2017年11月1日水曜日

浮世の画家/カズオ・イシグロ

非常に良く練られて作られた小説だと思う。

戦後、現役を引退した画家 小野の姿を、1948年10月、1949年4月、1949年11月、1950年6月の四つの時期に分けて描いている。
小野が戦時中どのような絵を描き、実力を有していたかが、彼の末娘の縁談をめぐる人々との関係を彼が追憶することで少しずつ明らかになっていく。
そして、戦後、アメリカの民主主義と価値観に染まっていく日本社会と人々の中で、彼の立場がどのように変わったかが暗示される。

この小野という画家がどういった人物だったのかを、作者は、彼の独白と彼の視点でしか描いていない。
それでも、彼が杉村という実力者から立派な屋敷を手に入れた経緯、末娘の最初の縁談が破談となった理由、かつての弟子との冷え切った関係、彼が敏感に反応する若者からの戦争責任の追求の言葉などを通して、次第に小野が直接的には語らないの闇の部分が浮かび上がってくる。

1949年11月の章で、小野が、彼の師匠が目指していた「浮世」の画風から離れ、軍国主義的な国威発揚を煽る絵画を書くようになった経緯が判明する。
歴史の教科書に載っていたようなポスターのイメージが浮かぶ。
作者は、地元で若手画家の登竜門的な展示会を主催する岡田信源協会という謎めいた政治団体の存在を配置したり、小野の弟子が警察に非国民的な絵を燃やされるするなどの様子を描き、当時、軍国主義に染まっていった日本がリアルに描かれている。

この作品の最も効果的なところは、実は小野が語っていないところに相当な真実が隠されているのではないかと読者に思わせるところだと思う。

例えば、1950年6月の章で、小野は戦時中、次第に社会の評判を落としていった彼の師匠の別荘を眺め、彼自身の立身出世と比較して勝利感を味わう。しかし、戦後においては、小野の軍国主義的な絵は社会から当然に抹殺され、彼の師匠の絵は再評価されることになったはずである。しかし、小野はそれについて何も語らない。
小野が行きつけだった飲み屋「みぎひだり」(これも意味深な名前)も立ち退きに会い、行き場が無くなりつつある彼が、新たに建てられた会社の社屋から出て来る若い社員を見ながら、「純粋な喜びを感じる」と言ったのは、果たして本心なのだろうか。
そういう疑念のようなものが行間からふつふつと湧いてくる。

この作品を読んで、丸谷才一の「笹まくら」を久々に思い出した。
戦争から逃げた徴兵忌避者の男の戦後と、戦争を美化し、それを推し進めようとした男の戦後。

この二作品、比べて読むと、とても面白いと思う。



0 件のコメント:

コメントを投稿