まず、池澤夏樹が日本文学全集において古典を翻訳することとなった訳者たち(殆どが小説家)に宛てた手紙がすばらしい。
池澤は、三島由紀夫が日本の古典を天女のように崇め、現代語に訳すのは冒涜であると捉えていたことに触れ、「俗物であるぼくは天女を現世に連れてきて一緒に暮らしたいと思う」という。
そのためにはひらひらの衣装を脱いでTシャツとジーンズになってもらうのもしかたないと考える。大事なのは現代の人々が天女と会う機会を提供すること...現代日本の喧騒と雑踏の中に天から彼女がしずしずと降りてくる光景を目撃したい。それはやはり、今日ただいまの日本語を相手に日々悪戦苦闘している作家の力量を必要とする仕事なのだ。私は、この手紙を読んで、日本の文学界で死語になりつつある文壇という言葉を思い出した。
二つ目に面白いのは、池澤夏樹がこの日本文学全集を編んだ編集基準を、丸谷才一の文学的趣味であるモダニズムに依ったということ。
モダニズムというのは伝統を重視すると同時に、大変斬新な実験もする。そして基本的に都会小説であって粋である というのが丸谷式の定義であって...三つ目に面白いのは、上記のようにいいながらも、丸谷才一が生きていたらやりにくかったと述べ、「敬愛するけど煙たくもあるんですよ」とストレートに本音をこぼしているところ。
丸谷さんが全集を編めば石牟礼道子は入らなかった。中上健次だって認めていなかったから。彼の言うモダニズムは三つあって、一つは斬新な手法を開発する、前衛である。それであって伝統に則る。この二つは矛盾しない。三つ目は、これが丸谷的なんだけど、都会的で洒落ているということ。
そうすると中上健次は入らない。 石牟礼道子も入らない。 だから僕はそれは脇に置いた。僕は辺境に向かう人間だから、彼のように都に向かう人とは途中ですれ違うんです。中上健次の作品は、私小説的な側面もあるため、丸谷才一は好きではなかったでしょうね。また、石牟礼道子の「苦海浄土」の一節を、丸谷才一も称揚していた書評もあったが、それはもっぱら文章の美しさについてであって、池澤夏樹のように「弱者の側に立つ」「周縁の視点に立つ」「女性の視点」という世界に通用するような価値観を持った作品であるという取り上げ方は絶対にしなかったと思う。
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