキーは、女優を美しく撮る人だったなと、あらためて思う。

「鏡」で、タルコフスキーの若い頃の母を演じたマルガリータ・テレホワ(Margarita Terekhova)もそうだが、おそらく、この女優の一番美しい時期を切り取ったのではないかと思わせるような”代替の利かない”美しさがフィルムに収められている。

「ノスタルジア」は1983年の映画で、ドミツィアナ・ジョルダーノは、1959年生まれなので、この時、二十四歳ぐらいだったのだろうが、作品の重みもあるせいか、三十代の女性のような雰囲気が漂う。

アンドレイに、「光の中で、君は美しい」と賛美され、はにかむ場面もいいが、新しい恋人のドミニコ(おそらく彼女にはふさわしくない)に、タバコを買ってくるわと伝えるときの表情がとても魅力的だ。


英語版のウィキペディアによると、彼女は女優もやるが、写真家でもあり、ビデオアーティストでもあり、詩人でもあるという。

2017年11月1日水曜日

浮世の画家/カズオ・イシグロ

非常に良く練られて作られた小説だと思う。

戦後、現役を引退した画家 小野の姿を、1948年10月、1949年4月、1949年11月、1950年6月の四つの時期に分けて描いている。
小野が戦時中どのような絵を描き、実力を有していたかが、彼の末娘の縁談をめぐる人々との関係を彼が追憶することで少しずつ明らかになっていく。
そして、戦後、アメリカの民主主義と価値観に染まっていく日本社会と人々の中で、彼の立場がどのように変わったかが暗示される。

この小野という画家がどういった人物だったのかを、作者は、彼の独白と彼の視点でしか描いていない。
それでも、彼が杉村という実力者から立派な屋敷を手に入れた経緯、末娘の最初の縁談が破談となった理由、かつての弟子との冷え切った関係、彼が敏感に反応する若者からの戦争責任の追求の言葉などを通して、次第に小野が直接的には語らないの闇の部分が浮かび上がってくる。

1949年11月の章で、小野が、彼の師匠が目指していた「浮世」の画風から離れ、軍国主義的な国威発揚を煽る絵画を書くようになった経緯が判明する。
歴史の教科書に載っていたようなポスターのイメージが浮かぶ。
作者は、地元で若手画家の登竜門的な展示会を主催する岡田信源協会という謎めいた政治団体の存在を配置したり、小野の弟子が警察に非国民的な絵を燃やされるするなどの様子を描き、当時、軍国主義に染まっていった日本がリアルに描かれている。

この作品の最も効果的なところは、実は小野が語っていないところに相当な真実が隠されているのではないかと読者に思わせるところだと思う。

例えば、1950年6月の章で、小野は戦時中、次第に社会の評判を落としていった彼の師匠の別荘を眺め、彼自身の立身出世と比較して勝利感を味わう。しかし、戦後においては、小野の軍国主義的な絵は社会から当然に抹殺され、彼の師匠の絵は再評価されることになったはずである。しかし、小野はそれについて何も語らない。
小野が行きつけだった飲み屋「みぎひだり」(これも意味深な名前)も立ち退きに会い、行き場が無くなりつつある彼が、新たに建てられた会社の社屋から出て来る若い社員を見ながら、「純粋な喜びを感じる」と言ったのは、果たして本心なのだろうか。
そういう疑念のようなものが行間からふつふつと湧いてくる。

この作品を読んで、丸谷才一の「笹まくら」を久々に思い出した。
戦争から逃げた徴兵忌避者の男の戦後と、戦争を美化し、それを推し進めようとした男の戦後。

この二作品、比べて読むと、とても面白いと思う。



2017年10月30日月曜日

紅葉賀・花宴/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

紅葉賀は、光君が密かに関係した義母の藤壺が産んだ若君が、光君そっくりで彼の子どもであることが証明されるというのが一番の事件であるが、それよりも話として面白いのは、五十六、七の好色な性分の熟女(老婆?)の典侍(ないしのすけ)と関係をもってしまうことだ。

「流し目でじっと見つめてくるが、近くで見るとまぶたが黒ずんでげっそり落ちくぼみ、髪もぼさぼさである」この女性に、「この女はいったいどう思っているのだろうと、無視することもできなくて、裳の裾を引っ張ってみ」る光君。

彼がすごいのは、このあらゆる女性に対する並々ならぬ好奇心の強さだろう。

花宴は、桜の宴の際、光君の政敵とも言える弘徽殿女御の妹(六の君)を、強引に部屋に引きずり込み、関係してしまうという話である。

二人とも、薄々、相手が何者か感づき、特に六の君は困ったことになったと思いはするが、「恋心のわからない剛情な女だと思われたくない」と思い、特に抵抗もせず、関係を持ってしまうところが面白い。

この恋愛至上主義ともいうべき美意識にかかれば、政敵の相手と関係してしまうことも、やるせなく、切ない恋愛の旨みに変化してしまうのかもしれない。




2017年10月29日日曜日

忘れられた巨人/カズオ・イシグロ

この小説を読んだ後、忘却というものは、人間社会にとって必要なものなのか?という思いが強く残った。

個人として身近にいる人との過去の軋轢、怒り、悲しい思い出。それらをまだ許すことのできない自分。

国家として戦争を仕掛け、侵略した過去を忘れて未来志向の関係を築きたいと繰り返すが、それらを許してもらえない隣国。

もし、過去をすべて忘れることができたら、どれ程、人類は不要な戦火を逃れることができたか、個人として人を許し、許され、幸せになれたかという思いがよぎる。

この小説では、雌竜のクエリグの吐く息が、イングランドの人々の過去の記憶を奪うが、それによって、老夫婦の悲しい思い出、ブリトン人とサクソン人の争いぬから生まれた怒りや復讐が消え去り、傷を癒すように関係を修復することができた。

その竜を退治し、過去の記憶が蘇った時、「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人」が復活したとき、人々はどう振る舞うのかという、実に重いテーマを、この小説では取り上げている。

最後、記憶を取り戻した老夫婦が、息子がいた島に、二人一緒にたどり着けたのかどうかが、とても気になる。
結末を書かなかったのは、おそらく、その判断を読者に委ねているからではないか。


2017年10月22日日曜日

日の暮れた村/カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」をまだ読んでいる途中だが、記憶の忘失が重要なテーマとしてあることは間違いない。

この短編「日の暮れた村」もその系譜にある小説と言っていいだろう。

イングランドをずっと旅し続けてきたフレッチャーが、日の暮れた頃にたどり着いた村。
その村で彼は若い頃、「大きな勢力をふるうに至った」存在だった。
たまたま、彼を見かけた二十代の女性も、その姿を見かけ、ある種の興奮を覚えるほどの伝説的な存在。

しかし、フレッチャーは、休息をとろうと、たまたまノックして入った家が、かつて自分が滞在していた家だったことも、彼を知っているその家の主人であるピーターソンという老人も思い出せない。

そして、旅の疲れから眠ってしまった彼を起こそうと声をかけてきた四十代の女性は、かつて彼を崇拝し、彼と男女の関係を持った仲だったらしいのだが、私の人生を滅茶苦茶にしたと彼を非難するどころか、ひどく老いぼれた姿らしいフレッチャーを「嫌な匂いのする襤褸切れの束」とまで言うが、彼は彼女の名前を思い出せない。

彼は、自分を非難したがっているピーターソンの家の人々に、自分たちがかつていくつかの過ちを犯したことを認めつつも、これから、若者たちのいるコテージに行って話し、昔のように彼らを諭し、ある種の影響を与えようとすることを宣言する。

フレッチャーは、最初に彼を認めた二十代の女性に連れられ、若者たちのいるコテージに向かおうとするが、道中で、かつて、彼がかつて学校にいた頃、年中いじめていたロジャー・バトンと会う。(村に入った彼を尾行していたようにも思える)

ここでも、また、フレッチャーを「鼻持ちならないクズ野郎」というロジャー・バトンと話しながら歩くうちに、いつの間にか、女性を見失ってしまい、彼は、ロジャー・バトンに、若者たちのいるコテージに行くにはバスに乗っても二時間かかると言われ、村の広場のバス停に案内される。

前後の関係から言って、若者たちのいるコテージがそんなに遠く離れているはずもなく、明らかにフレッチャーはロジャー・バトンに騙されている訳だが、彼は来る見込みもないバスを待ちながら、痴呆者のように、若者たちのいるコテージで喝さいの中、迎えられる自分の姿を思い浮かべながら幸せな気持ちになる、という物語だ。

この物語は、若い頃にひどいことをした本人は忘れていても、周りの関係した人々はそれを根深く覚えているものだという教訓めいた話にも思えるし、

かつて勢いがある時には伝説のように崇められていた人も、老いてみすぼらしくなった時には、周りの人々にしっぺ返しをくらう運命にあるという話のようにも思える。

面白いのは、人気のない村の広場でバスを待つフレッチャーが、惨めな思いに駆られるのではなく、幸福感に満ちた気持ちの中、物語が終わるというところだ。

これは、カズオ・イシグロのある種の優しさなのだろうか。

2017年10月16日月曜日

遠い山なみの光/カズオ・イシグロ

読んでいて、とても不思議な気持ちになる小説だ。
まるで、小津安二郎の映画のような世界が再現されているからだ。

今は英国の片田舎に住む主人公の悦子は、夫を亡くし、二人の娘のうち、長女の景子が自殺で亡くなり、次女のニキはロンドンで暮らしていて、一人の生活を送っている。

次女のニキは、長女の景子が自殺したことは、母の悦子の責任ではないという事を励ましてくれるのだが、悦子はそれと関係するかのように、日本で最初の夫と結婚し、景子が、まだお腹の中にいた頃に知り合った、佐知子という女と彼女の娘 万里子のことを思い出す。

アメリカ兵との叶う可能性もないアメリカでの生活を夢見る佐知子と、彼女にほったらかしにされる万里子。

悦子は、この不思議な母娘と交流を持つのだが、戦後間もない長崎の街の様子、最初の夫 二郎と、義父の緒方との関係、これらの人々との会話を読んでいると、自然と、小津安二郎の映画「東京物語」のシーンが脳裏に浮かんでくる。

悦子は原節子、義父の緒方は笠智衆、父を冷たくあしらう夫の二郎は、山村聡のようだ。

佐知子は、原節子が二役やることでもいいかもしれない。
というのは、この物語では、悦子がなぜ、イギリスに旅立ったのか、景子との日本での思い出はどうだったのかが語られていない反面、まるで写し絵のように、アメリカに旅立とうとする佐知子と、彼女に振り回される万里子が描かれているからだ。

その構成は、英国に行った後の景子の運命と重なり、見事としかいいようがない効果をあげている。

カズオ・イシグロは、テレビのインタビューで、現実の世界にはない、記憶の中にある「日本」を留めておきたくて小説に書き留めたという話をしていたが、この小説を読むと、とても納得する。

ある意味、日本の小説家が書く小説よりも、はるかに日本らしい小説だと思う。

2017年10月15日日曜日

若紫・末摘花/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

若紫は、わらわ病(熱病の一種)にかかった光君が、加持祈祷を受けに山深い寺に行った際、偶然見かけた可愛らしい女童(若紫)が、思いを寄せる藤壺の宮の兄の娘という事を知り、自分のもとに引き取って育てようと、あれこれと画策する物語だ。

また、その一方で、光君は、病気にかかって宮中を退出した藤壺の宮となかば強引にふたたび逢瀬を交わす。

読者は物語の流れで行くと、ここで初めて、光君が藤壺の宮(自分の父の後妻で亡き母と瓜二つ)と強引に関係を持ったということを知らされる。

この本の解説にも出ているが、光君と藤壺の宮がそのような経緯になった編が本当はあって、何らかの理由により削られたのではないかという説があるが、いったい何だったのだろう。

いわゆる母子相姦というモラルを破ったという理由であれば、例えば、紫式部のパトロンであった藤原道長の指示で、物語の筋自体が変更されそうなので、別の理由だったのかもしれない。

そして、この物語のさらに大胆なところは、藤壺の宮が懐妊し、その父が光君らしきこと、また、光君が、天子の父になるという夢を見るというところだ。

そんな大問題を引き起こしておきながら、光君は、若紫を自分の元に向かい入れ、男女の関係こそないが、自分の懐に入れて可愛いがる。

光君が美男子だからこそ、物語になるかもしれないが、一歩間違えば、権力を笠に着た変態男子といっていいかもしれない。

末摘花は、光君のかつて乳母だった女性が知っている、荒れ果ててさみしい邸に住んでいる姫君に接近しようとする物語だ。この光君の物好きな漁色家と言ってもいい一面が垣間見える物語だ。

おかしいのは、光君に容易に会おうとしない姫君に熱を上げ、いざ、会ってみたら、気の利いた会話や歌詠みもできず、胴長で顔の下半分がやけに長く、鼻先が赤いという姫だったというオチだ。

それでも、この光君の奇妙なところは、一気に興ざめにならず、姫君に同情し、贈り物をして生活を支えたり、歌を詠んだり、さらには一晩泊まるような行為までするところだ。

おまけに、姫君の赤い鼻をもじった歌を詠んだり、若紫との遊びで自分の鼻に赤い色を塗り、その珍妙さを楽しだりしている。

悪趣味といえば、それまでだが、こういう人を馬鹿にしたようなゴシップは、今も昔も人々に好まれることを、紫式部は知っていたのだろう。

2017年10月8日日曜日

日の名残り/カズオ・イシグロ

ノーベル文学賞の受賞のインタビューで、カズオ・イシグロが、彼よりも先に受賞すべき作家として、村上春樹の名前を何のけれんもなく挙げていたのを見て、やっぱり、この人はいい人だなと思った。

「日の名残り」しか、読んだことのない読者であるが、私の中では、あの忠実なおそろしいくらい不器用でまじめな執事のスティーブンスのイメージが、カズオ・イシグロに重なってしまう。

久々にページをめくって読むと、やはり、いい作品だなと思う。
ダーリントン卿に仕えていた執事のスティーブンスは、ダーリントン卿の屋敷を召使ごと買い取ったアメリカ人の主人から、自分が帰国している間に、イギリスを旅したらどうかと、休暇とフォード車とガソリン代を与えられる。

とまどいながらも6日間の旅に出かけるのだが、美しいイギリスの田舎の風景をみながら、彼によぎってくるのは、かつて、国際政治の舞台となったダーリントン・ホールでの充実した日々と、彼とともに屋敷を切り盛りした女中頭のミス・ケントンへの思い。

私的な感情も、冗談一つ言うことも脇に置き、執事の品格について真面目に考え、あくまで職務に忠実を貫こうとする彼は、ナチス・ドイツに協力してしまった主人に対しては無条件な信頼を寄せることで、彼に秘かな好意を寄せていたミス・ケントンに対しては、職務を優先し、自分の感情を押し殺すことで、ともにやり直しのきかない結果を招いてしまう。

私が好きなのは、一日とんだ六日目の夜の記述で、スティーブンスが、執事をやっていたという六十代の男に、自分の過去を話し、涙ぐんでしまうのだが、桟橋のあかりの点灯を見ながら、新しいアメリカ人の主人に対して、上手くジョークを言えるよう練習することを思い立つところだ。

一人の執事の追憶が、イギリスの貴族社会の終焉、世界の中心がアメリカに移っていく流れを実に鮮やかに描き出しているところも、この作品の凄いところだと思う。

2017年10月2日月曜日

NOVEL 11, BOOK 18 ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン/ダーグ・ソールスター 村上春樹訳

村上春樹が訳したノルウェーの作家ダーグ・ソールスターが書いた11冊目の小説で、18冊目の著書。

まるで型式番号みたいなタイトルは、そういう意味では分かりやすい。

この奇妙な物語を読んだ後に、ぽつんと残るその無機質なタイトルは、この物語の主人公 ビョーン・ハンセンの生き方とシンクロしているような気がする。

彼は、妻と結婚し、息子もいるが、二人を捨て、愛人の後を追い、一緒に暮らすことなる。その愛人との生活も14年で破綻し、今度は、何年も連絡を取っていない息子との同居生活。

破綻することはやむを得ないことなのかもしれないが、家族に対する愛情らしきものが、このビョーン・ハンセンには感じられない。

この作品のすごいところは、このビョーン・ハンセンに本質的に欠けているのではないかと思わせる愛情のなさを実にリアルに描いているところだ。

自分の仕事には常に自信を持ち、周囲の人々とも付き合うことができる社交性はあるが、一方で自分の身近にいる家族に対しては、その弱い部分に対し容赦のない観察力を発揮し、周囲の人々の評価を病的なまでに気にする態度。

例えば、14年も暮らした妻ともいうべき愛人の容色が衰えると、彼は彼女を相手にしなくなる周りの若い男たちの反応を観察する。興業が失敗だった劇の彼女の受け狙いの演技にも容赦のない批判を行う。

成長した学生の息子と同居した際も、彼の甲高い声と一方的な喋り方、日曜はいつも家で一人でいることに着目し、息子には友人が一人もいないのではないかという仮説を立てる。土曜日深夜の帰る時刻も常に決まっていることも、彼には、友人と真に楽しむことができない性格があるのではないかと疑う。

この物語は、ビョーン・ハンセンの常人では理解不能な決断により、意外な結末を迎えるが、読後、私には、奇妙な苛立ちが残った。

それは、認めたくないけれど、自分の中にもこの男のような性質がどこかあるような気がして、自分が嫌になったからかもしれない。





2017年10月1日日曜日

空蝉・夕顔/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

空蝉(うつせみ)の編は、前編「帚木(ははきぎ)」で、光君が一度は関係を持った臣下の紀伊守の父である伊予介の若い後妻である空蝉に、つれなくされたことを悔しく思い、再び、彼女に近づく機会をうかがい、伊予介が屋敷を留守にするタイミングを狙い、空蝉の年の離れた弟 小君(こぎみ)を使って、彼女の寝室に忍び込もうとする話だ。

しかし、忍び込もうとする光君に気づいた空蝉に逃げられ、彼は誤って紀伊守の妹の“西の対の女”の床に入ってしまう。

面白いのは、別人と気づき、空蝉を恨めしく思いながらも、光君はいかにも西の対の女と契りたいという体裁を装い、愛し合うという行動だろう。単なる好色さといっていいのか、女性全般に対して常に礼を失しない律儀さなのかは判断が迷うところだ。

しかし、夜、顔もはっきりとは見えない誰とは分からぬ男性を向かい入れるこの時代の女性の気持ちとは、どういったものだったのだろう。

夕顔の編は、光君が六条御息所という光君より身分の高い年上の女性のもとに通っていた時分、彼の乳母であった尼のお見舞いに行った際、光君をみかけた隣家に住む女から届けられた扇に書かれた和歌から話がはじまる。

光君は、自分に和歌を届け関心を示した素性も知らない女 夕顔のもとに通うようになる。

正妻のいる左大臣の所も足が遠のき、六条御息所との関係も行き詰まり、空蝉とは会えないというストレスから逃げるように、彼は、夕顔に没頭するが、夕顔が住む家の隣家が騒々しいため、夜、人知れぬ空家に彼女を連れ出し、愛を交わそうとする。
しかし、その空家で、夕顔が生霊(六条御息所と思われる)に取りつかれ殺されるという事件が起きる。

生霊を目にして、この事件の恐ろしさに打ちのめされた光君は寝込んでしまうのだが、作者は彼を廃人にしようとはせず、まるで一過性の罰を与えたかのように、回復させて魅力的な男に再生させる。

光君は、普通、身分の低い女の死に、そこまで関わらないものなのかもしれないが、死んだ夕顔の使用人であった女房の世話をしたり、葬式をあげて弔うなど、手厚い対応をしている。

物語の最後、自分を散々苦しめながら、夫の伊予介とともに任地に旅立つ空蝉に対しても、多すぎるほどの餞別を与えるところも彼の優しさが垣間見える。

この情け深いところも、光君の魅力という事なのだろう。



2017年9月24日日曜日

桐壺・帚木/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

約一千年前に生まれた恋愛小説。
その作品が書かれたことも、そして現代まで生き残ったことも確かに奇跡のような出来事なのかもしれない。

池澤夏樹は「源氏物語」を、こんな風に評する。
『源氏物語』ではすべての登場人物が作者の頭の中から生まれた。だから「小説」なのだ。
光君の誕生以前から浮舟の出家まで前後七十年に亘る登場人物たちの運命を、作者は一人で糸を紡いで染めて織って大きな緞帳にまとめ上げた。
 五十四編からなる、この長編小説は、今後、中巻、下巻が出るらしいが、さすがに読み切れるものかと心配になったが、巻末にある角田光代の「訳者あとがき」と藤原克己と池澤夏樹のよくできた解説を読んで、これは確かに面白い小説かもしれない、読んでみようという気になった。

特に、角田光代の、とにかく読みやすさを意識した訳文であれば、読み切ることができるかもしれないと思うことができた。
(さらにいいのは、編ごとに、家系図があり、人物関係が一目でわかる工夫がされていることだ)

「桐壺」は、光源氏生誕のいきさつが書かれた物語だ。
父の帝に深く愛された美貌の母 桐壺更衣。権力の後ろ盾もない彼女は、帝の愛情を一身に受けたことで、後宮の女御たちの嫉妬と怨嗟に苛まれる。
光君を産んだが、心労がたたり、光君が三歳の時に亡くなってしまう。

物語中、面白いと思ったのは、光君を観相(人相見)した高麗人のコメントである。
「この子には天子となるべき相がおありだが、この子が天子になると乱憂が生ずるであろう。しかしながら臣下の地位にいてよい相ではない」
帝はこの観相を信じ、光君を臣下の身分に下し、源の姓を与える。

一方、帝は桐壺を失った悲しみを癒すため、彼女によく似ている藤壺の宮を愛するようになる。帝が光君を連れ立ち藤壺をよく訪ねることがきっかけで、光君は継母である藤壺を母のように慕い、成長するにつれ、その思いは恋慕に変わってゆく。

「帚木(ははきぎ)」は、光源氏が十七歳に成長したころの話。「桐壺」との直接的なつながりが感じられない一編なのだが、これも池澤夏樹の解説を読むと納得できる。
冒頭の文章が面白い。
光源氏、というその名前だけは華々しいけれど、その名にも似ず、輝かしい行いばかりではなかったそうです。
この編では、雨の夜、光君が妻の葵の上の兄の頭中将らと、女性経験を話し合うという流れから、光君が臣下の紀伊守の家に突然押しかけ、彼の父である伊予介の後妻(まだ若い)である空蝉(うつせみ)を寝取ってしまう展開になる。

光君は、再び彼女に会うため、彼女の年の離れた弟の小君と親しくなり、恋文を持たせ、彼女の返事を催促するようになるが、空蝉は光君に対する自分の歳と身分を意識し、彼の分不相応な愛は受け入れられないと拒否する。

しかし、かえってその拒否が光君の思いを募らせ、再度、紀伊守の家を突然訪問することになるが、空蝉は内心では光君に心乱れながらも、再び断固として会うのを拒否する。

面白いのは、光君の意外な執拗さで、彼は悔しさに眠れもせず、小君に彼女が隠れているところに連れて行ってくれと頼むところだ。

結局、彼は諦めることになるが、この空蝉の件一つにしても、彼の女性の好みは、幼い頃に亡くした母の桐壺と彼女の面影を引き継いだ継母の藤壺に強く影響され、自分より年上の人妻に偏向しているのが分かる。

角田光代の現代語訳は読みやすく、物語の中心に難なく近づくことができているような気がする。

*初刊だけだと思うが、お香の入った栞(しおり)が付いている。

2017年9月14日木曜日

池澤夏樹、文学全集を編む/河出書房新社

池澤夏樹が個人編集した世界文学全集/日本文学全集に関するイントロダクションのような本書。

まず、池澤夏樹が日本文学全集において古典を翻訳することとなった訳者たち(殆どが小説家)に宛てた手紙がすばらしい。

池澤は、三島由紀夫が日本の古典を天女のように崇め、現代語に訳すのは冒涜であると捉えていたことに触れ、「俗物であるぼくは天女を現世に連れてきて一緒に暮らしたいと思う」という。
そのためにはひらひらの衣装を脱いでTシャツとジーンズになってもらうのもしかたないと考える。大事なのは現代の人々が天女と会う機会を提供すること...現代日本の喧騒と雑踏の中に天から彼女がしずしずと降りてくる光景を目撃したい。それはやはり、今日ただいまの日本語を相手に日々悪戦苦闘している作家の力量を必要とする仕事なのだ。
私は、この手紙を読んで、日本の文学界で死語になりつつある文壇という言葉を思い出した。

二つ目に面白いのは、池澤夏樹がこの日本文学全集を編んだ編集基準を、丸谷才一の文学的趣味であるモダニズムに依ったということ。
モダニズムというのは伝統を重視すると同時に、大変斬新な実験もする。そして基本的に都会小説であって粋である というのが丸谷式の定義であって...
三つ目に面白いのは、上記のようにいいながらも、丸谷才一が生きていたらやりにくかったと述べ、「敬愛するけど煙たくもあるんですよ」とストレートに本音をこぼしているところ。
丸谷さんが全集を編めば石牟礼道子は入らなかった。中上健次だって認めていなかったから。彼の言うモダニズムは三つあって、一つは斬新な手法を開発する、前衛である。それであって伝統に則る。この二つは矛盾しない。三つ目は、これが丸谷的なんだけど、都会的で洒落ているということ。
そうすると中上健次は入らない。 石牟礼道子も入らない。 だから僕はそれは脇に置いた。僕は辺境に向かう人間だから、彼のように都に向かう人とは途中ですれ違うんです。
中上健次の作品は、私小説的な側面もあるため、丸谷才一は好きではなかったでしょうね。また、石牟礼道子の「苦海浄土」の一節を、丸谷才一も称揚していた書評もあったが、それはもっぱら文章の美しさについてであって、池澤夏樹のように「弱者の側に立つ」「周縁の視点に立つ」「女性の視点」という世界に通用するような価値観を持った作品であるという取り上げ方は絶対にしなかったと思う。


2017年9月10日日曜日

スクープドキュメント 沖縄と核/NHKスペシャル

一昨年、米国防総省は「沖縄に核兵器を配備していた事実」を初めて公式に認め、機密を解除したらしい。
番組では当時の機密資料と元米兵へのインタビューをもとに、沖縄への核配備がどのようなものであったかを明らかにしている。

元軍人のアイゼンハワー大統領の積極的な核利用の姿勢を受け、当時、共産主義国であるソ連、中国との対立から、沖縄への核配備が進められ、極東の核戦略の拠点と位置付けられた。嘉手納の核弾薬庫に核爆弾が保管されていたらしい。

1959年6月19日 現那覇空港の訓練地で20キロトンの広島級の核弾頭を積んだナイキというミサイルが海に誤発射されるという信じられない事故が発生した。
幸い爆発は起こらなかったが、もし、爆発していたら那覇市は壊滅的な被害を被るところだった。米側は、国際世論の批判を怖れ、この事実を極秘扱いにした。

また、米海兵隊がレーダをかいくぐって核爆弾を投下するLABS(低高度爆撃法)という訓練を伊江島で繰り返し実施していたところ、1960年に訓練中、模擬爆弾の爆発で子供と妻がいた28歳の男性が死亡した(番組ではその娘に当たる方がインタビューに答えていた)。

1960年日米安全保障条約が締結され、核を持ち込む際の日本側との事前協議制度が設けられたが、核の抑止力が必要と判断した岸信介総理大臣は、この事前協議制度には沖縄を含まないことを了承。沖縄に核を持ち込むことを暗黙のうちに了承した。

メースBという新型ミサイルの配備が進み、これが核ミサイルではないかと沖縄の住民・新聞が騒然となった。
しかし、当時の日本政府の小坂外務大臣の対応は、ミサイル配備の情報公開を原則とする米軍に対し、事前にメースBを導入することを公表しないでほしいと頼みこんだという。事後の事であれば沖縄の人々も騒がず、日本政府も責められずに済むからという誠意のかけらもない理由からだった。

結局、メースBは沖縄4カ所に設置され、元米兵のインタビューによると、キューバ危機の際、中国をターゲットにしていたらしい。

その後も沖縄への核の配備は進み、1967年には最大で1300発もの核爆弾が配備されていた。もし、ソ連が沖縄に攻撃をしかけていたら、沖縄は無くなっていたかもしれない。

1972年、日本への沖縄返還で表向きには核撤去が約束されたが、佐藤栄作とニクソンの間では、緊急時に備え、那覇、嘉手納、辺野古の核弾薬庫はいつでも使用可能にできるよう維持する核密約があった。

現在、米国防総省は、沖縄に核を配備しているかについてはノーコメントで、日本の外務省は、核密約は無効になっており、非核三原則に基づき、そのような事実はないとコメントしている。(果たして本当なのだろうか?)

核の抑止力を必要と判断し、核爆弾を日本本島に置くことは避け、沖縄を選択するという日本政府の姿勢は、沖縄の基地問題と全く同じ構図だ。

本当に核の抑止力などというものが必要なのか。
必要だとしたら、日本は、核武装を進める北朝鮮と基本的には変わらないのではないか。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170910

2017年9月3日日曜日

知の仕事術/池澤夏樹

まるで、立花隆の「知のソフトウェア」のような印象のタイトルの本を、池澤夏樹が書いていることへの好奇心から買ってみた。

冒頭、「自分に充分な知識がないことを自覚しないままに判断を下す」ような社会の大きな変化が目立ってきており、本書は、反・反知性主義の勧めであること、
その知の継承のため、今まで自分の仕事場を公開してこなかったが、規制を緩めて自分の「知のノウハウ」を公開すること、が述べられている。

以下の章立てで、作者のノウハウが述べられているが、印象に残ったところだけ、軽く取り上げてみる。

1 新聞の活用
 その新聞が作った世界の図を、批判の姿勢で受け入れていく。「それはちょっと違うぞ」と思いながら、いわば対話しながら読んでいく。

2 本の探しかた
 新聞広告、書評のほかに、各出版社が出しているPR詩を購読するのがよい(年間購読でも送料込みで1000円程度)

3 書店の使いかた
 日本全国900軒の古本屋、古書店が参加している日本の古本屋が便利。
 
4 本の読みかた
 古典を読むのは知的労力の投資だ。...しかし、たいていの場合、この投資は実を結ぶ。

5 モノとしての本の扱いかた
 どんな本でもいずれ手放すと意識をして扱う。6Bくらいの太くて軟らかい鉛筆で、気になる箇所にマーキングする。消そうと思えば容易に消せるくらい。

6 本の手放しかた
 ストックの読書とフローの読書。死ぬまで置いておく不変のストックである本と、読まれて次の読者のところへ流れてゆくフローの本。

7 時間管理法
 ワードファイルで「月間管理表」を作る。過去の仕事の記録は全部残しておく。

8 取材の現場で
 知らない所に行くときのガイドブックは「Lonely Planet

9 非社交的人間のコミュニケーション
 小説を書くために人に会って話を聞くことはほとんどない。専門知識はすべて書物とインターネットで集め、現場踏査を行う。

10 アイディアの整理と書く技術
 最初に書いた原稿からの変更箇所が一目でわかるように修正を入れたゲラと同様のデータをつくっておく。

11 語学学習法
 語学の習得にはなにより「分量」をこなすことがものをいう。そういう意味では「暇」は絶対的に大事。
 
12 デジタル時代のツールとガジェット
 英語圏にあって日本にないのが「引用句辞典」。食事の席の話題にしたり、自分の文章をちょっと飾ったりするときに使う。(トイレに置いておくのに最適)

と並べてみたが、丸谷才一から毎日新聞の書評欄の顧問を任されたときの話や、林達夫とガイドブック「Lonely Planet」を交換した時の逸話、父の福永武彦と議論した限定本に関する考え方の違いなど、興味深いエピソードも読ませるものがある。

池澤夏樹が自分で作った書棚の写真が一部だけだが掲載されているところも興味深い。


2017年9月2日土曜日

The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire 円城塔 近現代作家集 III/日本文学全集28

邦訳すると「銀河帝国衰亡史」とでも言うのだろうか。

アイザック・アシモフのSFにも、このようなタイトルの小説があるが、この作品は、SFとはまるで無縁の作品だ。

また、この作品は99の短文いう構成になっており、一見、カフカのアフォリズム集のようでもあるが、どれも箴言という深みもない。

例えば、こんな感じ。
81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて敵わないので、ペットボトルを並べてみる。
「銀河帝国」という大仰な印象を受けるワードを、日常の文章に埋め込み、そのギャップとナンセンスを楽しんでいる作品だ。

読む人によって、評価は分かれると思う。
くだらないと思う人もいれば、傑作だと思う人もいるだろう。

一時期(今も?)、ケータイ小説なるものがはやったが、もし、私が、この作品を見かけたら、ついつい購読してしまうような気がする。

池澤夏樹が編集した日本文学全集の「近現代作家集」は、この作品で幕を閉じる。
最初から最後まで、型破りの作品の連続だった。



2017年9月1日金曜日

三月の毛糸 川上未映子 近現代作家集 III/日本文学全集28

仙台で暮らす妊娠8か月の妻と夫。
実家の島根から帰る際、妻から京都に寄りたいと突然言い出す。

何かに不安といら立ちを抱えている妻との会話に、半ば疲れ、頻繁に睡魔に襲われる夫。

二人がホテルで寝ている時に、妻は、毛糸で生まれてくる子供の夢を見た話ををする。

「その世界では三月までもが毛糸でできあがっているのよ」

「いやなことがあったり、危険なことが起きたら一瞬でほどけて、ただの毛糸になってその時間をやりすごすのよ」

そして、妻は泣き出す。
「何かとんでもないことがわたしたちを待ち受けているんじゃないかしら」と。

おそらく、二人は三月に旅しているのだろう。
そして、妻の携帯には、友人から地震大丈夫かとのメールが来る。

この状況から考えると、おそらく、この話は、あの日のことで、まだ事実を知らない状態なのだろう。

ただ、上記のように、妻はすでにその予兆を感じている。
そして、夫も、「明日は大変な一日だよ」と妻に告げ、二人はふたたび深い眠りに落ちる。

何かを喪失する前の予兆を描いた作品。

二人は深い眠りから覚めて、あの事を知って、毛糸のようにやり過ごすことができたのだろうか。
そして、二人が仙台に帰る時はいつになったのだろうか。

2017年8月31日木曜日

一十三十一 Billboard Live東京 8月31日

六本木駅の長いエスカレータを昇って、東京ミッドタウンへ。
エレベータ4階で降りると、 Billboard。



19時開演のライブだったので、18時頃会場に着いたのだが、すでに1階の自由席は満席に近かった。

このBillboardの会場の面白いところは、1階のアリーナ席のようなテーブル席が自由席で、2階の席が指定席になっている。

たぶん、2階の眺めも良いのだろうが、アーティストを間近で見れる1階も捨てがたい。

早速、飲み物と食事を始めて、周りを見渡すと、客層は自分よりちょっと高めの年齢層だったと思う。(若い人も何人かはいた)。

きれいな夜景をバックにしたステージは驚くほど狭い。


19時過ぎ、会場の方からメンバーがステージに上がってきた。
hitomitoiは、“Flash of Light”で着ていた衣装を着て登場。
足が細いというか、ばっちり鍛えている風の筋肉質な足が、むしろ印象的だった。

最初の曲は、DIVE。
なかなか、キーかテンポが合わないのか、何度か、指を上にあげる仕草をバックに出していた。

最初、緊張している感じだったが、途中、今回のアルバム“ECSTACY”をプロデュースしたDorianが合流してから、ほぐれてきた感じ。

半ズボン姿のDorianは、服装をいじられると、ZARAで今日買ってきましたと返し、独特の髪型をいじられると、QBで切ってきましたとこれまた軽い返し。(意外と面白い人なのかも)

途中、 hitomitoiが、“ECSTACY”でDorianと初めてデュエットした曲は?と会場に聞いたのだが、最初みんなポカンという感じだった。私もわからなかったが、実は「Discotheque Sputnik」だった。

それを気にしたのか、アンコールの曲のあたりで、Dorianが「みなさん、“ECSTACY”を楽しんでもらえてますかね?」とボソッと聞いたのが印象的だった。(会場は拍手で肯定した)

KASHIFも、普段着のような恰好で参加するし、彼女のパートナーは、よくいえばみんな自然体なのかな。

 曲は、“ECSTACY”中心だったが、Surf Clubから Dolphin があったのと、アンコールで、“恋は思いのまま”を聞けたのはうれしかった。

途中、彼女が、2弦だけの赤いギターをガーンと弾いたのだが、それがあまりに印象が強すぎて、何の曲か忘れてしまった。(後で思い出したら「夏光線、キラッ。」でした)


夏の終わり、不思議に元気をもらったライブでした。

#Billboardのフロアスタッフは、みんな感じがよかったです。

2017年8月29日火曜日

神様/神様2011 川上弘美 近現代作家集 III/日本文学全集28

1993年に書かれた「神様」は、熊と川原に散歩に行く物語だ。
誠実でやさしい熊と親しくなった幸せな一日。

原発事故後、その「神様」をアレンジして書かれた「神様2011」。
「神様」とストーリーは同じだが、 いたるところに、放射能の影が見える。

この作品を読んで、久々に2011年という年を思い出した。
それは、日常生活の中で、ベクレル(Bq)、マイクロシーベルト(μSv)、ミリシーベルト(mSv)という聞きなれない単位を強く意識していた1年だった。

簡易線量計を持ち、家や通り道のホットスポットを確認する。
土砂を片付けた袋の線量の高さを確認して家の庭の端っこまで持って行く。

不必要な外出を避け、外に出るときもマスクをする。

そういう日常を久々に思い出した。

でも、その日常はまだ終わってはいない。

今も福島では、線量が表示される電光板を所々で見かけるし、除染で出た汚染廃棄物が入った黒い大きなごみ袋(フレコンバック)が山積みになっている所も見かける。そして、甲状腺がんの検査。

「神様」と「神様2011」。

この二つの物語を比較すると、そこには決定的な変化があったということにやはり気づかされてしまう。あまり認めたくない事実ではあるけれど。

2017年8月28日月曜日

雪の練習生(抄) 多和田葉子 近現代作家集 III/日本文学全集28

この作品は、全く日本文学という域を抜け出している。

主人公は、なぜか雌の北極熊。

サーカスで活躍していたが、踊りでひざを痛め、管理職として旧ソ連の意味のない会議に出席する日々。
自伝を書きたいという望みから、かつて自分のファンだったオットセイの編集長を訪ね、原稿を渡し、雑誌に取り上げられ、人々に注目される。

しかし、彼女の作品は、西ドイツでもドイツ語に翻訳され評判となり、当局の監視対象となってしまう。やがて、彼女はシベリア行きになりそうになるが、支援団体のおかげで西ドイツへの亡命に成功する。

しかし、今度は支援団体の監視のもと、執筆をなかば強制され、嫌気がさした彼女は、スモークサーモンが美味なカナダへ亡命する。

一見すると、童話のようにも思えるが、共産圏から西側諸国に亡命した作家たちの苦労がしのばれる。言語も人種も違うと、熊と人、オットセイほどの違いは大なり小なりあるのかもしれない。

それにしても、この雌熊は変に人間味があって可愛い。

2017年8月26日土曜日

桟橋 稲葉真弓 近現代作家集 III/日本文学全集28

夫とうまくいっていない女が、幼い男の子を連れて、友人が所有している別荘を訪れる。

解放された環境の中で、やることもなく、海と山に囲まれた入江の桟橋で子供が海の中の蟹をみつめている間、彼女は、小屋でアコヤ貝に真珠の核入れをしている男の作業の様子をみつめる。

キール文字Эのような形の入江、 開口器で押し広げられた貝の肉の奥に真珠の核を挿入する作業、貝や魚の腐臭、ねっとりと全身にまとわりつく潮風、串刺しにされた獣( イノシシ)のイメージ。

そして、女が夜ぼんやりとみつめる謎めいた絵画。


 アンドリュー・ワイエスの「春」


 ルネ・マグリットの「光の帝国」



女は、夜、作業小屋の光をみつけ、吸い寄せられるように小屋を訪れる。
そして、イノシシを追い込む銅鑼の音を聞きながら、「きっと、なにかが罠にかかったのだ」と思う。

彼女は、自分を真珠の核を挿入された貝のように、串刺しにされた獣のように感じる。

そうした密やかなセックスを喚起するようなイメージが満ちたエロチックな小説。

夜、男のいる小屋の光に吸い寄せられる場面は、アントニオ・タブッキの「島とクジラと女をめぐる断片」で、ウツボ釣りをする男が、ウツボを引き寄せるときの歌をうたって、女を引き寄せるシーンを思い出した。


*稲葉真弓さんは、すでに他界しているが、倉田悠子というもう一つの名前の作家でもあり、なんと「くりいむレモン」などのライトノベル小説も書いていたらしい。

2017年8月22日火曜日

『月』について、 金井美恵子 近現代作家集 III/日本文学全集28

まるで詩のような小説だ。

むくわれることのない恋をして嫉妬に苦しめられている男が見た月について書かれた短編小説『月』を読み返している作者が、その物語に次々と新しいイメージを追加してゆく。

靴、生垣、犬、商店街、砂岩段丘、小道...

そして、話は小説に戻り、男が獣医の妻を送る道すがらに見た月の場面に戻る。

どこまでが男の書いた小説で、どこからが作者が付け加えたイメージか判別できない。
私は書いて、それからそれを読みかえす。書かれたことと記憶は入り混り、新たな記憶が増えながら消え去り遠ざかることを怖れつつ願いもしながら、読みかえす。
男が獣医の妻を忘れるために、あるいは記憶に焼きつけるために行った作業。
読みかえしとイメージの追加による新たな記憶の増殖。

その男の行為を作者が想像の中で再現し、文章に残すとこういう作品になるのだろうか。

たぶん、誰かに恋している時に読むと、伝わってくるのかもしれない。
その熱に浮かされた苦しい陶酔感のようなものが。

2017年8月21日月曜日

暗号手/大岡昇平

大岡昇平が、フィリピンの旧日本軍 サンホセ警備隊の暗号手を務めていた時のはなし。

大岡が説明する旧日本軍の暗号の説明が面白い。

「部隊換字表」という暗号の単語表。

発信する際に加えられる3数字の「乱数」。

その数字を加工するために用いる「非算術加法」と解読するために用いる「非算術減法」。

電文を暗号に変える「組立」。

受信した暗号文を普通の文章に直すことを「翻訳」。

これら総称の「作業」。

大岡は、部隊唯一の暗号手として、暗号文の発信・受信・解読に勤めたが、一般の兵役よりは楽で、軍の秘密を真っ先に知りうる立場だったため、上官や同僚から妬まれ、色々と嫌がらせを受ける。

大岡は自分が死んでしまった時のことを考え、自分の代理を育てることを思い立つが、その時の彼の内心を率直に明かしている。
...同時にそれが私の独占的位置を危うくすることに気づいた。こういうことをすぐ考えるのも私が会社員として得た習慣である。
自分にしか出来ない仕事を作るのは出世しようとする会社員の心得の一つである。
大岡は、この「会社員のマキャベリスム」というべき懸念を無視して、中山という東大出の高級社員だった男を推薦し、彼を育てはじめるが、やがて、その懸念が顕在化し始める。

中山は自身が勤めていた会社のマニラ支店に軍曹を連れていき、金銭を渡し、更には、内地へ帰った時の就職の世話まで約束して取り入った。

これにより、 中山は昇進し、大岡は出世から取り残され、かつ、代理ができたせいで、通常の兵士同様、一般勤務にも就くことになってしまう。

大岡が、自身が封じ込めようとした「会社員のマキャベリスム」を積極的に活用する中山に対して言った言葉が面白い。
「おい、君はそうやってうまく立ち廻る気らしいが、実はつまんないんだぜ。
レイテはどうやら負け戦だし、どうせ俺達は助からないんだ。株を上げると却って身体を使わなきゃならねえのは、会社も軍隊も同じことさ。いい加減に投げ出して呑気にやるもんだよ」
その後、中山は、大岡の予言通り、軍隊の様々な役務に徴用され、次第に疲労を深めていき、やがて、過労からマラリヤで倒れ、死期を早めてしまう。

以下の文章は、大岡の嫌悪が日本陸軍に向けられているだけではなく、自身の中にもある会社員気質に向かっているところが興味深い。
中山の会社員気質を私は幾分意地悪く書いたような気がする。それは多分今なお私の内にある会社員気質と、文学という悪い根性のなせる業である。 彼が愚劣に戦った日本陸軍の犠牲者であることはいうまでもないが、仮に生還していたとして、彼がやはりあの陰惨な会社員の政治学を推し進める他はないと、彼はやはり不幸である。彼は依然として何かの犠牲者であることはかわりない。

2017年8月20日日曜日

村上春樹翻訳ほとんど全仕事/村上春樹

この本を読むと、村上春樹という人は、本当に仕事をする人だなという実感が湧く。

1979年の小説家としてのデビュー直後の1981年、フィッツジェラルドの「マイ・ロスト・シティー」から始まり、以来、36年間、80弱の作品を翻訳し続けている。

小説家で、これほどの数の翻訳をこなしたのは、森鴎外以来ということらしいが、彼の仕事の実績のおかげで、日本の出版界において海外文学がこれだけ裾野を広げたと言っても過言ではないだろう。

特に、日本ではそれまで評価されてこなかったフィッツジェラルド、アメリカでも殆ど知られていなかったレイモンド・カーヴァーをいち早く見つけ、こつこつと翻訳し続け、地道に日本のファンを獲得していったことは素晴らしいことだ。

原作者の魅力というより、まず、村上春樹の文章を読みたいという読者が多かったからだろう。(私もその一人です)

小説家としても翻訳者としても実力がついてきた50代以降から、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」、レイモンド・チャンドラー の「ロング・グッドバイ」と、大物作品の翻訳に取り掛かっているところも、周到な仕事の進め方だと思う。

この本の前半では、翻訳本のカバーの写真とともに、村上春樹が自作に関するコメントを述べており、後半では、彼の翻訳のチェック作業を支援してきた柴田元幸との翻訳談義が収められている。

読んでいて、なるほどなと思った箇所を取り上げてみる。
(村上)
逐語的には訳は間違っていないし、論旨もいちおう通っている。でも、翻訳の文章を読んでいて、「え?」と思って、もういちど読み返すことがあるじゃないですか。これはいったいどういうことだろう、何が言いたいんだろう、と。そういうのはやはりまずいですよね。どんなに難しい内容でも、一回読んで内容がいちおうすっと頭に入るというのが、優れた翻訳だと思うんです。読者をそこでいったんストップさせてはいけない。流れを止めてはいけない。
 (村上)
...八〇年から始めて、これでもう三十六年間、延々飽きずに翻訳しているわけです。これだけ長く翻訳していると、そのあいだにやっぱりいろんな大事なことを学びます。たくさんの本を翻訳しているのですねえと、よく驚かれるんですが、他の作家があんまり翻訳を手がけないということのほうが、僕にとってはむしろ不思議でならないですね。翻訳作業というのは、小説家にとってこんなに豊かな知の宝庫なのに。
...いつも言うんだけど、翻訳するというのは、なにはともあれ「究極の熟読」なんですよ。写経するのと同じで、書かれているひとつひとつの言葉を、いちいちぜんぶ引き写しているわけです。それも横のものを縦にしている。これはね、本当にいい勉強になります。
ちなみに、村上春樹は、研究社のオンライン辞書を使っているらしい。
http://kod.kenkyusha.co.jp/service/

有料のようだが、1年に一冊辞書を買うよりも、たくさんの辞書が利用できるので、高くはないかもしれない。

http://www.chuko.co.jp/tanko/2017/03/004967.html

2017年8月19日土曜日

ゴドーを尋ねながら 向井豊昭 近現代作家集 III/日本文学全集28


「ゴドーを待ちながら」のウラジーミルとエストラゴンの二人が、弥次喜多のような恰好をして、恐山に現れる。

彼らは、イタコを通じて、ゴドーに会おうとしているのだ。

お金も持っていない二人をサポートする島冬男。
彼も、自分の母親の十三回忌で、イタコを通じて母に会おうとしている。

そして、三人でイタコに「ゴドー」の降霊を依頼したのだが、「ゴドー」が何なのかも知らないイタコは、何故か、冬男の母の魂をその体に下ろす。

そして、冬男の母となったイタコは、「ゴドー」ならぬ「後藤(下北弁では、ゴドウ)」を非難しはじめる。
どうやら、その「後藤」は、冬男の母をだまして、冬男を孕ませ、逃げたペテン師の男らしい。

と、あらすじだけ見ると脈絡もない話なのだが、著者の言語、方言に対するこだわりが随所に垣間見える。

たとえば、冬男が、最後に母を看取った様子を下北弁で手書きした文章を地元の文芸誌に寄稿したところ、その文芸誌から、ワープロで作成され、誤変換された漢字を含む文章で掲載を断られたエピソードや、イタコの言っている言葉の意味が分からないと嘆くウラジーミルに対して、冬男が「百パーセントわかる言葉なんてない。イタク(アイヌ語で「言葉」)は、本来、感じ取るものなんです。」と言ったりするところ。

さらには、「ゴドーを待ちながら」の幕切れに、この物語のウラジーミルとエストラゴンの二人を戻すために必要となる「力を持った新しい言葉」を生み出す決意が最後で述べられている。

単なる方言の言葉でもなく、誤変換を起こすようなワープロの言葉でもない「新しい言葉」

これは、作者の新たな文学創造の宣言のような作品にも思える。

2017年8月18日金曜日

スタンス・ドット 堀江敏幸 近現代作家集 III/日本文学全集28


妻を亡くし補聴器を着けないと耳も聞こえない難聴のオーナーが経営する古いボウリング場の最後の営業日。

客が誰も来ぬまま閉店になるはずだったが、トイレを借りに若いカップルに無料で1ゲーム楽しんでもらうことにする。

しずかなボウリング場に、ボールが転がりピンが倒れる音がよみがえる。
骨董品のような古い機械。ストライクの時、すばらしい和音をたてるこだわりのピン。
そして、オーナーに全盛期のボウリング場の記憶がよみがえる。

10フレーム、カップルはオーナーに最後の一投を譲る。
彼は、補聴器を外し、自分のスタンス・ドットに立つ。
ストライクを取るよりも、あの音が聞きたかった彼の聞こえないはずの耳に、あのピンが一斉に倒れる音が響きわたる。

しずかな終わり方だが、読んでいて、心に染み入る。
ボウリングで、こんなに美しい小説が書けるとは。

2017年8月17日木曜日

半所有者 河野多惠子 近現代作家集 III/日本文学全集28

夫婦の関係を、相手の肉体の所有という観点から描いているこの作品も独特の雰囲気がある。

夫が亡くなった妻の身体に激しく所有欲を感じ、葬儀前、二人きりになったところで、死姦する。

己(おれ)のものだぞと、冷たくなった妻の死体を抱きしめ、性交を試みる行為を、愛情の表れと見るか、異常性欲と見るか。

最後、息子が寝ずの番を代わろうと自宅に来るのを必死に拒む夫の強い口調に滑稽感がにじむ。

夫は、妻が生きている時には、その身体を完全には独占できない。
しかし、妻が死んで「物」になった時でさえ、さまざまな制約や妨害があって、その「物」を自由に扱うことができない。

夫のもどかしさが、タイトルの「半所有者」にうまく表現されている。

2017年8月15日火曜日

魚籃観音記 筒井康隆 近現代作家集 III/日本文学全集28

永井荷風の『四畳半襖の下張』が最高裁でわいせつ文書と判決されたのが、1980年11月28日。

その時の判決の要旨がこれ。
一、文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうったえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」といえるか否かを決すべきである。
二、男女の性的交渉の情景を扇情的筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めており、その構成や展開、さらには文芸的、思想的価値などを考慮に容れても、主として読者の好色的興味にうつたえるものと認められる本件「四畳半襖の下張」は、刑法一七五条にいう「猥褻ノ文書」にあたる。
荷風の「四畳半」を雑誌に載せた野坂昭如の特別弁護人に立った丸谷才一は、この判決は、後世、物笑いの種になるという言葉を残した。

今、筒井康隆のこの作品を読み終わった時、思わず笑ってしまうものがある。
第一、作者は、冒頭、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ」ることを目的にしていることを宣言し、自らこの作品を『ポルノ西遊記』と称しているのだから。
さらに「男女の性的交渉の情景を扇情的筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めて」いる点も申し分ない。

西遊記を題材に、色っぽい観音菩薩が孫悟空を誘惑し、衆人の目を憚ることなく、セックスをする。その二人を見て自慰するしかない猪八戒。そして、猪八戒の再現話しに、何回も射精してしまう沙悟浄と三蔵の姿がさらに猥雑感を増している。

気が動転した三蔵が語る小唄の中に、作者のさらに挑発的な言葉も見られる。
これだけ殴り書いたなら、発禁回収たちどころ、アンドマジンバラ桜田門の恐ろしや。
こんな作品が日本文学全集に収まるなんて。
本当に、日本はいい国になったと実感する。

2017年8月14日月曜日

鳥の涙 津島 佑子 近現代作家集 III/日本文学全集28

母親が子供を寝つかせる時に話す物語。
しかし、それは『おまえのお父さんはまだ帰らない』からはじまり、他国に徴収され、不在となった父が、頭のない鳥となって家族のもとに戻ってくるという、どこか呪術的な話である。

作者が母から聞いた『お話』は、祖母から母に伝わったものであることがわかる。

そして、作者は、その『お話』をアイヌの民話集に見つけ、祖母の出身地が青森であったことから、祖母がアイヌの少女と海岸で知り合い、この『お話』を聞かされた場面をイメージする。

実際には祖父は工場の機械に頭を押しつぶされ死に、父は若い女と出奔していなくなった訳であるが、祖母も母も無意識のうちに、この物語を子供たちに伝承していった。

作者も死んだ弟が頭のない鳥となって彼女を訪れる話を子供たちに聞かせはじめる。
祖父、父、弟の死を通し、自分の夫、そして長男でさえ、作者にはいつか失ってしまうのではないかという恐れを抱きながら。

はたして、彼女たちが子供に語った『お話』は、男たちへの鎮魂の意味が込められたものだったのだろうか。
ひょっとすると、そこには自分を置いてけぼりにした男たちへの深い深い恨みが込められたものだったのかもしれない。

この解釈は、作者が太宰治の娘だったことも影響していると思う。








2017年8月12日土曜日

連夜 池澤夏樹 近現代作家集 III/日本文学全集28

池澤夏樹の作品の特徴の一つは、現代と過去という異なる次元をむすびつけて、重ね絵のように物語に厚みを持たせる手法を用いるところだ。

それは、谷崎潤一郎や丸谷才一も好んで用いた手法でもあるが、池澤夏樹の場合は、彼らと違って雰囲気が軽い。

そう感じるのは、谷崎が母性、丸谷が前近代的な日本という重たい要素を重ねていたのに対し、池澤は、例えば最新作のキトラ・ボックスでは古墳の埋葬物という即物的なものを、そして、この「連夜」という作品では、南国の沖縄の琉歌を重ねているからだろう。

この作品、沖縄の病院で働く女医と運搬仕事をしていた青年が、女医の誘いで、十日間毎晩セックスをし続けたという一風変わった物語だ。

なぜ、突然、女医が青年と寝たくなったのかは分からない。ただ、十日間が過ぎて、熱が冷めたように彼らは別れる。

その後、女医はユタ(沖縄の霊媒師のようなもの)に、その時の話をしたところ、彼女は首里の王族に憑依されていたのではないかという話を聞く。そのきっかけは、彼女の名前の徳という字と、青年が花を作る仕事をしていたこと。

そして、 女医は探していた琉歌のなかに、身分の低い花当(花園係の役人)に恋をしたが、周りに気づかれ別れ離れになってしまった尚徳王女の歌にめぐり合う。
そういうことだったのかと思いました。真夜中に、君と一緒にいろいろ楽しいことをしたベッドに腹這いになって大きな琉歌の本を読んでいってこの歌に行き当たった時、不思議な気持ちになりました。いきなり何百年か前に飛んでいったみたい。君の身体が飛行機だったみたい。そのおかげで、本当にその尚徳王女さんが出てきて、私の横に同じように腹這いになって、昔々の自分の歌を読んで感慨に耽っている。辛かったでしょうねと私が言うと、そう、とても辛かった、でも、こっそりでも、ほんの短い間でも、会えた時の喜びだってよく覚えている、あなただって知っているでしょう、この間ちゃんと味わったでしょう、そう言っているみたい。

自分と同じような経験をした人、それが時空を超えた遠い昔の人であっても、その想いに共感する。
女医の新鮮な驚きは、文学の楽しみ方そのものに通じる。

池澤夏樹が選択した自身の短編は、実にこの日本文学全集に適った作品と言えるものなのかもしれない。


2017年8月6日日曜日

イシが伝えてくれたこと 鶴見俊輔 近現代作家集 III/日本文学全集28

短いエッセイだが、文明批評という大きなテーマを扱っており、なにより、イシと呼ばれる原住アメリカ人のエピソードが心に残る。

自分の一族を絶滅させた白人たちの世界で暮らしながらも、自分の価値観と知恵を持ち続け、同化しない。

そのイシを理解し、対等に付き合うことができた博物館長のアルフレッド・L・クローバーは、イシの死後、白人が原住アメリカ人に対して行った蛮行を思い悩み、その影響を受けた妻シオドーラは、アルフレッドの死後、「イシ」の伝記を書き、娘のアーシュラ・K・ル=グヴィンは、作家になり、「ゲド戦記」やSFを書いたというのも興味深い。

もう一つ興味深いのは、欧米文明との接触という点で、日本とイシの立場を比較しているところだ。
イシの場合には、弓も矢もほんとうに手にくっついたように動かせるのだが、そういう関係を我々は物に対して持っているだろうか。...
亡くなった高取正男が、「形見」という言葉を分析している。物を見て形を見ることができる。そうすると呼び戻せるという。ある物を形見にするというのは、その形を見る力を持っていなければ、母の遺品も形見にはならない。そういう力がおとろえていけば、形見は意味がなくなって、何の形見もない暮らしになっていく。その点では、イシの持っている世界に比べて、我々は明らかに貧しい。そのことは現代文明に対するイシの批評であり、イシを受け継いでいるル=グヴィンの批評なのだ。
イシは、欧米の文明に対して、自己選択の態度を保って対した。日本文化はそう対しえたか。それは疑わしい。
私は、まともに「ゲド戦記」を読んだことはなかったが、作品には欧米文明に対する批評が込められているらしい。

最近、カルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」を読んでいて、これも一種の欧米文明に対する批評という気配を感じるが、同じテーマで、また、読みたい本が増えてしまった。

2017年7月31日月曜日

幻魔大戦deepトルテック /平井和正

物語冒頭、以下の言葉が引用されている。
広大無辺な可能性の世界がある
そこへ飛び立つ
別の時間 別の世界

ドン・ファン・マトス
このドン・ファン・マトスという人物、北メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ということらしいが、その存在が確認できるのは、彼の弟子と称する人類学者カルロス・カスタネダが書いた著書のなかだけである。

しかし、この「幻魔大戦deepトルテック」という平井和正の最後の作品は、ほとんど、このドン・ファン・マトスが弟子のカスタネダに語ったという呪術師(トルテック)の世界観がベースとなっており、従来の幻魔大戦の過去の記憶を若干残しつつも、その根本的な世界観は、すべて捨て去ったと言い切っていいだろう。

悪魔(幻魔) → 捕食者、外来装置
フロイ  → 無限
超能力者  → 呪術師(トルテック)
超能力  → 精霊(ナワール)、内的沈黙
GENKEN、光のネットワーク→ 女トルテック

と、キーワードを置き換えること自体、無意味なのかもしれないが、重要なのは、なぜ、平井和正が、こんな世界観の転換を図ったかということだ。

おそらく、彼は既存の宗教に幻滅していた。
それは、自身が関わっていた新興宗教が契機だったかもしれないが、オウム真理教、イスラム教をめぐる様々な争いや事件が決定打となったのかもしれない。

そして、もっと深いところで、既存宗教、特にキリスト教、イスラム教という一神教に対して嫌悪した。

実際、 この物語の主人公 雛崎みちるは、こんなことを言っている。
わたしはトルテックのものの考え方がとても好きなの。専制的な宗教の示す教えがほとんど見て取れない。地獄とか極楽とか神の怒りとか神の与える罰とか、強迫観念を人間に与えるものの考え方などだけど。本当に自由な人間とはどんなものか、想像ができるから
既存の宗教は、人間の持つ自由を拘束し、強迫観念を植え付け、狭い世界に閉じ込める役割しか果たさない、と彼は感じたのかもしれない。

彼の同様な嫌悪は、おそらく同様の理由で、中国(中国共産党に支配される中国)に対しても向かう。この世界のハルマゲドン(十五億人の消失)が中国で起きるという想定にも表れている。

平井和正が ドン・ファン・マトスの世界観のどこに「人間の自由」を感じ取ったのかは、カスタネダの著書をちゃんと読んだことのない私にはわからない。しかし、冒頭の文言にも関連するように、この物語では、雛崎みちるに対して、トルテックのマエストロの一人であるセタがこう言い含める。
呪術師たちは人間だ。そして失敗は人間にはつきものなのだ。ひとつのことで失敗しても、別のことで成功する。可能性の世界(現実)は実に広大だ。...人間の自由とは、無限の可能性に挑戦することなのだ。人間の生きる目的はそこにある。喜びもそこにある。
新幻魔・幻魔・真幻魔、ウルフガイ、アダルトウルフガイといった平井和正の主要な作品にも見られたパラレル・ワールドという概念が肯定される世界観。おそらく、 平井和正はドン・ファン・マトスのトルテックの世界にそれを感じたのだろう。

十代の若い雛崎みちるにトルテックの力を与え、並行世界を、異なる時間を、自由に移動させ、アブダクション、ウルフガイという別の作品をも取り込み、総体として、無限の可能性に満ちた世界に“仕上げ”をさせる。

かつて、人類の暴力と悪辣さに苛まれた犬神明と青鹿晶子のこの物語における幸福な結末は、その好例なのかもしれない。

平井和正は、七十歳を迎えた最後の作品で、自らの世界観をこれだけ大きく変えることができたのだ。

そして、およそ終わりを迎えることができないと言われていた幻魔大戦の物語は、二月の雪の日、中学生の雛崎みちるの意識の中でひっそりと終わる。

誰も予想だにしていなかった結末、こんな終わり方があり得るとは。

2017年7月30日日曜日

午後の最後の芝生 村上春樹 近現代作家集 III/日本文学全集28

三十四、五の“僕”が十四、五年前を振り返る。
その頃、僕は大学生で、遠距離恋愛の彼女がいて、一緒に旅行に行くために芝生刈りのアルバイトをしていた。

しかし、夏の初めに突然彼女から別れを告げられ、お金を稼ぐ必要もなくなった僕は最後の芝刈りの仕事にでかける。

一癖ある中年の女の家で芝刈りは無事終わるが、彼女から彼女の娘と思われる女の子の部屋を見てほしいと頼まれる。

この物語は何度も読み返しているが、芝刈りの手順の説明や、真夏にロックを聴きながら、アイスコーヒーを飲みつつ、芝を刈る雰囲気も好きだ。

しかし、一番の魅力は、この“僕”に共感できるからだろう。

“僕”には、なぜ、彼女が突然別れを告げてきたのかも、女の子の部屋についての中年の女の問いかけも、それに対する自分の回答も、理解できない。
僕はとても疲れていて、眠りたかった。眠ってしまえば、いろんなことがはっきりするような気がした。しかしいろんなことがはっきりすることで何かが楽になるとは思えなかった。
はっきりしているのは、唯一、彼の思いを表すことができた「芝生」刈りを何かのけじめのように終わらせなければならないということと、彼が一人ぼっちになるということだけだ。

この喪失感が芝生刈りという労働の疲れと、夏の午後の脱力感と重なっていて、心地よい。

文体も、今の村上春樹からすると、ずいぶんと大味なところもあるが、ほどよく力みが抜けていて、この作品には、ぴったりのような気がする。

最近の「みみずくは黄昏に飛びたつ」の中で、村上春樹自身がこの「芝生」を読み返したくない作品の一つとコメントしているのも面白い。

2017年7月25日火曜日

動物の葬禮 富岡多惠子 近現代作家集 III/日本文学全集28

欲深の指圧師 ヨネと、その娘のサヨ子、そして、サヨ子が付き合っていたキリンと呼ばれる男の死体が、この喜劇の中心にいる。

ヨネは指圧師を名乗っているが、資格のないモグリ営業をしていて、裕福そうな支店長の奥さんや工場主の奥さんのところに出入りし、指圧をするかたわら、両家で余った古物などをもらってくる生活をしている。

一方、娘のサヨ子は水商売らしき仕事をしていて、キリンとあだ名した長身の男と一緒に暮らしていたが、生活が苦しいらしく、ヨネの家に来ては、回収してきた古物をさらっていく。

そんなある日、サヨ子がキリンの死体をヨネの家に運び込み、この家でお通夜と葬式を行うと突然宣言する。

ヨネの小心だけれども欲深な性根や、付き合っていた男の死さえ金に換えようと奮闘するサヨ子のあっけらかんさ。

無意識なうちに彼女たちの行動に表れる損得の感覚。
作者が大阪の女性だからだろうか、男が書きそうな人情とか女らしさという幻想は一切なく、その描写には容赦がない。

唯一の善人と思われる人間が死んだキリンというのもスパイスが効いている。

この作品、今、ドラマ化されてもおかしくないと思うが、キリン役は、絶対、嶋田久作だと思う。

2017年7月24日月曜日

崩れ(抄) 幸田文 近現代作家集 III/日本文学全集28

この作品も、文学全集には、まず登場しない部類の作品だと思う。

老齢の作者が好奇心に駆られて、山の崩壊を見に行き、自然の力に畏怖を覚えるという、言ってしまえば、それだけの作品であるが、人をぐいぐいと引っ張り込む力強さに満ちている。

それは、山の崩壊現場という自然の猛威、人智・人力の及ばない世界に、人の背中に負ぶさってまで、わざわざ足を運び(しかも高所恐怖症)、その現場を目の当たりにしたい、体感したいという幸田文の物好きなまでの好奇心、行動力がベースにあるからだろう。

作者自身も、その性質をこんな風に述べている。
人のからだが何を内蔵し、それがどのような仕組みで運営されているか、今ではそのことは明らかにされている。では心の中にはなにが包蔵され、それがどのように作動していくか、それは究められていないようだ。...心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。
その「土を押し破る」好奇心に突き上げられ、訪れた鳶山の崩壊現場。

砂防用軌道車で出会った女性たち、防寒着、鳶山崩壊の歴史、背負い紐、歩くスピード、肩越しに見る山道、崩壊の現場、緊張でこわばる体...。

最後、ふもとで待っていた車を見て、安堵した作者が後ろを振り返ると、山崩れの凄惨な雰囲気が圧倒し、残っていたわずかな歩く力も容赦なく奪い去る。

この作品は、優しい豊かな自然ではなく、人間にとっては災いとなる自然の力に対峙したときに感応した作者のストレートな感情が綴られており、その意味で稀有な作品だと思う。

しかし、その作業は、車の中ですぐに寝入ってしまった作者の姿が示すとおり、とてつもない重労働なのかもしれない。

2017年7月23日日曜日

鳥たちの河口 野呂邦暢 近現代作家集 III/日本文学全集28

社内の内紛に巻き込まれ、同僚に裏切られ、会社を辞めざるをえなかった男が、百日間、河口に通い、鳥を見続ける。

ツクシマガモ
カラフトアオシシギ
ハシブトアジサシ
ツメナガセキレイ
イワミセキレイ
カスピアン・ターン...

珍しい鳥をみつけては、鳥類図鑑で調べ、いつどこで見つけたかをノートに記録する。

男には病気の妻がいるが、男の心情は彼女には向かわない。
河口に通って鳥を見続けること以外、関心が持てない。

そんな男にあった変化といえば、河口に筏を浮かべようと苦労する少年と、男が撮った写真を本にしないかと誘いをかけてきた印刷会社の社長、そして、たびたび目にする鳥たちの変死と、傷ついたカスピアン・ターンを家に連れて帰り、保護したことだ。

不安定な環境にいる男の心情によって、鳥の見方も変化する。

男の属していた社会と対立する自然の癒しであったり、隊列を組んで飛ぶガンに対しては社会そのものを感じたり。

しかし、最後に、鳥たちの変死の原因だったと思われるハゲタカに男は襲われ、命の危機を感じたとき、はじめて鳥に対して恐怖を感じる。

この時、 男にとって、世話をして傷を癒したカスピアン・ターンは「不気味な異形の物」に変わってしまった。
まるで、これから社会に復帰しようとする男を待ち受ける未知の不安のようなものに。

静かな文章で綴られているが、その奥には硬質で非情な雰囲気が感じられて、個人的には好きな作品だ。

2017年7月22日土曜日

日没閉門 内田百閒 近現代作家集 III/日本文学全集28

池澤夏樹編集の「近現代作家集」も3冊目だが、この巻も、バラエティに富んでいて、かつ、普通その作品は選ばないだろうという読者の予想を裏切る思いっきりの良い編集になっている(ただし、村上春樹を除く)。

内田百閒の「日没閉門」もその一つで、普通だったら、彼の幻想的な作風が感じられる「冥途」か、「サラサーテの盤」ではないだろうか。

この作品は、完全な随筆(エッセイ)で、人と会うのが面倒な作者が玄関脇の柱に貼った「日没閉門」に関するあれやこれやの話である。

しかし、文章は洒脱な俳味が感じられて、とても上手い。
(今、こんなエッセイを書ける作家はいないだろう)

「徹夜の夜半の硝子戸に擦りついて来る飛んでもない大きな顔の猫や小人の凄い目をした泥坊」のくだり。

すごくイメージが膨らむ。



2017年7月21日金曜日

Ecstasy/一十三十一

一十三十一 「Surfbank Social Club」以来の夏全開のフルアルバム。

この夏、はまりそうな予感。



Billboard Live TOKYO 予約しちゃいました。


2017年7月20日木曜日

少女のセクソロジー 幻魔大戦deepトルテック/平井和正

平井和正の最後の作品と思われる「幻魔大戦deepトルテック」には、その前奏として、「少女のセクソロジー」が収められている。

「幻魔大戦deep」で、東丈が結婚した雛崎みゆきの娘 雛崎みちるが主人公になっている。
ただし、ここで描かれている世界では、母の雛崎みゆきはすでに死んでいて、兄とも離れ離れになり、父方の意地悪な叔母と娘がいる家に引き取られている。もちろん、東丈も彼女の前に現れていない。

作家になることを夢見るみちるは、古い下着も買い替えできない過酷な貧困の生活から、持ち前の才気で抜け出していく。

話としては、それ以上のものはないが、セクソロジー(性科学)という題の通り、雛崎みちる(十三歳)は、級友の女の子とレズ的な性交渉を持つ。

ただし、みちるが積極的に性行為をするというより、級友を自分の絶対的な味方にしたいという思惑が働いているような雰囲気がある。

 「少女のセクソロジーII」では、意地悪な叔母を追い出し、地歩を固めたみちるが、アフリカの呪術を研究し、その能力に目覚め、学校で少女たちに陵辱を繰り返す体育教師と対決する話だ。

この体育教師を操っていたのが、実は校長室に飾ってあったアフリカ土産の呪いのお面だったというところは、眉村卓の「深夜放送のハプニング」をふと思い出してしまった。


この「少女のセクソロジー」で書かれている雛崎みちるのポジティブで明るいキャラクターと呪術師としての能力、そして派手な戦闘シーンではなく、精神世界の戦いで決着がつくというところも、本編の「幻魔大戦deepトルテック」に濃く表れている。

2017年7月3日月曜日

翻訳問答2 創作のヒミツ/鴻巣友季子

片岡義男と翻訳論を語った「翻訳問答」の2冊目。

2冊目を提案したのは、片岡らしいが、鴻巣に対して、今度は自分ではなく他の人とやりなさいと言ったという。(人間が大きい)

本書では、奥泉光、円城塔、角田光代、水村美苗、星野智幸 といった翻訳もできる作家を集めて、翻訳論を語っているが、対象作品が、『吾輩は猫である』、『竹取物語』、『雪女』、『嵐が丘』、『アラビアンナイト』というところが前回と全然違う。

『猫』と『竹取』は日本の古典作品の英語訳からの和訳であり、『アラビアンナイト』もアラビア語から英語さらにはスペイン語訳からの和訳という「重訳」状態を意図的に創出している。

この「重訳」によって明らかになるのは、やはり「翻訳」の限界なのかもしれない。
『猫』は、冒頭の「吾輩は猫である」が、奥泉訳では「あ、猫です」、鴻巣訳(ノーマル版)では「わたし、猫なんですよ。」と、原作の雰囲気が無くなっている。

また、翻訳によって、読み飛ばされていた原文の文章の整合性のほころびが見えてくるという点も興味深い。そして、それを違う言語に置き換えるときには、原文にはない文章を補充することも翻訳では求められるという点も面白い。

 『竹取』でも、英訳された文章の展開が早すぎるため、あえて文章を間延びさせるような表現を円城、鴻巣ともに使用しており、翻訳者のテクニックが付け加えられている。

翻訳作品は、翻訳者が第二の作者なのかもしれない。

しかし、『雪女』、『嵐が丘』では、翻訳文学、海外文学が下火になっているという危機感が語られているが、本当なのだろうか。私の行く本屋では、海外文学の棚は結構充実している気がするのだが。

個人的には、最後の『アラビアンナイト』が面白かった。

正式な原典もない『アラビアンナイト』は、正当な原理を求める一神教とは対立する考え方だという話だ。一神教を取り入れたら、文学は死んでしまうと。

『アラビアンナイト』は、さまざまな国でさまざまな翻訳者が訳されているうちに、新しい物語が次々と生まれ、物語全体は豊かさと厚みを増していき、原典が何なのかを突きとめること自体、無意味になってしまった世界的な文学だ。

この文学の特性を、一神教の原理主義にも取り入れることができたら、どんなに世界は平和になるだろうと思うのは、私だけだろうか。

2017年7月2日日曜日

私は写真機/片岡義男 I am a camera / Yoshio Kataoka


I have come up with the following keywords by looking photos within this book.
America, 50 's, Clear, Simple, Consumer Society, Fetishism, Industrial Products, Paper Book, Candy, Chemical Perfume, Cheapness, Commercialism,
The photos are inorganic and dry as same as Kataoka’s writing style.

This book would not let me achieve nothing and go anywhere.

But, sometimes I want to feel that way extremely.

https://www.flickr.com/photos/142241327@N06/sets/72157665293576783


2017年7月1日土曜日

大鮃/藤原新也

オンラインゲーム中毒の青年 ジェームス・太古・マクレガーは、精神科医のカウンセラーを受け、亡き父の生まれ故郷スコットランドオークニー諸島を旅することになる。

そこで、太古青年は、旅行会社が選定した現地ガイドを務めるマーク・ホールデンという老人と出会う。

三日目までのマーク老人の、のんびりとしたガイドに退屈を覚えた青年であったが、四日目の風の強い嵐の日に奇跡が起きる。

マーク老人の友人で船大工のアラン老人、マーク老人とその父、父の弟ラドガの人生。

太古青年が求める父のイメージを強く感じさせる男たち。

そうして、少しずつ変わってゆく太古青年に、大鮃(おひょう)釣りで最後の奇跡は起きる。

この物語の素晴らしいところは、父の死をきっかけに崩れそうになったマークに父親代わりの優しさをラドガが与え、それを受け取ったマークが父の死により父性を失った太古に同じものを与えようとしたことだ。まるで、恩送りのように。
しかし死の扉の前に立つ老いの季節は絶望の季節ではありません。
落葉もまた花と同じように美しいものです。
別れの時にそんな箴言を残したマーク老人を懐かしく振り返る、今は成長した太古を冒頭に据えたことで物語に循環が生まれたように思える。
だから、読者もこの物語をまた読み直してみたくなるのかもしれない。




2017年6月29日木曜日

「幻魔大戦deepトルテック」を「e文庫」 で買ってみた。

幻魔大戦deepを読み終わり、案の定、続きが読みたくなってしまい、「幻魔大戦deepトルテック」を買ってしまった。

なぜか、この本は電子書籍が販売されておらず、紙の本らしい。
しかも、通常の本屋では取り扱いがなく、 Amazonでも売っているが21,600円という高額本。

ところが、この本の販売元らしい「e文庫」 では、9800円で売っていた。(送料込みで50%超値引き)

有限会社ルナテックというサイケな名前と、振り込み前払で、若干不安ではあったが、早速申し込み、お金を振り込んでみた。

1週間経っても納品されないので、ひょっとしてという不安が募り、メールでいつ頃商品を発送できるのか聞いてみると、それ程時間を置かずに、発送が遅れたことのお詫びと、明日ゆうパックで送るとの回答。

翌日商品が届いたが、段ボールが思ったより小さい。

包装を開けてみると、ケースは、縦横12cm、高さが19cmと意外とコンパクト。 
泉谷 あゆみさんのイラストが印象的だ。



うーん、テンションが上がる!

何か高いプラモデルを買ったような気分だ。

2017年6月28日水曜日

幻魔大戦Deep 8 appendix/平井和正

幻魔大戦Deep 8は、本編の終了後に、appendixが14章もついているが、基本的には、本編の物語の流れを引き継ぐ内容になっている。

冒頭の“握り潰し”が、面白い。
下痢になった美恵が、少女を犯すレイプ犯たちの睾丸を握力70kgの力で握りつぶしてゆくという活劇が展開されている。久々に、作者の下品なアクションシーンを読んだような気がしたが、やはり、こういう場面になると、俄然、文章が活き活きしているのが感じられる。

もう一つ面白いのは、東丈を愛人として求める欧州の王女の存在だ。
彼女は、欧州王族結社のような団体のメンバーで、イスラムの無力化を目指し、イスラム原理主義のテロリスト、過激派を養成し、彼らに事件を起こさせ、イスラムを世界全体の敵に仕立て上げ、イスラム全体の衰退を狙っている。

この作品が2001年のニューヨーク同時多発テロの後に書かれた小説ということもあるが、その後のテロ事件の継続を考えると、この作品の目の付け所は鋭い。

強力な催眠能力を有する彼女に死んだ姉妹がいるというあたり、彼女がルナ姫の妹で、リア姫の姉のような気がするのは、私だけではないだろう。

このappendixの最後のほうでは、東美叡を夜な夜な苦しめていた“斉天大聖”が、サンシャインボーイと共に現れ、東丈のパソコンから、1995年12月8日に作成された“GENKENに関する考察”というファイルを見つけ出す。

そのファイルには、1960年代、渋谷に“GENKEN”という宗教団体があり、そのカリスマとして東丈が存在していた事実が書かれていたが、東丈には、そのような文書を作成した記憶はない。

そして、“斉天大聖”に鍛えられるべく、ついに東丈は幻魔と相対することになる。

読み終わった感想としては、東丈という存在意義が少しだけ分かったような気がした。
何故、彼が二度も失踪しなければならなかったのか、それはつまり彼が自分の存在意義をうすうす覚知したからということなのだろう。

この作品の最大の収穫は、続編が書けるような余裕がある世界観、物語構成にtransformできたことだと私は思う。

2017年6月26日月曜日

幻魔大戦Deep 8 本編/平井和正

幻魔大戦Deepも、この8巻が最終巻である。

東美恵は、東丈のサイキック能力も使わない不思議な交渉力のおかげで、敵方の仲間割れに乗じ、地下牢を抜け出すことに成功するが、謎の王女に拉致されてしまい、サイキック能力のある彼女から、再び東丈を彼女の下に連れてくるようにという命令を与えられてしまう。

一方、東丈が進めていたテロリスト判別ソフトがついに完成する。
これに関する東丈のコメントが、共謀罪を彷彿とさせて面白い。 下記の“監獄社会”が“監視社会”だったら、完璧だったろう。
このソフトの恐ろしさは、犯罪者を全部弾き出すことと、犯罪予備軍まで全部洗い出すことだ。

「やめておけばよかった、とみんな後悔するだろうな。だが、テロリストが存在する限り、みんな認めるしかない。テロリストが全員拘置されたとしても、この先の監獄社会の到来を引き寄せることになるかもしれない。おれはとんでもないことをしたような気がするんだ」 
世界ががらっと変貌しますね、と青鹿秘書が感想を述べた。個人の秘密がなくなる時代の到来だとしたら、これほど息苦しい社会はないでしょうし。
善いことをしようと欲して悪事をなす、だと丈先生は淡々といった。
この8巻の本編は、東丈が雛崎ファミリーにクリスマスプレゼントを買いに街に行き、そこで50代の木村市枝に再会する場面で終わる。

東丈はここで初めて、(無印)幻魔大戦の“GENKEN”時代の記憶を取り戻すのだが、「何故、あの時失踪したのか」という彼女の切実な質問には答えられない。

ただ、今は子持ちの未亡人と結婚し、自分は仕合せだと語り、さらには、彼女に子供の有無をたずね、まだ結婚していないことを知ると、彼女に「もったいないことをしたな」と告げる。

この無神経とも思える東丈の一言を木村市枝がどう思ったかは分からない。
ただ、タクシーで去りゆく東丈が見た木村市枝は、明るくほほえんでいたというが、実際はどうなのだろう。

この章の最後は、ende? (ドイツ語)で締められている。
作者としては、幻魔大戦Deepの執筆を始めるにあたり、物語全体とあまり関連性のない、この章を、とりあえずのエンディングとして、あらかじめ用意していたのかもしれない。

しかし、作者も、このお茶を濁した終わり方ではさすがに終われないと思ったらしく、?マークのとおり、この後に、appendixとして、14篇の章が追加されている。


2017年6月25日日曜日

幻魔大戦Deep 6-7 /平井和正

第6巻は、2年前に亡くなった姪の東美恵の墓参りを済ませた東丈が、彼の事務所の前で秘書を襲おうとしていた江田四郎を見つけ、公園に連れ出し、自らを斉天大聖と名乗り、江田四郎がかける呪詛はすべて自分にはね来る念返しをかけたと、こっぴどく脅しつける。

一方、東丈を親分とあがめる雛崎みちるは、別世界に移る能力に目覚め、2年前に死んだはずの東美恵を自分の世界に引き連れてしまう。

東美叡と異なり、サイキック能力もない美恵は、三十年前に失踪した伯父が十七歳に若返ったこの別世界をなかなか受け入れられないが、東丈の説得により、雛崎家に居候することになる。

そして、台風の影響により頓挫するはずだったサンシャイン・ボーイとの面会は何故か実現し、東丈の口添えにより、サンシャイン・ボーイは、小学生の雛崎みちるが十七歳になるという不可能な夢をかなえることを約束する。

また、この面会に同席していた東美恵もサイキック能力に目覚め、別世界を行き来することができるようになり、もう一人の自分である東美叡との邂逅を果たし、振り子の能力も身につけることになる。


第7巻は、東美叡が追う“顔焼き男”の捜査を東美恵が振り子の力で支援するという話から始まる。そして、雛崎みちるは夢の中で、彼女が願った十七歳になる。

その彼女が十七歳として存在した世界は、1967年の(無印)幻魔大戦の世界だ。
1967年、秋。恐ろしいほどの粘着力をもって居すわった夏がようやく腰を上げて立ち去った秋だった。
この文章は、ニューヨークでの戦闘後、一人東京に戻った東丈が“GENKEN”という宗教団体を作ってゆく幻魔大戦の新たな展開のはじまりを示すような印象を与える。

ここでの驚きは、元気いっぱいだった雛崎みちるが珪肺症を患う病弱な女子高生として、違和感もなく、(無印)幻魔大戦の世界に同居しているという事実だ。この役柄を思いついた作者はすごい。

まだ悪魔化していない文芸部の久保陽子や、丈に嫉妬し攻撃をはじめる江田四郎。東三千子も登場する。

雛崎みちるは、その世界で井沢郁江と友人になり、 彼女の紹介で十七歳の東丈と会う。彼女は夢の話として、自分が元いた世界にいる十七歳だけれど五十四歳の精神を宿した東丈の姿と振り子の力を語る。

そして、雛崎みちるの出現により、(無印)幻魔大戦とよく似たその世界は、大きな変化を起こす。
まるで、(無印)幻魔大戦にも、こういう未来があり得たのだ、と作者は言いたかったのかもしれない。

しかし、この世界、最初は(無印)幻魔と相似した世界なのではと思っていたが、江田四郎が雛崎みちるに対して丈に超能力で弄ばれた事実を認めているということは、やはり、同じ世界なのだろう。つまり、東丈がルナ姫とサイボーグのベガに無理やり超能力者として覚醒させられ、1967年の夏、彼らとともに、ニューヨークで怪獣タイプの幻魔と戦った世界なのだ。

この第7巻では、“顔焼き男”の捜査を支援していた東美恵が敵方の罠にかかり、それを助けに行った東丈も一緒に地下牢に拉致されてしまう。そして、その地下で謎の外国人の王女らしき人物が登場することになる。


2017年6月22日木曜日

幻魔大戦Deep 5 /平井和正

5巻では、東丈の秘書 青鹿晶子の歓迎会を行うこととなり、訪れたシティ・ホテルのカクテル・ラウンジで、前の世界で東三千子にプロポーズしたサンシャイン・ボーイと出会うこととなる。

そこで、 東丈と連れの女性たちは、サンシャイン・ボーイのマジックにより、満月の幻想を見ることになるのだが、東丈だけ、何故か、髑髏のような満月の姿を見ることになる。
そして、その幻影と重なるように、井沢郁江の姿も。

しかし、この髑髏のような月のイメージが出てくる作品と言えば、漫画版の幻魔大戦ではないだろうか。そして、そこに出てくる女性のイメージと言えば、まず、ルナ王女のはずなのだが。

東丈は、この幻影の意味をサンシャイン・ボーイに尋ね、その会話のやりとりの中で、サンシャイン・ボーイから、幻魔大王というキーワードが出てくる。しかし、丈にはその言葉が思い出せない。

ただ、丈の記憶がわずかに呼び起こされ、十七歳と三十歳の頃、それぞれ別の世界で何かがあった事、しかし、その時の記憶が失われていることを自覚する。

一方、東丈事務所には、東丈の子分となった婦人警官が訪れており、容疑者リストを見せ、丈の振り子の力で白黒を判断するという仕事を行っていることが分かる。

それを、雛崎みちる(みゆきの娘)が見て、振り子の機能をソフトウェアに組み込めば、迅速に、テロリストやテロリスト予備群まであぶりだすことができるかもしれないというアイデアを出す。

このソフトウェアの話は、まるで、最近成立した“共謀罪”のような話ではないか。
2005年の12年後の未来を予知していたかのように、奇妙にその目的は似ている。
しかも、(無印)幻魔では救世主のはずだった東丈が、このアイデアを実現することになるとは、今読むと実に意味ありげな気がしてしまう。

また、この物語では、(無印)幻魔で東丈と敵対した江田四郎が現れ、井沢郁江に対して行ったのと同様、暗黒ボールを青鹿晶子の体に送りつける。

そして、 (無印)幻魔で東丈が見せた超能力の一つ 生体エネルギーの注入を青鹿晶子に行い、暗黒ボールを消し去る。

一方で、別の世界にいた羊子と出会い、姪の美叡が三年前に殉職していたことを知り、丈はショックを受け、雛崎みゆきとともに彼女の墓参りを行うことになる。

ここで興味深いのは、 彼女の墓石を見ながら、東丈が自分がいかに冷たい男だったかを自己分析するところで、姉の東三千子に対してすら、

「自分の意のままになる便利な家政婦として、おれは接していたのではなかったろうか 」

と述懐しているところだ。

作者としては、 (無印)幻魔で全く揺らぐところがなかったように見えた姉弟の絆まで容赦なく見つめ直している真摯さをアピールしたかったのかもしれない。

しかし、彼がそう述懐している、すぐ傍にいる雛崎みゆきも「便利な家政婦」の一人ではないのか。
その可能性まで考えが及んでいれば、こんな言葉は軽々しくは出てこないのではないだろうか。
 (無印)幻魔の東丈であれば、そのような考えが頭を過っても、深沈として口を閉ざしていたに違いない。

この幻魔大戦Deepの東丈は、精神年齢が54歳にもかかわらず、べらんめえ口調もそうだが、軽い上っ面な人格が見え隠れしていて、変に興味深い。

2017年6月19日月曜日

幻魔大戦Deep 3-4 /平井和正

3巻では、東三千子の希望により、東家に、“理想のお母さん”である雛崎みゆきが派遣され、東丈は彼女に魅了されると同時に、ダウジング(振り子)を教わる。

一方、東美叡は、伯父・姪の関係を捨て、東丈と事実婚の関係になるが、 古巣の警視庁から呼び出しを受け、上司から戻ってきてほしいと懇願されたことや、三千子を襲ったと思われる“顔焼き男”の手掛かりが得られそうになったため、警察官の仕事に復帰することになる。

東丈は、振り子の導きに従い、夢の中で、別の世界(パラレルワールド)にいる自分を体験する。
そこでは、 東丈は、夫を亡くした雛崎みゆきとその二人の子供の父親として充実した人生を送っていた。

4巻で、東丈は、心の離れてしまった東美叡、家に戻らない東三千子のいない世界から、雛崎みゆきとの家庭がある別の世界に旅立つ。

そこで、東丈は、(無印)幻魔大戦同様、十七歳の体に戻るが、精神年齢は54歳のままで、時代は1990年代の日本。

そして、婦人警官二人を子分につけ、べらんめえ調の親分的な存在となる(笑)。

雛崎みゆきとも再会し、前の世界でも友人だった猿坊の紹介で、政界にも顔が利く矢田氏の信頼も得、東丈事務所も持ち、 秘書はなんと青鹿晶子(ウルフガイのあの人)。

物語は、正直深みはない。だが、筆がのっているというか、物語がドライブしている感じは受ける。
その勢いのせいで、ついつい読みきってしまった。

(無印)幻魔でも、真幻魔でも、東丈は物語途中で失踪してしまうことになるが、このDeepでも、やはり、彼は一つの世界でじっとしていられず、周りにいる人々を置き去りにして、自分は失踪する。
(ただし、このDeepでは、失踪した東丈と一緒に読者も別世界に移動するというところが違う)

それは、はっきり言えば、その世界が続けば、物語が袋小路に入り込んでしまう気配が濃厚に感じられるからだろう。

ひょっとすると、この物語の煮詰まりかたそのものが、ある意味、この「幻魔大戦」シリーズを一貫して頓挫させてきた「幻魔大王」の正体なのかもしれない。

作者は、そんな取扱注意の主人公 東丈をなんとかして物語の中で生かそうと必死になっている。

辛くなったら甘えられる雛崎みゆきという母性的な意味合いが強い女性をそばに置き、女性たちに、べらんめえ口調で親分を気取らせるなんて。

史上最もひ弱な主人公なのかもしれない。

2017年6月18日日曜日

神の島 沖ノ島/藤原新也・安部龍太郎

沖ノ島は、福岡県宗像(むなかた)市に属し、九州と大陸の間に横たわる玄界灘のほぼ中央に位置する孤島である。

宗像大社の神領として、島には沖津宮(おきつぐう)が祀られており、女人禁制で、男子であっても入島の際には海で禊をしなければならない。

池澤夏樹が訳した「古事記」でも、沖ノ島の神様は登場する。
アマテラスが弟スサノオが腰に帯びていた剣を三つにおり、水で清めた上で、嚙み砕いて噴き出した吐息から生まれたのが、

奥津島比売命(オキツシマヒメのミコト)…沖津宮に祀られている田心姫神(タキリビメ)の別名

多岐都比売命 (タキツヒメのミコト)…中津宮(なかつぐう)に祀られている湍津姫神(タギツヒメ)の別名

市寸島比売命(イツキシマヒメのミコト)…辺津宮(へつみや)に祀られている市杵島姫神(イチキシマヒメ)の別名

の三女神である。(女神を祀る神領が、女人禁制というのも面白い)

沖ノ島では、4世紀の昔から大陸と九州間の航海の安全を祈る祭祀が行われ、8万点にも及ぶ様々な神宝が埋却されたので、海の正倉院とも言われている。

本書は、この沖ノ島について、藤原新也の写真と文章、安部龍太郎の文章がまとめられているが、共作という訳ではなく、二人の作品は完全に独立している。

藤原新也の作品は、文章で沖ノ島の歴史などを振り返ってはいるが、この人の凄いところは、写真では、そういった先入観に囚われず、全くのプレーンな眼でこの島の姿を切り取っているところである。

人間の弱さや妥協を排除しているような海や岩や木の峻厳な力強さに圧倒される。

宝物の写真も、素朴ではあるが、ずっしりとした重みが感じられる品々だ。
勾玉が胎児の形に似ているとコメントしているが、そう言われると、妙に納得してしまう。

安部龍太郎の作品は、宗像氏四代とその関連する歴史の物語を綴っている。

宗像君速船(はやふね)、三韓征伐
宗像君荒人(あらひと)、磐井の反乱
宗像君徳善(とくぜん)、白村江の戦い
宗像君清麿(きよまろ)、壬申の乱

池澤夏樹の小説「キトラ・ボックス」でも、壬申の乱のエピソードが出てくるが、高市皇子の母親 尼子娘が、宗像君徳善の娘であったということは意外だった。

これだけ、日本の史実に絡んでいたということは、宗像氏の権勢が当時、相当に強かったということなのだろう。
 https://www.shogakukan.co.jp/books/09682081

2017年6月6日火曜日

幻魔大戦Deep 1~2 /平井和正

「その日の午後、砲台山で」が予想外に面白かったせいもあるが、ついに、平井和正が電子書籍という媒体で続編を書いた「幻魔大戦Deep」に足を踏み入れてしまった。

電子書籍で小説を読むのは、あまり経験がない私だが、この「幻魔大戦Deep」という作品には、この媒体がぴったりと合っている気がした。

ひと言で言うと、この作品が明るくて軽い、つまりはライトノベルのタッチそのものだからだろう。

これは 「幻魔大戦」、「真幻魔大戦」を読んできた読者にとっては、信じられないような変化だ。

上記の過去作品に見られた、幻魔という魔族に攻撃され、滅亡の危機にさらされる恐怖、危機感、悲壮感のようなものが感じられないばかりか、お決まりの悪魔めいた陰惨な印象をもたらす悪役すら、ほとんど現れない。

超能力研究者兼作家の五十代の東丈と、翻訳者で六十を超えた東三千子。

何も起こらなかった世界で、ひっそりと暮らす初老の二人の姉弟に変化が現れるのは、彼らの姪 美叡の存在だ。

ニューヨークで失踪した弟の卓(これは真幻魔大戦と同じ)と、その妻である羊子(真幻魔では洋子)との間で生まれた娘が美叡(真幻魔では恵子)だ。

二人の名前が異なるということは、この世界がやはり別世界であることを暗示している。

美叡にはサイキック能力があり、若くして警視庁の巡査部長まで務めたが、あまりの有能ぶりに、危険を感じた上層部の意向により仕事を辞めざるを得なくなる。

そんな美叡には、夜中の3時に決まって、彼女を意のままに従わせようとする霊体が現れるという悩みがある。その悩みを解決するために、丈は知り合いの猿坊という霊能力者に会いに、美叡と一緒に京都に行くことになる。
そこから、様々な変化が東丈と東三千子に訪れる...というのが、大体のストーリーだろうか。

これも意外な印象だが、この物語に出てくる 東丈と東三千子は、肩の力が抜けて、実に伸び伸びとしている。彼らは、無視できない危機に遭遇しながらも、人生を楽しむ余裕がある。

二人ともお酒を飲むし、三千子はハリウッドの超天才スターからプロポーズを受け、彼の不思議な能力により三十代に若返り、女性としてのお洒落を楽しむし、丈も女性からプロポーズされ、彼女とのセックスも楽しむ。

平井和正は、明らかな意図をもって、幻魔大戦をリライト(rewrite)したとしか、いいようがない。
あの幻魔で袋小路に迷い込み、救いようがないくらい硬直した先のない世界を影に隠し(すべて放り投げてはいない)、新しい世界を構築しようとしたのだ。

その試みが成功したのかどうかは分からないが、特に苦も無く、1,2巻を読んでしまったのは事実だ。

2017年6月5日月曜日

孔雀 三島由紀夫 近現代作家集 II/日本文学全集27

三島由紀夫のような死に方をした作家は、損だと思う。
彼の作品を読んでいていも、どうしても、その影を探してしまうような気がして、落ち着かないからだ。

実際、この「孔雀」も、三島由紀夫の人生というものを感じざるを得ない。

富岡という四十半ばの昔は美少年だったのに、今はその美をほとんど失ってしまった男が、自分が行きつけの遊園地に飼われている孔雀が殺されたことを、刑事から犯人として疑われる。

その孔雀の死をきっかけに、富岡はこう思うのだ。
...富岡はさまざまに考えたが、そうして得た結論は、 孔雀は殺されることによってしか完成されぬということだった。その豪奢はその殺戮の一点にむかって、弓のようにひきしぼられて、孔雀の生涯を支えている。そこで孔雀殺しは、人生の企てるあらゆる犯罪のうち、もっとも自然の意図を扶けるものになるだろう。それは引き裂くことではなくて、むしろ美と滅びとを肉感的に結び合わせることになるだろう。そう思うとき、富岡はすでに、自分が夢の中で犯したかもしれぬ犯罪を是認していた。
この強烈な美意識は、この物語において、孔雀の死が人知れず野犬に襲われて殺されたという結末ではなく、誰か人の目によって目撃され、その殺戮の美が堪能されるところまで求めていたことにもうかがえる。

まるで、三島自身が孔雀であったかのような気がしてならない。

2017年6月4日日曜日

鮠の子・室生犀星 片腕・川端康成 近現代作家集 II/日本文学全集27

室生犀星の「鮠の子」、川端康成の「片腕」は続けて読むと面白い。

前者は、魚に託しているが、若い女性が男たちに付きまとわれ、望まないセックスを経験し、子を宿し、それでも、生むことに懸命になる女性のリアルな半生を描いているのに対し、後者は、女性の右腕を借り受けた男が、その右腕に話しかけたり、口づけたり、一緒に寝たりするフェティシズムの物語だからだ。

どちらも、男の勝手な欲望にさらされる女性の話だが、後者のほうは、女性の顔も、半身すらも求めず、「片腕」だけを完全に愛玩物として取り扱っているところに凄みがあるかもしれない。

谷崎も、女性の美しい足の指の描写など、 フェティシズム的な作品を書いたが、その足の持ち主である女性の顔や性格も具体的なものとして書き、それだけを切り離すという“荒業”は行わなかった。

この辺りが、川端康成の特質すべき点なのかもしれないが、単に個人の性的嗜好だけの問題のような気もする。

2017年6月3日土曜日

その日の午後、砲台山で/平井和正

平井和正が2005年に電子書籍として発表した幻魔大戦の後日談的な作品。

ただし、この作品を皮切りに、「幻魔大戦deep」と「幻魔大戦deepトルテック」という続編が書かれることになった。

この物語は、どこかエッセイ的な感じで、平井和正が自分の半生を振り返っているところから始まる。

紙の本には見切りをつけ、電子書籍にたくさんの作品を書き続けたこと。
その間、日本の出版業界は色褪せ、周囲の人々は老い、星新一も死んだが、自分は常に作品世界の中で若く生き続けていたこと、などなど。

平井和正は、まるで世捨て人のように、現実世界は無意味で小説世界こそ本物の人生であると述懐する。

そして、夢の話になる。

夢の中に、「地球樹の女神」のヒロイン 後藤由紀子が現れ、平井和正自身が、「地球樹の女神」の主人公である四騎忍であることを告げられる。

5歳の四騎忍に変身した平井和正は、後藤由紀子とともに、自身の故郷である横須賀の砲台山を訪れる。そこは、平井和正が十三歳の時に、「地球樹の女神」の原形である「消えたX」という作品の着想を得た場所だった。

そして、四騎忍は、「幻魔大戦」の東三千子と出会い、十五歳の四騎忍となり、木村市枝とも出会い、彼女たちから、失踪した東丈の捜索を依頼されることになる。

面白いのは、四騎忍には平井和正の意識が宿っており、彼の思いが所々に露出するところだ。

四騎忍が語る、東丈失踪後の“幻魔大戦”のその後のエピソードも興味深い。
「ハルマゲドンの少女」でも語られなかった、丈が渡米していた事実や、丈が創設した団体「GENKEN」が会員の減少により自然消滅した事実。

カルト宗教、偽メシア...

ここで語られる 四騎忍のGENKENに対する冷徹な視線は、“幻魔大戦”断筆後、20年近い時間が変えた平井和正の内省的な思いが反映されているような気がする。

そして、東丈の秘書だった杉村由紀とも出会う。

四騎忍は、東丈失踪後、彼女が高鳥に性的に誘惑され、ヤクザの矢頭に襲われるはずだった事件を未然に防ぎ、さらには、東丈のいう事を忠実に守ろうとし、無理をする杉村由紀の生き方自体まで否定する。
これも、時の経過がもたらした作者自身の率直な思いだったのかもしれない。

四騎忍は、アメリカに渡航しようとしていた杉村由紀を連れて、平井和正のもう一つの作品「ボヘミアン・ガラスストリート」の世界に移動してしまうのだった。
 私は、「ボヘミアン・ガラスストリート」は読んだことがなかったが、この作品に出てくる「ホタル」という女性は、なかなか魅力的に描かれているなと感じた。

最後まで読み切っての感想。

四騎忍は結局、東丈を探し出す。
しかし、この物語の重要なところは、そこにあるのではなく、四騎忍に語らせた平井和正の東丈への思いが短く記載された以下のところにあるのだと個人的には思う。 
東丈よりもその周辺の人間たちのほうが興味深い。だいたいおれは救世主など信じないし、東丈がその救世主ではありえないと思っている。もし、救世主なるものが存在するなら、人類を救済するよりは破滅へと導くのではないか。
 

2017年5月28日日曜日

誘惑者 安部公房 近現代作家集 II/日本文学全集27

池澤夏樹個人編集のこの近現代作家集は、個性ぞろいの短編が揃っているが、この「誘惑者」もすごい。

物語は、二人の行商の女が休んでいる始発待ちの駅の待合室に、時季外れの開襟シャツを着た大男が現れるところからはじまる。

疲れた男は眠るためにベンチを空けてくれるよう、お願いするが、女二人は動じない。 その女たちとの駆け引きの後、大男はようやく座れるが、そこに、事務員風の小男が現れる。

小男は、 大男と女二人に対して、自分が現れるのを先回りして待ち伏せしていた大男に捕まってしまったという話をする。吃音の大男に比べて、小男は流ちょうに話を進める。しかも、小男は昔、女を殺した過去があることをにおわせる。

そして、小男は、 自分が逃げ出さないよう、女二人に見張りを頼んで、自分は寝たらどうかと大男にもちかけ、大男は本当に寝てしまい、小男も合わせるように寝てしまう。

始発電車が来て、小男と大男の二人は乗り込み、さらに、バスに乗り換える。そして、ひっそりとした郊外の停留所で二人は降りて歩き、 ある門にたどり着いたところで、二人の関係が明るみになる...という物語だ。

短編小説の見本のような切れ味のあるどんでん返し。
そして、その結末を踏まえて、あらためて物語を見ると、最初からそう読み取ることもできたのだということに読者は気づかされるのだ。

小男の最後の台詞が、意味深だ。
来たるべき超管理社会を予言していたかのようにも思える。

2017年5月22日月曜日

白毛 井伏鱒二 近現代作家集 II/日本文学全集27

池澤夏樹が個人編集している日本文学全集は、今までの日本文学全集とは全く趣を異にしたものになっているが、この近現代作家の短編集に至っては、さらにその色合いが強くなっている。

この井伏鱒二の「白毛」も実に珍妙な話で、およそ既存の全集では見かけないような作品である。

作者(おそらく井伏鱒二、本人)は、仕事にとりかかるときに、つい所在なさげに、白毛(白髪)を抜き、それを釣り糸のようにつなぎ合わせる癖がある。

釣りが趣味だから、漁師結びやテグス結び、藤結びなど、骨が折れるような凝った結び方までしてしまう。

作者は結びながら、渓流釣りの場面を思い浮かべるのだが、どうしても消せない不快な思い出があるという。

それは、 偶然知り合った二人の青年と一緒に釣りをしていた時の話だ。

一人の青年がテグスを忘れてしまい、もう一人の青年と言い合いになる。
二人は酒を飲み、酔っぱらっていて険悪な雰囲気。
作者は、雰囲気を和らげるために、馬の毛を抜いてテグスの代わりにすることを提案するが、青年たちは思いがけない行動に出る...という話だ(読んでみてのお楽しみ)。

人の毛の強さが禁欲の有無、節制の度合いによって弾力性に開きが出てくるという話や、娘の生毛(うぶげ)が、男を知っているかどうかで違ってくる説など、作者の“毛”に対する興味は止むところがない。

なんとも変わった話だが、井伏鱒二の写真を見ながら、これが実話だったらと思うと、つい笑ってしまう。

堅いイメージのある作家だが、実は、かなり面白いおじさんだったのかもしれない。



2017年5月21日日曜日

父と暮らせば 井上ひさし 近現代作家集 II/日本文学全集27

原爆投下の3年後の広島の物語。

登場人物は、原爆で生き残った娘の美津江と、亡くなった父の竹造の二人だけ。

竹造は幽霊ということなのだろうが、どこか剽軽で明るい。そして、いつも美津江の将来を気にしている。

美津江は、原爆で過酷な死を強いられた人々を忘れられず、自分だけ幸せになることを恐れ、訪れた婚機を拒否しようとする。

竹造は、そんな美津江を必死になって説得する。
そして、二人の話は、原爆投下の日、瀕死の竹造を置いて行かざるを得なかった美津江の状況にさかのぼってゆく。

あの日、こんなつらい決断をした人々は、どれだけいたのだろう。
そして、それを背負いながら生き続けた人々も。

亡くなったしても、願えば、死者は生き残った者の心に生き続ける。
父娘の最後のやり取りが悲しいけれど、暖かい。

2017年5月14日日曜日

質屋の女房 安岡章太郎 近現代作家集 II/日本文学全集27

戦時中、学校にも行かず、友人の下宿でものを書いたり吉原で遊んで金がない学生と、彼の行きつけの質屋の女房との関係を描いた掌編。

この主人公の学生が語る質屋についての説明が面白い。
...店を出るとき、「ありがとうございます。」と、番頭とうしろに控えた小僧とに頭を下げられ、変な気がした。金をもらったうえに、礼を云われる理由が、咄嗟にはどういうことか合点が行かなかったのである。
また、質屋の女房について恋愛の気持ちがあった訳ではないと説明するくだり。
...しかし、こういうことは云えるだろう。金を借りる側にとっては、いかなる場合でも相手に信用を博そうとか、そのためには相手に好かれたいとかという気持ちが絶えず働いており、それは恋愛によく似た心のうごきを示すことになる、と。

学生は、良心的に質屋の女房に接し、彼女も好意を持って接するが、学生との関係に未来はないことは気づいている。

最後、主人公の学生は、召集令状を受け取り、彼女と最後の対面をすることになるのだが、その結末にも、どこかほほえましさが残る。

2017年5月11日木曜日

海街diary 8 恋と巡礼/吉田秋生

今回の海街diaryは、今までの刊と比べると、正直感動が薄かった。

たぶん、原因は、三女チカが妊娠を秘密にしていたことから発生した事の顛末と、お相手のアフロ店長(アフロじゃなくなった)が失敗したヒマラヤ登山に再挑戦するというエピソードに感情移入できなかったからだ。

妊娠したのに、安全(安産)祈願のために、半日に5カ所もパワースポット巡りをするという無謀な計画を立て、途中で熱中症になってしまうという、どうしようもない展開とか、アフロ店長が、チカの妊娠を知った後、“臆病な自分を取り戻したい”という大の大人が言うのも恥ずかしくなるような動機を真顔で話し、“必ず戻って来る。結婚してください”と告白する状況がどうにも違和感があったためだと思う。

すずの鎌倉での中学最後の夏に話の中心を持ってきたほうが良かったのではと個人的には思ってしまった。

2017年5月8日月曜日

みみずくは黄昏に飛びたつ―川上未映子訊く 村上春樹語る

川上未映子よく訊いた!というのが正直な感想。

話があっちに行ったり、こっちに行ったりして、深く追求できている部分と突っ込みが足りないと感じる濃淡の差はあるが、全体としてみると、多少読んでる方も疲れるほどに、まあよくもこんなに訊いたなという印象を受ける。

それは村上の愛読者である川上未映子がとにかく自分の訊きたいことをストレートに訊きまくったということだろうし、村上春樹もほぼ逃げずに誠意をもって語ったことの証左だろう。

村上春樹が自身の仕事ぶりをまとめた「職業としての小説家」より、ある意味、面白かった。

色々なテーマが語られているが、私が特に興味深く読んだのは、以下の部分だった。

1. 中上健次の思い出

中上健次が文壇のイニシアチブを持っていた時代に、中上と村上が対談した後、中上が村上を飲みに誘って、村上が断ったという逸話。
村上本人も後悔しているが、これ、両者の愛読者としては是非行ってほしかったですね。

2.地下へ降りていくことの危うさ

地上2階建て地下2階の建物の絵(川上未映子作)が秀逸。
地下1階が近代的自我みたいなもの、日本の私小説的な世界(クヨクヨ室)で、 地下2階が無意識の世界という説明は、とてもイメージがしやすい。

3.女性が性的な役割を担わされ過ぎていないか

実は私も、村上春樹の小説で不必要なくらいにセックスシーンが多いなぁと気になっていたので、川上未映子はよく訊いた!と感じるところだったのだが、残念ながらこの部分の村上春樹の答えは、「えっそうなの。でも違うよ」という感じでちょっと逃げているというか、かわしている感じが強い。この部分は正直もっと突っ込んでほしかったが、川上未映子の質問内容も、かなりストレートに近いものなので、これが限界かなという気もする。

4.日記は残さず、数字は記録する

ワープロソフトに「EGWord」(旧Macユーザとしては懐かしい!)を使っているのも面白かったが、村上春樹のある意味緻密な仕事の仕方と仕事量に驚かされる。
長編小説の執筆において、毎日十枚原稿を書いて毎月二百枚のペースを堅持し、書き直し(推敲)は、第5稿までプリントアウトせず、画面上で修正するというのも恐ろしい。そして、プリントアウトした第6稿から念校まで入れると、全部で十校(!)まで書き直しをしているということになる。
しかも、その間に、翻訳を複数こなすというのだから、すご過ぎる。

以上、私が特に興味があるところだけ取り上げてみたが、色々な側面から質問しているので、村上春樹の愛読者であれば、どこかしら興味を感じるところは、きっとあると思う。


http://www.shinchosha.co.jp/book/353434/

2017年5月7日日曜日

晴子情歌(抄) 高村薫 近現代作家集 I /日本文学全集26

昭和十年代の北海道の鰊の漁場とはこんな所だったのか。
赤の他人が金を得るという一つの目的のために集い、鰊の大群を捕獲するという大きな仕事を成し遂げる。

現代でいうプロジェクトなのだが、ここで描かれる情景は、企業で行うプロジェクト等とは比べ物にならないくらい、多種多様な人びとが集まり、濃密な人間関係があり、ダイナミックなエネルギーに満ちている。

私ははじめて高村薫の文章を読んだが、このような題材で、このような人間味のある文章を書く人だとは全く知らなかった。

面白いのは、編者の池澤夏樹がこの作品を、小林多喜二らのプロレタリア文学の系譜に位置づけているということだ。

しかし、ここで描かれる労働というものは過酷ではあるが、はるかに人権が尊重されている仕事場であり、労働者には働く喜びさえ感じられる。

昭和十年からなんと遠くに離れてしまったのだろうと感じてしまうほどに。

2017年5月6日土曜日

機械 横光利一 近現代作家集 I /日本文学全集26

私は初めて横光利一の小説を読んだのだが、軽い衝撃を受けた。
昭和初期に書かれたと思われるこの小説に斬新な印象を覚えたからだ。

カフカが書いた不条理な世界の印象とよく似ていると思う。

物語は、ほぼ密室劇に近い。
ネームプレートを作る町工場が舞台で、主人公はプレートに着色させるための化学薬品の調合を担当しており、その劇薬のせいで頭脳や視力にも影響が出てきていると感じている。
その主人公を敵視するのは、先輩社員の軽部だ。
主人公を町工場の主人から赤色プレート製法を盗み出そうとしている間者だと疑い、工具を頭に落としててきたり、足元に金属の板を崩れさせたり、薬品を劇薬に取り替え、命まで狙おうとしている。

もう一人は、町工場が受注した大量の仕事をさばくため、同業の製作所から応援で働きはじめた屋敷という男。
この男は、主人公から見ても、本物の間者のような怪しい行動をする。

そして、軽部が主人公を殴り、屋敷も殴り、屋敷も軽部を殴り、ついには主人公まで殴り出す。
この三人の職工の馬鹿馬鹿しい殴り合いの果てには更なる馬鹿馬鹿しい結果が用意されている。

主人公の一見客観的に思える状況分析は、物語の中心部を必要以上に掘削し、遂には、すかすかのナンセンスなものに変えていく。

この物語の構成は、ひどく現代的なもののように感じる。

2017年5月5日金曜日

女誡扇綺譚 佐藤春夫 近現代作家集 I /日本文学全集26

佐藤春夫が書いた怪奇ミステリ小説ともいうべき作品。

佐藤春夫と思われる新聞記者が大正時代半ばに友人とともに台湾の荒廃した街を散策した際、無人のはずの豪華な廃屋の二階から若い女性の声を聞く。
不審に思った二人が近隣の住民に話を聞くと、それはかつてその家に住んでいた豪商だった沈家の一人娘の幽霊だという。
そして、二人は沈家の短い栄枯盛衰の歴史を聞くことになる。

台湾人の友人は幽霊の存在を信じるが、作者はきっと若い恋人たちが隠れた密会の場所に選んでいたのではないかと推測を立てる。

興味をかきたてられた作者は再び廃屋を訪ねるが幽霊の姿はなく、一本の扇を拾う。
その扇に書かれていた女性の生き方を指南する言葉が本書のタイトルになっている。

再訪後、二人はその廃屋で若い男が首吊り自殺をしたことを知る。
作者はその男の第一発見者がきっと恋人で、彼らが聞いた女の声の主ではないかと仮説を立て、新聞記者の仕事を利用し会いに行く...という物語だ。

怪奇ものではあるが、終始クールな空気が流れているのは佐藤春夫が人生に対して時折みせる退廃的な雰囲気のせいだろう。

例えば、こんな一節。
いったい私は必要な是非ともしなければならない事に対してはこの上なくずぼらなくせに、無用なことにかけては妙に熱中する性癖が、その頃最もひどかった。
そうして私自身はというと、いかなる方法でも世の中を制服するどころか、世の力によって刻々に圧しつぶされ、見放されつつあった。
私はまず第一に酒を飲むことをやめなければならない。何故かというのに私は自分に快適だから酒を飲むのではない。自分に快適でないことをしているのはよくない。無論、新聞社などは酒よりもさきにやめたい程だ。で、すると結局はあるいは生きることが快適でなくなるかも知れない惧れがある。だが、もしそうならば生きることそのものをも、やめることがむしろ正しいかもしれない。... 





2017年4月17日月曜日

補陀洛/中上健次

私には、妹はいないが、自分が死んだ後に、こんな風に呼びかけてくれる妹がいたら、やっぱり、うれしいでしょうね。
兄(にい)やん、兄やん、ふみこはここにおるでえ。
兄やんとよう熊野の川で泳いだねえ。
母さんの子供みんなで、春に、三輪崎の海岸へ、弁当たべにいったねえ。
兄やん、兄やん、わたしは兄やんの魂に呼びかける。
悲しいというより兄やんにそうやってたら会えるかもしれんというわたしの楽しみみたいなものや。
中上健次と父が違う姉の独白。

複雑な家庭環境。

中上健次と父が違う兄(姉と父が同じ兄)は、二十四で自殺してしまった。

でも、あったかい。こういう言葉で語られる思い出は。
どんなに、その時がつらくても、悲しくても、何かいい思い出であったかのように変化してしまう気がする。

2017年4月16日日曜日

自由の秩序 - リベラリズムの法哲学講義 - /井上達夫

法哲学を専門としている井上達夫教授の講義が収められている。

しかし、構成が非常にユニークだ。

まず、冒頭、「市民アカデメイア」という団体の運営委員長から聴講者に対する「講義案内」が掲載されており、最後の方で、
因みに、井上氏から、「連続講義終了後の打ち上げコンパは大歓迎、酒盃片手の場外補講も辞さず」との申し出を事前にいただいております。
とある。

そして、講義の内容は、7日間に加え、場外補講の内容まで盛り込まれていて、その場外補講では、ビアホールでの井上教授と聴講者の質疑応答になっている。
これを最初にさらっと読んだときは、へえ、本当に行ったんだと思った。
しかし、「市民アカデメイア」などという団体は、ネットで検索しても該当しない。

疑問に思いながらも、7日目と場外補講に収められている聴講者との激しい質疑応答を読み進めていくうち、実は架空の設定ではないかと思い立ち、あとがきを読んでみると、案の定、「市民アカデメイア」も、攻撃的な質問をする聴講者も、架空の存在であるということが書いてあった。

井上教授の講義の中で、実際、どこまで、こういう質問をした学生あるいは聴講者がいたのかは不明だが、仮にこれが全部フィクションだったとしても、こういう自分を攻撃するような嫌な質問をする他者を想像して、これと会話して説得を試みようとする井上教授の気力がすごい。

講義内容も、とても興味深い。ちょっと書き出してみよう。

第1日 アルバニアは英国より自由か
・講義の意味
・自由と秩序ではなく、何故、自由の秩序なのか
・アルバニアは英国より自由か

第2日 自由の秩序性と両義性
・秩序と自由は相反するものではなく、両立可能
・むしろ、一定の秩序こそが自由を可能にするという結合関係にある
・自由な社会とは「より少なく秩序づけられた社会」ではなく、「よく秩序付けられた社会」である

第3日 自由概念の袋小路
・自由概念の錯綜
・自由概念ではなく、秩序の側から考えてみる
・法概念のトゥリアーデ(三幅対)

第4日 秩序のトゥリアーデ 国家・市場・共同体
・国家の最低条件
 ①暴力の集中、②暴力行使の合法性認定権の独占、③最小限の保護サービスの分配
・IS(イスラム国)と国家の違い
・近代社会契約説、市場アナキズム、共同体アナキズム

第5日 専制のトゥリアーデ 全体主義的専制・資本主義的専制・共同体主義的専制
・国家の全体主義的専制 ナチズム、スターリニズム、毛沢東主義
・資本主義的専制 ビル・ゲイツ、マードックに代表される独占資本家
・共同体主義的専制 現代日本に見られる会社主義、特殊権益の中間共同体の跋扈

第6日 自由の秩序の相対性と普遍性
・国家・市場・共同体という競合する秩序形成原理が総合に抑制し均衡を図る
・ 秩序のトゥリアーデ
・日本には中間共同体のインフォーマルな社会権力や組織的政治圧力に対して強い「法治国家」が必要

第7日 世界秩序をめぐる討議
・主権と人権は表裏一体
・EUがヨーロッパの平和と繁栄を築いてきたという幻想
・イギリスのEU離脱、問題の本質は英国にあるのではなくEUに

場外補講 リベラリズムにおける自由と正義の位置
・自由ではなく正義こそがリベラリズムの根本理念
・普遍主義的正義理念 ナチのユダヤ人迫害の反転可能性
・ロールズの正義構想への批判

井上教授の文章は、とにかく、難解な単語が多いが、我慢づよく読んでいると次第に慣れてくる。
久々に、頭を使った。

変な話だが、この本を読んでいると、本当に井上教授の難解な講義を聞き、疲れた頭で最終日に打ち上げに行ったような気分になった。

https://www.iwanami.co.jp/book/b281723.html


ちなみに、本書で取り上げている、宗教を廃止したと言われている「アルバニア共和国」。
初めて名前を聞いたので、調べてみると、かなり変わった国のようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%8B%E3%82%A2

http://futarifurari.blog.fc2.com/blog-category-89.html

2017年4月9日日曜日

岬/中上健次

実に複雑な家族関係だ。

主人公 秋幸は、実母と義父が暮らす家の離れに住み、歩いて十分とかからない距離に住む中姉 美恵の夫 実弘が親方をしている組の土方作業を仕事にしている。

同じく土方を仕事にしている義父にも、 秋幸より二つ年上の連れ子 文昭がいて、義父とその子、母と秋幸が同じ家に暮らしている。

中姉 美恵と母は同じだが、やはり、父(すでに他界)は異なっている。

秋幸の実父は、土方請負師でもないのに、乗馬ズボンをはき、サングラスをかけた、獅子鼻で、体だけやたら大きく見える男であり、山林地主から土地を巻き上げたと噂されるような男だ。
秋幸の母以外にも、二人の女に子供(秋幸にとっては異母弟妹)を産ませており、うち、一人は女郎の娘であり、新地(売春街)で働いている。

秋幸の仕事仲間には、美恵の夫 実弘の妹で浮気性の光子の夫 安雄がいたが、ある日、安雄が実弘の兄 古市を刺し殺す事件が起きる。(事件の原因は光子が安雄をそそのかして、兄妹仲が悪い古市を殺した風に描かれている)

その事件に衝撃を受けた姉 美恵が、精神的におかしくなってしまう。
亡き父の法事を機に戻った長姉 芳子もいる中、子供に戻ったように、母を求め、仕草も子供じみたものになる。

その半分だけ血のつながった姉二人と秋幸が、昔よく行った岬に弁当を持って墓参りに行く場面の情景が、この小説の中で一番美しい。

子どものようになった姉 美恵の狂気を岬の明るい光が優しく包み込んでいる。

しかし、美恵が突発的に自殺を図るようになり、ますます息苦しくなった空気から逃げるように秋幸が向かったのは、秋幸の実父が女郎に産ませた娘(秋幸の異母妹)が働く新地の店だった。

中上健次の小説には、もし、現実だとしたら、私にとって、とても受け入れることができない前近代的な要素がいっぱい詰まっている。その大半は日本から消え去ってしまったものだし、これからも消えていくべきものだと思う。

なのに、何故これほど強く惹かれてしまうのだろうか。

2017年4月2日日曜日

キトラ・ボックス/池澤夏樹

池澤夏樹の物語は、異なる時代を、異なる国を、たやすく飛び越えて話が進む。

この物語で、その仕掛けとなるのが、銅鏡と剣。

奈良県の神社で発見された鏡の文様が、中国新疆ウイグル自治区トルファン出土の禽獣葡萄鏡によく似ていることに日本の大学の考古学の男性准教授が気づき、ウイグル出身の女性考古学者 可敦(カトゥ)に連絡を取る。

やがて、可敦が、鏡と一緒に見つかった剣の刀身の文様に描かれていた星が、キトラ古墳の天文図と似ていることに気づく。

そして、二人は、鏡と剣が見つかった時の神社の伝承をもとに、銅鏡と剣がキトラ古墳から盗掘されたという仮説を立てる。では、その銅鏡と剣は、一体、誰のものだったのか。
キトラ古墳の墓主人と推理されている高市皇子なのか、忍壁皇子なのか、阿倍御主人なのか。
そして、その人物が、何故 ウイグルで作られた鏡を持っていたのか。

読者にだけ、その当時(飛鳥時代)の謎が明かされるが、遣唐使、壬申の乱という史実を巧みに生かした設定が面白い。

これが物語の一つの軸。

もう一つの軸は、可敦が中国政府にその身を狙われる立場にいるということ。
可敦が二人の男に拉致されそうになるところを、男性准教授が意外な特技で救い出し、親しい友人に助けを頼む。

その友人の名は、宮本美汐(みしお)。
なんと、前作「アトミック・ボックス」で、国家権力から逃げ切り、国産原爆製造の事実を暴露してしまった主人公ではないか。
そして、前作で彼女の逃亡を支えた友人たちと、敵対していた元公安の郵便局員が、可敦をかくまうことに協力することになる。

しかし、可敦には、秘密がある。
読者にだけ語られる彼女の胸のうちの言葉がヒントだ。

一級のミステリ小説のようでありながら、今の中国におけるウイグル自治区の人々の厳しい現状が反映されている。

最後のほうで美汐が言った

「国家を裏切るか友を裏切るかと迫られたときに、私は国家を裏切る勇気を持ちたいと思う。」

という言葉が胸に響く。

物語の前半はテンポが速く、あっという間に引き込まれた。
しかし、 池澤夏樹(71歳)は精神年齢が相当に若い。
 
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