「虎狩」という タイトルから、「山月記」を思い浮かべる人もいるかもしれないが、ここで描かれているのは、作者が朝鮮の小学校に通っていた時分、同級生であった朝鮮人(半島人) 趙大煥という男についてのことである。
どちらかというと作者が日韓併合後の朝鮮の人々の様子を描いた「巡査の居る風景 一九二三年の一つのスケッチ」に近い印象を受けた。
趙大煥という少年は、日本語がうまく、母親が日本人(内地人)という噂もあるが、愛すべき少年というよりは、半島人であるがゆえの弱さ、性格的に屈折している点が作者の思い出として語られている。
例えば、趙が自分の名を名乗ることに少しも拘泥していないことを見せる反面、自分が半島人であるということを友人達が意識して、恩恵的に自分と遊んでくれているのだ、ということを非常に気にしていて、彼にそういう意識を持たせまいとする、教師や私作者達の心遣いまでが、彼を救いようもなく不機嫌にした点や、
上級生に生意気だと殴られ、泣き崩れた趙が、あたかも作者をとがめるような調子で、つぶやいた「どういうことなんだろうなあ。一体、強いとか、弱いとか、いうことは。」という言葉(作者は、内地人と半島人の隠しきれない差別感に絶望した感情を感じる)や、
虎狩に行って、虎に襲われそうになった勢子に対して、趙が足で荒々しく其の身体を蹴返して見ながら「チョッ! 怪我もしていない」と言い放つ姿(作者は、講談か何かで読んだことのある「終りを全うしない相」とは、こういうのを指すのではないかと考える)だ。
物語の最後、作者と趙の奇妙な再会が語られるが、ここでも作者は、趙の下卑とも言える表情をきっかけに彼のことを思い出すことになり、あくまで、作者にとって、趙大煥は、半島人であるがゆえの弱さ、屈折している性格のキーワードとして認識されているような気がする。
決して悪い作品ではないのだが、読んていて、気になったのは、中島の視点が支配している日本側のものではないかという感覚がぬぐえない点だ。
もちろん、彼がこれを書いた時代からすれば、あえてこの問題を取り上げていることのほうが称賛されるべきことなのかもしれないが。
敗戦国となった日本人が、むしろ米国で暮らしていたら、周りのアメリカ人にどう思われるか、この作品を読んだら、よけいに身に染みたかもしれない。
2020年8月9日日曜日
2020年8月2日日曜日
悟浄歎異―沙門悟浄の手記―/中島敦
悟浄が、悟空、八戒、三蔵法師を観察して分析した文章なのだが、これがなかなか名言が多い。
例えば、悟空を評して、
そして、程度の差はあれ、我々が住む娑婆においても、上記登場人物たちの性格を持った人々は少なからずおり、私たちはこの物語を通して、悟浄の分析に共感を覚え、我が身や周りの人々を顧みたりするのだ。
最初にこの物語を読んだとき「わが西遊記の中」という副題を見て、他にも作品があるのではないかという期待を持ったが、残念ながら「悟浄出世」とこの「悟浄歎異」だけだったことを知り、とても残念な気持ちになったのを覚えている。
例えば、悟空を評して、
彼は火種。世界は彼のために用意された薪。世界は彼によって燃されるために在る。
災厄は、悟空の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽のように、彼は、いつも全速力で廻っていなければ、倒れてしまうのだ。八戒を評して、
この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執しておる。
八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寐。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経たっても尽きぬもののように思われた。三蔵法師を評して、
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化の術ももとより知らぬ。途で妖怪に襲われれば、すぐに掴まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉しく惹かれているというのは、いったいどういうわけだろう?...我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹かれるのではないか。
師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。三蔵法師と悟空の共通する点について、
二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼らが天才であることの徴(しるし)でなくてなんであろうか?そして、彼らと対比した悟浄自身について、
燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。
悟空の闊達無碍の働きを見ながら俺はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂だ。」
俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまで経たっても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどん叱られ殴られ罵しられ、こちらからも罵り返して、身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。まったくもって、悟浄の観察と分析は正しいように思う。
そして、程度の差はあれ、我々が住む娑婆においても、上記登場人物たちの性格を持った人々は少なからずおり、私たちはこの物語を通して、悟浄の分析に共感を覚え、我が身や周りの人々を顧みたりするのだ。
最初にこの物語を読んだとき「わが西遊記の中」という副題を見て、他にも作品があるのではないかという期待を持ったが、残念ながら「悟浄出世」とこの「悟浄歎異」だけだったことを知り、とても残念な気持ちになったのを覚えている。
2020年8月1日土曜日
悟浄出世/中島敦
三蔵法師と出会う前、流沙河の河底で鬱々と過ごしていた時期の沙悟浄が描かれている。
彼には、自分の首の周りに食ってしまった僧侶九人の髑髏が見えるが、他の妖怪には見えない。自分の前世が天界の捲簾大将であったことにも懐疑的で、自分というものがただ厭わしく、信じることができなくなっていた。
悩んだ末に、妖怪世界に居る数多の賢人、医者、占星師に教えを乞いに旅に出る。
ある者には幻術を使った実用的な話をされ、ある者には無常観を説かれ、ある者には時の長さは相対的であると説かれ、ある者には神を恐れよと警告され、ある者には自分の醜い姿を肯定され、ある本能主義者には喰われそうになり、隣人愛を説く聖人には講演中に実子を食べる姿をみせられ、ある者には自然に教えを乞うべきであると説かれ、ある者には性行為で楽しむことこそ徳であると説かれる。
それらの教えを受け、ますます自分が分からなくなった悟浄は最後に会った仙人に諭される。
月光が差す静かな河底で眠りから覚め、体が軽くなった悟浄に、観世音菩薩が訪れ、三蔵法師との旅に付き従うよう告げられる。...という物語だ。
悩みに悩んだ悟浄が完全ではないが倦怠と自己不信という病(精神的危機)を克服する過程は、一種の教養小説と言ってもいいかもしれない。
これを私小説風にやると相当鬱陶しい印象を受けるかもしれないが、西遊記という古典娯楽小説を舞台にしているせいか、物語からは明るい印象を受ける。
なお、日本では河童のイメージでお馴染みだが、中国では僧形をしているという。
彼には、自分の首の周りに食ってしまった僧侶九人の髑髏が見えるが、他の妖怪には見えない。自分の前世が天界の捲簾大将であったことにも懐疑的で、自分というものがただ厭わしく、信じることができなくなっていた。
悩んだ末に、妖怪世界に居る数多の賢人、医者、占星師に教えを乞いに旅に出る。
ある者には幻術を使った実用的な話をされ、ある者には無常観を説かれ、ある者には時の長さは相対的であると説かれ、ある者には神を恐れよと警告され、ある者には自分の醜い姿を肯定され、ある本能主義者には喰われそうになり、隣人愛を説く聖人には講演中に実子を食べる姿をみせられ、ある者には自然に教えを乞うべきであると説かれ、ある者には性行為で楽しむことこそ徳であると説かれる。
それらの教えを受け、ますます自分が分からなくなった悟浄は最後に会った仙人に諭される。
臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐みとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。...物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではないということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。悟浄はそれでも釈然としなかったが、自分の中にあった卑しい功利性に気づく。そして、遂には疲れ切って何日も眠り続けてしまう。
月光が差す静かな河底で眠りから覚め、体が軽くなった悟浄に、観世音菩薩が訪れ、三蔵法師との旅に付き従うよう告げられる。...という物語だ。
悩みに悩んだ悟浄が完全ではないが倦怠と自己不信という病(精神的危機)を克服する過程は、一種の教養小説と言ってもいいかもしれない。
これを私小説風にやると相当鬱陶しい印象を受けるかもしれないが、西遊記という古典娯楽小説を舞台にしているせいか、物語からは明るい印象を受ける。
なお、日本では河童のイメージでお馴染みだが、中国では僧形をしているという。
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