老齢の作者が好奇心に駆られて、山の崩壊を見に行き、自然の力に畏怖を覚えるという、言ってしまえば、それだけの作品であるが、人をぐいぐいと引っ張り込む力強さに満ちている。
それは、山の崩壊現場という自然の猛威、人智・人力の及ばない世界に、人の背中に負ぶさってまで、わざわざ足を運び(しかも高所恐怖症)、その現場を目の当たりにしたい、体感したいという幸田文の物好きなまでの好奇心、行動力がベースにあるからだろう。
作者自身も、その性質をこんな風に述べている。
人のからだが何を内蔵し、それがどのような仕組みで運営されているか、今ではそのことは明らかにされている。では心の中にはなにが包蔵され、それがどのように作動していくか、それは究められていないようだ。...心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。その「土を押し破る」好奇心に突き上げられ、訪れた鳶山の崩壊現場。
砂防用軌道車で出会った女性たち、防寒着、鳶山崩壊の歴史、背負い紐、歩くスピード、肩越しに見る山道、崩壊の現場、緊張でこわばる体...。
最後、ふもとで待っていた車を見て、安堵した作者が後ろを振り返ると、山崩れの凄惨な雰囲気が圧倒し、残っていたわずかな歩く力も容赦なく奪い去る。
この作品は、優しい豊かな自然ではなく、人間にとっては災いとなる自然の力に対峙したときに感応した作者のストレートな感情が綴られており、その意味で稀有な作品だと思う。
しかし、その作業は、車の中ですぐに寝入ってしまった作者の姿が示すとおり、とてつもない重労働なのかもしれない。
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