カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」をまだ読んでいる途中だが、記憶の忘失が重要なテーマとしてあることは間違いない。
この短編「日の暮れた村」もその系譜にある小説と言っていいだろう。
イングランドをずっと旅し続けてきたフレッチャーが、日の暮れた頃にたどり着いた村。
その村で彼は若い頃、「大きな勢力をふるうに至った」存在だった。
たまたま、彼を見かけた二十代の女性も、その姿を見かけ、ある種の興奮を覚えるほどの伝説的な存在。
しかし、フレッチャーは、休息をとろうと、たまたまノックして入った家が、かつて自分が滞在していた家だったことも、彼を知っているその家の主人であるピーターソンという老人も思い出せない。
そして、旅の疲れから眠ってしまった彼を起こそうと声をかけてきた四十代の女性は、かつて彼を崇拝し、彼と男女の関係を持った仲だったらしいのだが、私の人生を滅茶苦茶にしたと彼を非難するどころか、ひどく老いぼれた姿らしいフレッチャーを「嫌な匂いのする襤褸切れの束」とまで言うが、彼は彼女の名前を思い出せない。
彼は、自分を非難したがっているピーターソンの家の人々に、自分たちがかつていくつかの過ちを犯したことを認めつつも、これから、若者たちのいるコテージに行って話し、昔のように彼らを諭し、ある種の影響を与えようとすることを宣言する。
フレッチャーは、最初に彼を認めた二十代の女性に連れられ、若者たちのいるコテージに向かおうとするが、道中で、かつて、彼がかつて学校にいた頃、年中いじめていたロジャー・バトンと会う。(村に入った彼を尾行していたようにも思える)
ここでも、また、フレッチャーを「鼻持ちならないクズ野郎」というロジャー・バトンと話しながら歩くうちに、いつの間にか、女性を見失ってしまい、彼は、ロジャー・バトンに、若者たちのいるコテージに行くにはバスに乗っても二時間かかると言われ、村の広場のバス停に案内される。
前後の関係から言って、若者たちのいるコテージがそんなに遠く離れているはずもなく、明らかにフレッチャーはロジャー・バトンに騙されている訳だが、彼は来る見込みもないバスを待ちながら、痴呆者のように、若者たちのいるコテージで喝さいの中、迎えられる自分の姿を思い浮かべながら幸せな気持ちになる、という物語だ。
この物語は、若い頃にひどいことをした本人は忘れていても、周りの関係した人々はそれを根深く覚えているものだという教訓めいた話にも思えるし、
かつて勢いがある時には伝説のように崇められていた人も、老いてみすぼらしくなった時には、周りの人々にしっぺ返しをくらう運命にあるという話のようにも思える。
面白いのは、人気のない村の広場でバスを待つフレッチャーが、惨めな思いに駆られるのではなく、幸福感に満ちた気持ちの中、物語が終わるというところだ。
これは、カズオ・イシグロのある種の優しさなのだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿