片岡義男と翻訳論を語った「翻訳問答」の2冊目。
2冊目を提案したのは、片岡らしいが、鴻巣に対して、今度は自分ではなく他の人とやりなさいと言ったという。(人間が大きい)
本書では、奥泉光、円城塔、角田光代、水村美苗、星野智幸 といった翻訳もできる作家を集めて、翻訳論を語っているが、対象作品が、『吾輩は猫である』、『竹取物語』、『雪女』、『嵐が丘』、『アラビアンナイト』というところが前回と全然違う。
『猫』と『竹取』は日本の古典作品の英語訳からの和訳であり、『アラビアンナイト』もアラビア語から英語さらにはスペイン語訳からの和訳という「重訳」状態を意図的に創出している。
この「重訳」によって明らかになるのは、やはり「翻訳」の限界なのかもしれない。
『猫』は、冒頭の「吾輩は猫である」が、奥泉訳では「あ、猫です」、鴻巣訳(ノーマル版)では「わたし、猫なんですよ。」と、原作の雰囲気が無くなっている。
また、翻訳によって、読み飛ばされていた原文の文章の整合性のほころびが見えてくるという点も興味深い。そして、それを違う言語に置き換えるときには、原文にはない文章を補充することも翻訳では求められるという点も面白い。
『竹取』でも、英訳された文章の展開が早すぎるため、あえて文章を間延びさせるような表現を円城、鴻巣ともに使用しており、翻訳者のテクニックが付け加えられている。
翻訳作品は、翻訳者が第二の作者なのかもしれない。
しかし、『雪女』、『嵐が丘』では、翻訳文学、海外文学が下火になっているという危機感が語られているが、本当なのだろうか。私の行く本屋では、海外文学の棚は結構充実している気がするのだが。
個人的には、最後の『アラビアンナイト』が面白かった。
正式な原典もない『アラビアンナイト』は、正当な原理を求める一神教とは対立する考え方だという話だ。一神教を取り入れたら、文学は死んでしまうと。
『アラビアンナイト』は、さまざまな国でさまざまな翻訳者が訳されているうちに、新しい物語が次々と生まれ、物語全体は豊かさと厚みを増していき、原典が何なのかを突きとめること自体、無意味になってしまった世界的な文学だ。
この文学の特性を、一神教の原理主義にも取り入れることができたら、どんなに世界は平和になるだろうと思うのは、私だけだろうか。
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