彼の作品を読んでいていも、どうしても、その影を探してしまうような気がして、落ち着かないからだ。
実際、この「孔雀」も、三島由紀夫の人生というものを感じざるを得ない。
富岡という四十半ばの昔は美少年だったのに、今はその美をほとんど失ってしまった男が、自分が行きつけの遊園地に飼われている孔雀が殺されたことを、刑事から犯人として疑われる。
その孔雀の死をきっかけに、富岡はこう思うのだ。
...富岡はさまざまに考えたが、そうして得た結論は、 孔雀は殺されることによってしか完成されぬということだった。その豪奢はその殺戮の一点にむかって、弓のようにひきしぼられて、孔雀の生涯を支えている。そこで孔雀殺しは、人生の企てるあらゆる犯罪のうち、もっとも自然の意図を扶けるものになるだろう。それは引き裂くことではなくて、むしろ美と滅びとを肉感的に結び合わせることになるだろう。そう思うとき、富岡はすでに、自分が夢の中で犯したかもしれぬ犯罪を是認していた。この強烈な美意識は、この物語において、孔雀の死が人知れず野犬に襲われて殺されたという結末ではなく、誰か人の目によって目撃され、その殺戮の美が堪能されるところまで求めていたことにもうかがえる。
まるで、三島自身が孔雀であったかのような気がしてならない。
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