2021年11月3日水曜日

光とゼラチンのライプチッヒ/多和田葉子

作者と思しき彼女は、ベルリンから東の都市 ライプチッヒに行こうとするのだが、そこで何をしようとしているのかが、この物語のキーポイントだ。

ある商品を販売しに行くらしいのだが、スパイも現れ、ガラス板の技術とゼラチンがからんでいるのではないかという話になる。

彼女はスパイに対して、こんなことを言う。

「ゼラチンの特色は、湿り方によって光を通す度合いが異なってくる事です。」

「私がゼラチンを塗ったガラス板に正面からぴったり体をくっつけて立つと、目や口のところは湿っているからゼラチンが変質して光を通し...」 

「でも私がガラス板に体をつけて立ったのでは商売にならないのです。女性の姿を印刷すると、車の広告や、雑誌の表紙を、どうしても思い出させてしまうので、使い古した感じになってしまうんですね。」

ガラス板が「本」「印刷物」という解釈だとすると、「私がガラス板に体をつけて立つ」という行為は、生の自分を写すという意味で私小説のような印象を与える。そして、ゼラチンは外国語と解釈すると、「光を通す」とは、言葉をガラスの向こうに伝えることだろう。

国境地帯で彼女は喉の渇きを覚えながら、ひたすら歩き、「時々はっとする言葉があると、のどが少しだけ湿って、この粘膜が透き通り、光が通った気持ち」になるのだが、その同じ言葉を繰り返すと逆に影になって重くなってしまうため、彼女はまた別の言葉を捜さなければ前へ進めなくなる。

国境はまさに言葉の壁でもあるが、ここでは既成の文学、日本語の壁を乗り越えて、新しい文学、外の世界に響く言葉を見つけるのがいかに困難なのかが伝わってくる。

読んだ印象は、軽いタッチで書かれた作者のユーモアチックな精神世界だが、上記のように解釈すると、まさに多和田葉子が目指している文学の姿がシリアスに伝わってくる作品に思えてくる。

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