2015年6月25日木曜日

BSフジ プライムニュース  「違憲論」と安保法制 憲法・政治・国際情勢 交錯する論点徹底整理

2015/7/20 石川教授の動画「あれは安倍政権によるクーデターだった」を追加
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あの日、日本でクーデターが起きていた。そんなことを言われても、ほとんどの人が「何­をバカな」と取り合わないかもしれない。しかし、残念ながら紛れもなくあれはクーデタ­ーだった。そして、それは現在も進行中である。


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以下、元の記事

今日、プライムニュースで特集していた 「違憲論」と安保法制 憲法・政治・国際情勢 交錯する論点徹底整理が、とても面白かった。

http://www.bsfuji.tv/primenews/

就中、参加していた東京大学の石川教授(憲法学者)の説明が面白かった。

石川教授は、今の安保法制を、「ホトトギスの卵」と評していて、
(ホトトギスは、ウグイスの巣に卵を産み付け、ウグイスは、ホトトギスの卵とは知らずに育てるが、やがて、孵ったホトトギスの雛は早く大きく育ち、ウグイスの卵や雛を巣から蹴落とす)
政府は、昨年5月に閣議決定した安保法制を、いかにも現行憲法で認められた範囲の個別的自衛権(ウグイス)と実質的に変わらないものとして、国民に説明してきたが、今年6月4日の憲法審査会の憲法学者の違憲見解を機に、本当は、集団的自衛権(ホトトギス)であることがばれてしまって、にっちもさっちもいかない状況になってしまったのが現状だと説明していた。

実にたくみな比喩だと思う。

国内向けには、ウグイスと説明して、アメリカには、ホトトギスと説明している(アメリカ議会上下両院での安倍首相の演説、日米防衛協力指針ガイドラインの改定)という指摘も、いちいち納得がいく。

また、政府が、砂川判決を、集団的自衛権が認められる根拠として主張しているが、何が争点となっていた事件なのか、その文脈を無視して、判決文のテキストの都合のよい部分だけを拾い上げるのは、全くのナンセンスだということも説明していた。

石川教授は、政府側も、この砂川判決に根拠を求めることに無理があることは分かっているが、憲法学者の違憲見解が出てしまったために、そこまで無理をしないと、依って立つ根拠がない状況になっているのだろうとコメントしていたが、おそらく、それが事実なのだろう。

さらに、この砂川判決の有名な法理論である統治行為論「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という基準に照らすと、今の安保法制は、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められ」る可能性が非常に高い法案だという事も述べていた。

最後のほうで、石川教授は、憲法学者が安全保障環境の変化の脅威には全く意識を払っていないという批判に対し、目先の脅威に対応するために、国民の自由(憲法によって政府の権力から国民の基本的人権を守る)を犠牲にして、政府が暴走するというリスクもあるので、安全保障という観点とは異なるが、自由を守る(ルール〈憲法〉を守ることによって保障される)ことに意識を払うのは当然であると主張していたのも非常に納得がいく説明だった。

石川教授も言っていたが、実態がホトトギスである以上、ホトトギスとして育てることができるように、憲法改正を行うのが、やはり、適正な手続きなのだ。

国会は、過去最長となる95日間の大幅な会期延長を決議してしまったようだが、この安保法制だけに関して言えば、入口から間違えてしまったのだから、一度、撤回してしまったほうがよい。

安倍さんのアメリカに対するメンツはつぶれてしまうのかもしれないが、国民の自由を守ることの重要度とは比べものにならない。

2015年6月23日火曜日

亡友/谷崎 潤一郎

高い品性と道徳感を持ちながら、同時に抑制しがたい程の情欲を併せ持ったら、人間はどうなるか?
それが、この小説のテーマだと思う。

そのテーマとなった男が、作者の友人である大隅君なのだが、風貌は男っぽいのに、

「ややともすれば少しく淫靡にさえ聞こえるくらいの、甲(かん)の高い艶麗な聲でよくからからと笑いながら物を云う癖があった。若しも彼の容貌が、彼の一生を貫いた道徳の象徴であるとしたら、彼の聲は正しく彼の他の一方面、即ち情欲の象徴であったかも知れない」

と描写し、彼の中に二つの相反する性質が同居していたことを暗示している。

この大隅君が、作者の誘導に応じて語った女性経験が生々しい。

七歳の時に、子守の娘の性的玩具になり、十三、四歳で女中と初体験をし、中学二年(今の十七歳ぐらいか)で、二人目の女中と経験する。


作者(谷崎)と異なり、発表した詩が文学雑誌に取り上げられ、女性からもラブレターが来るという、藝術においても恋愛においても勝者であった大隅君だったが、一面では神の存在を欲して宗教の道を望み、一面では娯楽的な要素が不可欠な芸術の道にも惹かれ、どちらの道を選ぶのかで苦悶していた。

彼の二面性は、クリスチャンとして教会に行く傍ら、遊郭にも足を向けてしまうということからも分かるが、その二面性により、大隅君が、結婚前日に、かつて、彼のほうから別れた女性と肉体的な関係を結んでしまう事件が起こってしまう。

この事件は、作者の協力で事なきを経て、無事結婚することができたが、結婚したことがさらに大隅君の寿命を縮めることになる。

死因が丹毒もしくは面疔(化膿)と、性病をイメージするようなものになっており、作者は、抑制しきれない性欲と、その罪悪感に神経を病んだことが死の本当の原因ではないかと推測している。

この小説に描かれている大隅君は架空の人物であろうが、モデルは他でもない谷崎自身ではなかったのでないかと私は思う。

谷崎は、少年期に宗教と哲学への高い関心を持ち、聖人となるべく志を持っていたが、女性の美への強い憧れと欲望のために、次第にその軸足を詩や小説といった藝術のほうに変えている。

もし、自分が、違った運命をたどり、青年期に、強い宗教への志を維持し続けると同時に、それと同じくらいの強さの性欲に刺激され続けたなら、どうなるか、という一種の実験的なケースを想定して書いた小説ではないだろうか。

2015年6月22日月曜日

鬼の面/谷崎 潤一郎

谷崎の自伝的小説3部作の中で、中間に位置する本作は、彼の第一高等学校(今でいう大学)時代の作品だ。

彼(本作では壺井耕作)が進学のために家庭教師として住み込んでいる設定と、その住み込み先の津村家の家族の構成は、前作に当たる「神童」とほぼ近い。

物語は、 壺井が、津村家の女主人の命令で、鎌倉の別荘に滞在している子供たちの監視のために、性格の悪い女中のお玉と汽車で向かうところから始まる。

壺井と歳の近い兄の荘之助と妹の藍子は、荘之助は前作のいじめられていた玄一とはイメージが変わり、女中のお玉や壺井にも嫌がらせができる存在になっており、藍子は前作の鈴子が美しく成長した存在になっているが、両者とも性格は悪い。

壺井は、親に隠れて恋愛をしている兄妹の行動を影から監視し、女中のお玉に告げ口するという、どうしようもない役割を担っている。

女性の美しい肉体への憧れと、勉学にいそしみ過ぎて醜くなってしまった自己の容姿への幻滅が、壺井の心を波立たせ、 勉学にはほとんど身が入らない。

この鎌倉生活の中で、兄妹が、自分たちの手紙を検閲する女中のお玉への意趣返しに、夜中、彼女が寝ている時に、その寝顔にいたずら書きをするという事件を、壺井が目撃し、その行状に激しい情欲を覚えるエピソードは、いかにも谷崎らしい。

そして、藍子の恋愛を見ているうちに、壺井に漠然とした恋愛への憧れが生じ、自分が堕落してしまったのは恋愛をしていないことが原因だと思うようになったのは、ある意味自然な成り行きかもしれない。

壺井は、津村家に奉公に来ていた女中を、自らの恋愛の対象に選び、恋文を出し、そのやり取りが津村家の主人に露見し、家を追い出されてしまう。(学費の補助も打ち切られた)

この事件は谷崎に実際に起きた事件であるから、壺井のその恋愛に対する自己検証が興味深い。

相手の女中は、愛嬌のある善良な性格で、壺井はそこに惹かれたらしいが、貧書生の自分に相応の相手として選んだという側面が強く感じられる。彼の女性の好みから言えば、性格が悪くても美しい藍子のほうだったのかもしれない。

いわば、恋愛に憧れ、無理に恋愛を演じている男という雰囲気が強く感じられる。相手の女中も、結婚の約束を口にしながらも、現実味のない壺井を、ついには拒絶してしまう。

失恋し、学費の支払いにも窮し、新たな職も見つけられない壺井は、さらに堕落してゆく。

偶然出会った金持ちの息子の友人から学費と称してお金を騙し取り、遊興にふけっているらしい壺井を、両親が半ば諦め、かつての恩師や旧友がその堕落を気の毒がる場面で、この物語は終わるが、この状況は、そのまま次の「異端者の悲しみ」に引き継がれていく。

この作品は、「神童」、「異端者の悲しみ」と比べると若干、質は落ちるかのしれないが、谷崎が作家として身を固める前章にあった堕落と彷徨を描いている点で、谷崎作品の中で貴重な位置を占めていると言って間違いないと思う。