2018年12月16日日曜日

闘字/円城塔

子供のころ、文字が生き物のように動き出す夢を見た。
その夢のような奇怪さのようなものを、この小説から感じた。

そもそも文字を闘わせる遊戯とは一体何なのだろう。

かつては一方が文字を書き、他方が部首を当てるだけだったものが、文字の間に強弱を設定する決めごとになり、そのうち字体によって勝負を定める流行が訪れる。

蟋蟀(こおろぎ)が戦う闘蟋の際には、蟋蟀の背中に文字を書き、あるいは螽斯(きりぎりす)、蟷螂(かまきり)、百足(むかで)の背中に文字が配され、しまいには人の体に文字を刺青し闘わせる。

闘字は、本来は出来事を不動にするための文字を弄ぶため、品のない行いとされており、文化大革命以降、下火にはなっているが、いまだに小規模ながら好事家たちのコミュニティが各地に存在しており、主人公もそのコミュニティに呼ばれる。

そこで主人公は闘字を行うのだが、彼の筆から跳ねた墨汁は魚になり、魚面人身蛇尾に変身し、最後に人首蛇身の女媧(女神)になる。

そして、匈の文字に勝る文字を記し、その理由を述べるのだが、文字に支配されたかのような主人公の説明は謎めいている。

文字が生き物のように躍動するマジックリアリズムの世界。



2018年12月15日土曜日

海街diary 9 行ってくる/吉田秋生

読後感が強く残ったのは、番外編の「通り雨のあとに」のせいだろうか。

すずがかつて住んでいた山形の河鹿沢温泉に戻ってくる。
そのときには、すずはサッカーも辞めていて、甥の二人を連れている。
十三回忌という目的だけでなく墓じまいをして、実父母のお墓を鎌倉に移すという。
そして、もうすぐ結婚するという。(甥の一人の名前を見ると、相手が分かる)

その二つの話に少なからずショックを覚えたのは、かつて、すずと一緒に住んでいた腹違いの和樹だ。
彼は真面目に旅館あずまやに勤めているが、弟の智樹は傷害と窃盗を繰り返している。母親の行方は分からない。

和樹は、姉のすずが好きだったに違いない。
しかし、彼女は、父の死後、いい加減な義母とともに和樹ら弟たちを捨て去り、新しい生活を求めて、鎌倉に旅立った。

彼女が蝉時雨の中で香田家姉妹に囲まれながら感情を吐き出すように泣いた場面は、この物語でもっとも印象的な場面だ。

彼女は自分の心の枷を取り払ってくれた姉たちを信頼し、鎌倉に旅立つ。
香田家姉妹にならなければ、海街の物語は成立しなかった。

でも、この番外編では、和樹という残された者から見た蝉時雨の中を走るすずの後ろ姿が描かれている。

呼び止めようとした和樹の声を聴き、一瞬立ち止まったけれど、再び走り出す後ろ姿のすずが。

この物語の光と影のような対比を置いたことで、よけいに光は眩しく、そして残酷に思える。

2018年12月10日月曜日

緑字/円城塔

「文字渦」からの一篇。

この作品も変わっている。
文字の話であることは同じなのだが、主人公の森林は、どうやら相当のファイルサイズを持ったテキストファイルを探索しているのだ。

「平文の記録ではなくデータベース化を検討するべき規模といえたが、まだ力押しできる程度とも言えた」とは言い得て妙である。

そのテキストファイルは、機械向けの命令文が大半だが、島々のように浮かぶヒト向けの文章が偏在している。

漢訳の金光明最勝王経
同じく漢訳の華厳経
千載和歌集の第七十二歌から第九十六歌
光る部首や微弱な光を放つ固有名詞

印刷する際の紙の素材や色、質までデータで指定されている。

さらに門構えの中に門と記された漢字(おそらく架空の漢字)は、40AU(Astronomical unitの意と思われる)の距離に12ポイントで印刷することが指定され、40AUとは冥王星のあたりを指すという、まるで宇宙のような世界として描かれている。

この無意味な、しかし妙に生命感が感じられる宇宙と似た世界がテキストファイルという身近にありながら、その実よく分からないものに存在しているという発想が素晴らしい。


2018年12月9日日曜日

文字渦/円城塔

表紙の「文字渦」がばっと目に入り、書店で思わず手に取ってしまう。
中島 敦の「文字禍」を思い浮かべながら、その美しい表紙を眺める。

その時は気づかなかったが、この本の「渦」は、中島敦の「禍」とは違う。
「禍」は、わざわい、原因の意味であるが、「渦」はうずまきの意なのだ。

この小さな違いを、しかし、この決定的な違いを気づいた人は、この本を楽しめると思う。

その感性は、例えば、秦始皇帝の陵墓から出土した等身大の一万体もの陶俑(人型の像)を眺め、ひとつひとつの像の顔が異なることに気づくのに等しいのかもしれない。

なぜなら、この小説の主人公 俑は、秦の皇帝 嬴から徴用され、専属の陶工として、人々の姿を陶器に写す作業に没頭するからだ。

秦の時代は、象形文字の面影を残す金文から字形の整理が進み、簡潔に枠に収まる小篆が公式書体とされた時代でもあった。

それは、皇帝嬴の意思でもあったが、俑には小篆の文字がよくわからない。
ただの線の入り組みであり、線でしかない。馬という字を見ても馬とはわからず、羊という字は全然羊のようではなかった。岩も川も空も冷たさも皆似たような、同じ太さの線からできており、具象抽象を問わず軽重がなく均質だった。...俑にとっての文字とは、一文字一文字が神聖を帯び、奇瑞を記し、凶兆を知り、天を動かすためのものである。
ある日、 俑は皇帝 嬴から、永遠に存在し続ける「真人」の像を作ることを命じられる。しかも、嬴曰く、それは嬴本人のことなのだ。

一時として同じ表情を宿さない嬴を前にして悩む俑に、嬴は秦の文字(小篆)を参考にせよと言葉をかける。
そして、俑は、宮の一室で一人、文字を造りはじめる。小篆と同じ文字の様式を保ちながらも、異形とも思える文字たち。

その文字たちは、後の発見で、一体の俑(陶工の姿を模した)の足元から見つかった一尺の竹簡一枚に二十文字、百五十枚を編んで一巻として三千文字、十巻で三万文字が記されていたことが分かる。この一見、漢字の進化過程において何の役割も果たさなかった大量の文字群の意味を後世の人々は理解できない。

しかし、この物語を読み終えると、俑が「真人」の本質を理解するまでの試行過程であったことが、そして、その結果として、物語の最後、俑が嬴に答える「真人」の意味が、二千二百年後の世界に生きる私たちにはわかる。

漢字フェチとも言える物語の造りだが、スケールは大きい。中島敦も漢語を多く織り込んだ文章を多用し、大きな物語を造ったが、久々にその格の高い独特の世界観を感じた。

まるで、無数の漢字が頭の中に吹き荒れる感じ。
個人的には好きである。


2018年12月3日月曜日

蛍・常夏/源氏物語 中 角田光代 訳/日本文学全集 5

「蛍」は、相変わらず、玉鬘にちょっかいを出す光君の振舞いが描かれている。
特に、光君の弟である兵部卿宮が玉鬘に恋文を送っているのを知り、玉鬘の女房を呼び出し、自分が考えた返事の内容を書かせて反応を楽しむというのは、常軌を逸している。

のぼせた兵部卿宮が玉鬘の部屋を訪れた際、容易にうちとけない玉鬘の部屋に捕りためていた蛍を放つ。蛍の怪しい光に照らされる姫の美しさで、さらに兵部卿宮を惑わそうという光君のたくらみ。

一方、内大臣(頭中将)は、夢占いで、最近、自分の子が誰かの養女になっているということはないかと占い師に問われる。

「常夏」は、その内大臣が、自分が産ませた娘を探すのだが、玉鬘ではなく、近江の君という姫を見つけ出す。

さっそく引き取るのだが、期待に反し、顔は自分に似てブサカワで若い女房と双六を打ち、早口で軽口を叩くという今風の女の子だった。

和歌を作らせても上の句と下の句がつながらないという歌を即座に作ってしまうという特技を持ち、弘徽殿女御に出した歌も失笑を買い、女御本人からではなく、下の女房から返事が来てしまう。そういった事情も知らず、女御からの返事と思い込み、素直に喜ぶところも見ようによっては可愛い。



2018年12月2日日曜日

日曜美術館「ムンク 自我の叫び」

NHK Eテレの日曜美術館で、ムンクの絵画を藤原新也が解説していた。

ノルウェーの画家 エドヴァルド・ムンクは、80年の生涯で二万点もの作品を残したという。
軍医で厳格な父は精神障害を患い、母は結核を患う。その両親の間に生まれ、病の遺伝と死の恐怖は身近にあった。実際、母と姉を結核で失い、父と弟は肺炎で亡くなる。

ムンクというと、「叫び」を思い浮かべるが、この作品も一つだけではないらしい。
ムンクは気に入ったモチーフは何度も繰り返し描いたという。
そして、多くの自画像も描き残している。
藤原新也の「自画像とは自分が混乱しているときに、自分を見つめ直すために描くものだ」というコメントが面白い。

以下、絵画ごとに面白かった藤原新也のコメント。

・リトグラフの自画像
藤原新也:モノトーンの絵を立体的にするため、そして中央の自分の顔の白さ(白いペストと言われる結核の死の恐怖の意味)を際立てさせるため、下の骨に薄くグレーをかけている。

・「地獄の自画像」(恋愛の縺れで恋人に左指を拳銃で撃たれた際に描いた絵)

藤原新也:後ろの黒い部分に狼が描かれていて、ムンクを見つめているという指摘(よくみると、そんな気もする)。「この人は地獄に落ちた自分を描きたいのよ。芸術家の性だね」のコメントも面白い。

・「自画像、時計とベッドの間」(最晩年の自画像)

藤原新也:時計というのは常に未来に向かっているが、この時計には針がないということは明日がないということだ。表情のない顔は、刑務所に入れられるときに撮影されるマグショットのようだ。ベッドカバーは死の床で、歩いていくと扉の向こうには闇(死)がある。このような複数の謎解きがムンクの絵には含んでいる。
・「叫び」(47歳ごろに描かれたもの)

最初は「絶望」というタイトルで、帽子をかぶった男の後ろ姿、そのあとは、うつむいた男の顔で描かれている。変わらないのは赤い空。そして、ムンクは自然の叫びを聞いたという。「自然の叫び」を、木の伐採の音ではないかという藤原新也も推理も。

この「叫び」に似た背景の絵で、「フリードリヒ・ニーチェ」という絵があるのも面白い。

藤原新也:ニーチェの「神は死んだ」という思想が、産業革命と自然との懸け橋、絶望の一歩手前という状況にふさわしいからだというコメントも興味深い

複数の人妻との不倫遍歴で描かれた「接吻」「マドンナ」「マラーの死」も興味深い。

・マドンナ

藤原新也:左下の胎児が女性をにらんでいるという指摘には驚いた。(枠に描かれているのが精子だとすると...怖い)
トラウマを埋めるために様々なイメージを重ねたというムンクの人生を振り返りながら、
藤原新也の「僕はこういう人とはつきあいたくない」という最後のコメントに笑ってしまった。

東京都美術館で開催されているらしい。
https://munch2018.jp/

2018年11月28日水曜日

家具/筒井康隆

この短編も不思議な読後感を残す。

病床にある寝たきりの男が見る白昼夢、あるいは残存思念。
彼が思い続けるのは、自分を捨てた(と思っている)妻と弟が浮気をしていたのではないかという疑念だ。

その思いは、湖畔に立つ別荘の窓から、湖で全裸で泳ぐ妻の姿をカメラのレンズのような眼で眺めている弟の姿に収斂される。

その男の思念に、突然、机、花瓶、ピアノ、カーテン、ベッド等の家具の思念が入り込んでくる。

やがて、家具たちの思いは、駆け落ちをしたという箪笥と帽子掛けを探しに行くことに収斂され、同期をとるように男の思いも、自分を捨てた妻と弟が駆け落ちしたのではないかという思いに至る。

男はやがて自分にスープを飲ませてくれる初老の女は妻ではないかと思う。
しかし、真実は明らかにならないまま、男の姿は消え、湖畔から別荘も消える。

ベースにあるのは、哲学者ハイデガーの「存在と時間」の概念だろう。
人間(現存在)は、自分が死ぬと知っているから、何より自分を気遣う。自分を気遣うだけではなくて、周りの道具、例えば、机、いす(道具的存在者)も気遣う(配慮的気遣い)。そして、自分以外の他人(共現存在)に対しても自分を顧みての気遣いをする(顧慮的気遣い)。
上記の概念を具体化したような短編なのだが、静かに消えゆく命のゆらめきに、まるで詩のような美しさを感じる。

2018年11月27日火曜日

原始人/筒井康隆

まず、原始人を主人公にした小説を書こうという作者の意欲を買いたい。
言葉は当然しゃべれないし、記憶力もほとんどない。
コンピュータで言えば、一時的に記憶するRAMの領域が著しく小さい。

一人の原始人の男が、食料を奪うため、自分の父親であることさえ認識できずに老人を棍棒で撲殺し、若い女を見れば性欲を制御できず、調達した食料も忘れ、棍棒で加減して叩き、襲いかかる。
洞窟で共に暮らす女房役的な女にも飽き、若い女を締め殺そうとした女を棍棒で叩き殺す。

川で魚を捕る手法も、棍棒で水をたたき、逃げ遅れた魚を捕るという効率の悪さ。
おまけに漁が終わった頃には、女を殺したことも忘れて、洞窟に魚を持ち帰ろうとする。

そして若い男に撲殺され魚を奪われるのだが、死んだ男にはわからない。

なんと愚かな原始人と嘲る読者に、作者は最後に真理を突きつける。
彼は無明の闇から生まれ出てきて無明の中に生き、ふたたび無明の闇の中へ去っていった。すべてわれらと何ら変ることなし。
まったく、反論すらできない実に見事な結末。

2018年11月26日月曜日

ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白/ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・D. ハンゼン

本書は、ナチのNo.2 ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書の一人として働き、106歳まで生きたドイツ人の女性 ブルンヒルデ・ポムゼルさんの告白を記した本だ。

この本は、別の意味で衝撃を受けた。
あの激動の時代を、しかもゲッベルスの秘書として3年間も働いた女性が、戦後、ある意味、ナチの行った行為と自身の関わりと責任を、他人事のように否定している姿勢に驚いたからだ。

自分は職業人としてナチに仕えたが、自分自身が犯罪を犯したわけではない。
あの時代、ユダヤ人の迫害を助けるために、もっと何かをできたと人は言うけれど、きっと、その人たちも自分と同じことをしていた。

あのころと似た無関心は、今の世の中にも存在する。
テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのがわかる。
しかし、そのあとのテレビではバラエティ・ショーが放映される。
シリアのニュースを見たらかといって人々は生活を変えない。
生きるとはそんなものだと私は思う。

これらの言葉は、奇妙な説得力がある。
我々は、様々な映画やドラマや小説で、ナチと勇敢に戦った人や物語を知っているが、それは、とてつもない勇気と犠牲を強いる行為だという自覚がないまま、軽い認識で共感しているだけなのかもしれない。

むしろ、ポムゼルのように、政治への無関心を貫き、体制に逆らわず、都合の悪い事実や情報は視界の外に遠さげ、それがどんな意味を持つかも考えずに粛々と与えられた仕事を誠実に行う。
そんなサイレント・マジョリティと言われる人々が実は大多数なのかもしれない。

政治への無関心、ポピュリズム、ナショナリズムの台頭、移民の排斥。
世界の至る所で、今は第一次世界大戦後の世界に似ていると言われている。
実際、民主主義の旗手であったはずのアメリカからトランプという大統領がすでに生まれているのだ。

日本だって他人事ではない。生産性がないという理由に基づいた障害者の大量殺人事件と、自民党の若手議員がLGBTの人々を生産性がないと切り捨てた思想はリンクしている。
ナチのユダヤ人迫害の前には、同様の理由で障害者差別が始まっていたのだから。

そういった世界情勢を認める中で、自分はポムゼルと同じ生き方を選ぶことはない、と断言できるだろうか。

ポムゼルの語る言葉に対して、どれだけの反論ができるのか、語らなかった事に対して、どれだけの想像を巡らすことができるのか、この本はそういう難しいことを要求している。

2018年11月25日日曜日

本の森の狩人/筒井康隆

筒井康隆が1992年に読売新聞朝刊の読書欄に連載していた文芸批評集らしい。
今では見る影もない同新聞の読書欄に、そんな時代があったのだと読後に諸行無常の気分になった。

文芸批評とは、露骨にその人の知性と感性、世界観が滲み出てしまうため、文藝というジャンルの中ではある意味恐ろしいセクションである。
特に新聞に掲載されるものは、書く分量は制限されるし、読み出しで退屈そうだなと感じるものは、さっとめくられ、読み飛ばされる。

本書は、ハイレベルに面白い批評集である。
取り上げている本も、古典から短歌、伝記、SF、推理小説、奇書、漫画、純文学、パロディ、専門書とバラエティに富んでいる。
そして、批評の主眼がこれらの本の創作手法に置かれていることにも特徴がある。
メタ・フィクション、感情移入、不条理文学の構造、錯時法、文体、記号、パロディ、フェミニズム、マジック・リアリズム等々...
職業小説家としての意識がそうさせるのだろうが、これほど、手法にこだわった文芸批評というものを、あまり読んだことがない。

何より文芸批評を遊戯的に行い、人を楽しませようとしている。
そんな意識を批評から感じた人は、故 丸谷才一氏しか知らない。

筒井康隆の小説の登場人物である火田七瀬、唯野教授、穂高小四郎、神戸大助が語る批評があったり、筒井康隆が現実にはない作者の作品を批評とするという掟破りの批評もあったりする。

ぶさけていると思いきや、以下のようなシリアスな作者の胸の内が明かされていて、読んでいて飽きない。
なぜ日本の文芸出版市場のシェア90%を推理小説が占めているのか...そこには謎の提示と解決という最低限の面白さだけは保証されているのだ。推理小説だからと馬鹿にするだけではなく、われわれ作家はこの形式をもういちど謙虚に見なおし、自分のテーマをこの形式でいかに表現でき、一般読者に伝えることができるかを考えてみるべきだ。
以下、ぜひ読みたくなってしまった本。

アンドレ・ジッド「贋金つかい」
丸山健二「千日の瑠璃」
河合隼雄「心理療法序説」
シュニッツラー「カサノヴァの帰還」
中上健次「軽蔑」
清水義範「世界文学全集」
ジョルジュ・ペレック「人生 使用法」
藤原智美「運転士」
笠井清「哲学者の密室」
トーマス・マン「魔の山」
ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」



2018年11月19日月曜日

胡蝶/源氏物語 中 角田光代 訳/日本文学全集 5

玉鬘は、光君がかつて愛し、それが原因で生霊の六条御息所に殺された夕顔が遺した姫で、かつて仕えていた女房の右近の引き合いで、今は光君の邸宅 六条院に住んでいる。

この姫の美しさに、様々な男たちが心動かされ、恋文を送り付けている。
光君の弟で、妻に先立たれた兵部卿宮や右大将、そして実は異母弟である中将の柏木(内大臣 頭中将の息子)も、その中にいる。

光君は、まるで実親であるかのように、それらの恋文に対する対処法を玉鬘に教える。
男からの手紙には焦らして返事をしないほうがかえって男の気持ちをそそるとか、女は慎みを忘れて心の赴くまま情緒を知ったかぶりした対応をしないほうがよいとか、身分の下の者には、心を尽くし続ける男にはその功労を認めてあげなさい等々...

これが本当の親心から言っていれば姫の心にも伝わるのかもしれないが、そこにはライバルたちを退け、姫を独り占めしておきたいという下心があったのかもしれない。

実際、光君は思い余って、姫に添い寝したり、手を握ったりするのだが、玉鬘は涙を流したり、体を震わせる。

色男の鈍感さからか、光君はなぜ玉鬘が自分を嫌うのかわからない。

しかし、客観的に見れば、自分の親(頭中将)にいつまで立っても引き合わせようとせず、親の代わりの真似事をする一方で、その実、自分を寝取ろうと欲望をたぎらせている信頼がおけない中年のオヤジという状況だと思うのだが。

自分を迎い入れなかった姫に「けっして人に気づかれないように」と言い残すのも、解釈によっては、自分を嫌っていることを周りの人々に気づかれたらこの邸で生きていけないと、暗に脅しているようにも思える。

厭らしいオヤジにめげずに潔癖な対応をする玉鬘に一票。

2018年11月18日日曜日

ダンシング・ヴァニティ/筒井康隆

美術評論家の主人公 渡真利の半生?を描いた作品だが、これ程かというぐらい実験的にパロディ化された作品だ。

時々家族の前に顔を出す死んだはずの主人公の父親と息子、人を投げ飛ばす体格のいい妹、コーラスガールとしてデビューする娘、何故か壁に激突する癖がある友人の精神科医、取引先の出版社で鳥の格好をする美しい女性社員、主人公の快楽願望を体現したようなコーラスガールの十人組の女の子たちコロス、主人公の保守性を象徴する足に絡みつくタコ、主人公の人生の局面を見守るような存在のフクロウ。

これらのキャラクターの中でも、背後から主人公を揶揄する発言を繰り返すコロスの存在が最高である。

描かれる場面も、何故か家の前で多発するヤクザの喧嘩や軍隊の粛清、銃弾が飛び交い、地雷原を走り回る戦場、主人公が考案したフクロウダンスを踊るクラブの劇場、主人公が研究している浮世絵絵師の菱川師宣がいる万治三年の江戸の町、主人公の無意識の自我が虎となって現れる中国映画、孫娘の遊び相手のピンクアウル(フクロウ)を連れ出すバーチャルゲームの世界と、どんどん変わってゆく。

そして、まるで意図的に物語の進行を妨げるように同じような場面が3回リピートされて描かれるのだが、2回目、3回目の場面は微妙にデフォルメされたり、脱線したりと世界が無目的に多重化しているような、まるで迷路に入り込んだような雰囲気を感じる。

この物語で唯一、単一の多重化していないリアリティを感じるのは、最後に主人公の意識の中で感じる死の重みだけだ。

映画監督のフェデリコ・フェリーニが、この小説を読んだら、絶対に映画化したくなっただろうと思うような作品である。


2018年11月12日月曜日

玉鬘・初音/源氏物語 中 角田光代 訳/日本文学全集 5

「玉鬘」は、光君がかつて愛し、それが原因で生霊の六条御息所に殺された夕顔が遺した姫(頭中将との子)玉鬘をめぐる物語だ。

母親の死後、玉鬘は乳母の夫が筑紫に赴任する際に連れていかれ、二十歳の美しい姫になっている。

その美しさは評判になり、地元の武士からも言い寄られるようになり、姫の身の危険を感じた乳母は、親族の一部とも別れ、京に姫を連れ戻ってくる。

そして、京に無事にたどり着けたお礼参りに初瀬の観音に参詣に行く途中で泊まった宿で、偶然、夕顔のもとで女房として務めていた右近と遭遇する。

右近も、かつての主人であった夕顔のことを忘れておらず、出会った一行が夕顔の関係者であることに気づく。

右近は、早速、夕顔の娘に会ったことを光君に告げ、光君は、玉鬘が夕顔に負けず美貌の姫であることを知り、六条院の東北の町(花散里)に住まわせることにする。

「初音」は、元日の六条院の様子を描いた作品だ。
紫の上とは仲睦まじい。
明石の方の娘との歌のやり取りでは、長い間、母親である明石の方とは会わず、別々に住んでいることがわかる。
花散里とは、もはや男女の関係ではないらしい。髪の毛が薄くなっている。
玉鬘は美しい容姿で、光君もこのまま娘として扱うことは出来ぬのではと危機感を覚えている。
明石の方には、優雅な気品があり、光君は別れがたく、その晩彼女の館に泊まってしまう。

光君は律儀な男で、二条東院(別宅?)に住む末摘花と空蝉のところにも挨拶に行く。
末摘花も髪の毛が薄くなり、白髪が目立ち、着るものも美しさがないが、鼻の赤さだけは健在。
尼になった空蝉は、今は光君の援助を受けて暮らしていることがわかるが、さすがに尼になってしまったので、光君も男女の話は出来ない。

自分の息子 夕霧も参加した男踏歌の一行も歓待し、六条院の繁栄が伝わってくる。

この時代、トリートメントなどもなかったから、女性の髪も傷んで薄くなってしまうこともあったのだろうか。光君の容姿は全く衰えないというのに。

しかし、玉鬘や夕霧の成長といい、物語の時間は確実に過ぎていることが分かる。


2018年11月11日日曜日

朝顔・少女/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

「朝顔」は、光君の叔父にあたる式部卿宮の娘 賀茂の齋院(朝顔の姫君)をめぐる話だ。
光君は、幼い頃から彼女を好きだったらしい。

「いったん恋をしたら忘れない心癖なので」と文中にもあるが、朝顔の姫君の父が死んだのを機に、お見舞いの手紙を何度となく送ったり、彼女と同居する叔母の見舞いにかこつけて会おうとしたりと、光君は相変わらずの振舞である。

しかし、この朝顔の姫君は、しっかりした女性らしく、今までの光君の女性関係を見て、容易に心を許そうとしない。

そんな彼女に腹が立った光君が、自分に会おうとしない理由は、朝顔の姫君の容色が衰えたからではないかという趣旨の歌を送る。

そんな嫌味にも挑発にも乗らず、彼女は「あるかなきかに色あせた朝顔」が自分であると認めるような歌を返す。

「あるかなきかに色あせた朝顔」とは、いかにも妙齢の女性にぴったりの表現だ。
こういう歌を返せるだけの知性と客観性がこの姫にはあったのだろう。

一方で、光君は夢で、死んだ藤壺が、自分との関係が世に漏れてつらい思いをして、苦しくてたまらないと訴える夢をみる。

息を引き取った女は、はじめて契りを交わした男に背負われて三途の川を渡るという。
彼女を弔うお経を唱えながら、光君はなぜか、自分は藤壺を背負いもできないだろうと思う。

「少女」は、光君と葵の上の息子である夕霧をめぐる話だ。
光君は、なぜか、自分の息子にいちはやく高い位を与えようとせず、六j位という低い階級を与え、大学寮で学問させる。その理由が、

世の栄華に慣れていい気になってしまうと、学問もしなくなる。時勢が移り、運勢が下降してきた際は、人に軽んじられ馬鹿にされるようになったとき、学問という基礎があってこそ、実務の才「大和魂」も世間に確実に認められる

というもの。
まるで、光君がやっている生き方とは正反対の生き方を強いるあたり、自分はテレビを見ながら「勉強しろ」という親と同じかもしれない。
I
この夕霧、幼なじみの姫君 雲居の雁(内大臣 頭中将の次女)と恋仲になるのだが、冷泉帝の妃選びで光君に後れをとったこともあり、内大臣は、二人を引き離しにかかる。
夕霧は、低い官位のため、雲居の雁の傍の女房達にも嫌味を言われ、親父の光君のような積極的な行動がとれない。

ただ、夕霧は、さすがに光君の息子らしく、そんなことにもめげず、五節の舞姫の踊りの際に見初めた惟光の娘に手紙を送る。

一方、光君は、六条京極に新邸 六条院を造営し、自分の想い女たちを一か所に集合させる。春をテーマにした東南の町に紫の上を、夏をテーマにした東北の町には花散里を、秋をテーマにした西南の町には梅壺中宮(六条御息所の娘)を、冬をテーマにした西北の町には大堰の方(明石の方)を住まわせた。

以上で、ようやく、上巻を読み終えたが、源氏物語五十四帖のうち、まだ二十一帖しか読み終えていない。



2018年11月5日月曜日

松風・薄雲/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

いよいよ、中巻が発売されたため、残りの章を慌てて読む。

「松風」は、光君が明石に流されていたときに関係を持った明石の御方が、光君の誘いもあり、京の都に移り住むことになるが、他の姫との出自との違いに悩み、父親の入道が、昔領地であった大堰の家を修理し、娘である御方を住まわせることにする。

明石と京の距離は、この時代はやはり遠かったのだろう。
父親の入道は、生涯の別れのような言葉を口にする。

しかし、大堰の家を訪れた光君は、明石の御方の成熟した美しさに感じ入りながらも、その姫の可愛らしさに心ひかれる。

そして、大堰の家に通うことをこころよく思っていない紫の上に対して、明石の御方の姫を引き取るので、あなたが姫を育ててほしいと頼む。

一見、紫の上の機嫌取りのようにも思えるが、姫を日の当たる場で育ててあげたいという親心も感じる。

「薄雲」では、明石の御方の姫をいよいよ光君の住む屋敷に引き取る一方、藤壺の宮が病に臥せり、亡くなってしまう。
彼女は、光君との関係をついに外部に漏らさなかったと思われたが、彼女のかかりつけの僧に対しては、冷泉帝を身籠ったときと、光君が明石に追放になったときに、祈願のために僧に真実を説明していた。

その僧は黙っていればいいものを、よりによって冷泉帝その人に話してしまう。
冷泉帝はひどく動揺し、悩んだ挙句、光君に帝の地位を譲渡したいと相談し、光君はそれは絶対に受けられないと辞退するが、誰が漏らしたのかが気になる。

このやり取りの後、冷泉帝に嫁いだ六条御息所の娘斎宮女御と光君が対話する場面があるのだが、驚いたことに、光君はその女御に対して、思いを交わしたいと口説いてしまう。
(自分の息子の嫁だというのに)

斎宮女御は、母親同様、しっかりした娘らしく、その申し出を断るのだが、藤壺の宮との事でも懲りない光君のタブー超えの病が垣間見える。




2018年11月4日日曜日

J・ハバクク・ジェフスンの遺書・あの四角い小箱/コナン・ドイル

「J・ハバクク・ジェフスンの遺書」は、乗員乗客十四名を乗せて、アメリカのボストンを出航し、ポルトガルのリスボンに向かっていたマリー・セレスト号が、1か月後、無人の状態で海洋を漂っていたところを発見される。

一体、船で何が起きたのか?
その事実を乗客の一人で、唯一の生存者であった結核症専門医ジェフスン博士が告白するという物語だ。

船では、船長の妻と子供が行方不明になり、次いで気落ちした船長がピストル自殺する事件が立て続けに起きる。それらは事故・自殺と思われていたのだが、実は...

まだ船が主要交通の手段であった時代の白人たちは、この物語を読んで戦慄が走ったことだと思う。

冒頭、ジェフスン博士が黒人の老婆からもらった黒い石の正体が、物語後半で明らかになる。

「あの四角い小箱」は、同じくアメリカのボストンを出航しヨーロッパへと向かう遠洋航路の蒸気船に乗り込んだ文筆を稼業とする神経質な主人公が、引き金がある謎の小箱を持ち込み、不審な計画を話し合う二人組の男らを見つけ、彼らが船の爆破をたくらんでいるのではないかと疑う物語だ。

偶然乗り合わせていた主人公の友人は、過去に主人公が幽霊を見たと大騒ぎした事件(真相は主人公が鏡に映っていただけ)を取り上げ、主人公の話を全く真剣に受け取らない。

それでも執念深く、不審な二人組を監視していた主人公は、ついに小箱の引き金を引こうとする二人組を見つけ、制止しようとするのだが、実は...という物語だ。

この二つの物語、とてもバランスよく配置されている。
いずれも映画化されていても、おかしくないような作品だ。

2018年11月3日土曜日

文学部唯野教授の虚構理論/筒井康隆

文学部唯野教授」の最後のほうで、唯野教授が語っていた文学理論「虚構理論」について語った内容が文藝別冊に載っていた。

筒井康隆は、「虚構理論」を「読者の側から小説に対して感情移入した感情移入論による文学史」と説明している。

1.自然主義的リアリズム・私小説的リアリズム
 田山花袋の「蒲団」に代表される日本の自然主義文学に否定的なところは、ほぼ、丸谷才一と同じ主張のように思ったが、フランスでは、遺伝や社会環境といった因果律の中で人間の本質を見出そうとするものだったという真面目な説が紹介されていて、なるほどと思った。
 「私小説の主人公のキャラクターはドラマに優先しているという点で、現代のライトノベルというジャンルに特徴的な、キャラクター小説の要素にまで繋がっている」という指摘は鋭い。

2.映画的リアリズム
 今日、「映画の影響を受けていない小説を探すのは難しい」と言い切っており、筒井康隆自身のドタバタスラップスティックも、その影響を受けていると分析している。
 小説の文章を読みながら、映画のシーンのようなイメージを頭に描いたりすることは確かに多いので、映画というツールは小説の補完的な役割も果たしているのかもしれない。
 
3.漫画的リアリズム
 漫画について「実在の人物なり動物をデフォルメした記号だとされてきたが、デフォルメした記号である人物にさえ、たとえば性欲を覚えたりする。それは記号でありながら身体性を持っているということです」という説明が興味深い。
 漫画にこの身体性に加え、文学性を持ってきた最初の人が手塚治虫だったという指摘もうなずける。

4.アニメ的リアリズム
 アニメで生まれた「おたく」や「萌え」が、次第にライトノベルのほうに流れていっていると説明している。
 「ライトノベルとは、物語というよりはキャラクターの媒体です。キャラクターを立てることによって商品化されたり、二次使用のマーケットが広がっていくわけです」という分析が鋭い。

 この講演の最後、筒井康隆は、皆にライトノベルを書くようにせがまれて困っているというような態度で締めくくっているが、本当のところは、どうだったのだろう。

 実際、筒井康隆はこの1年後にライトノベル「ビアンカ・オーバースタディ」を書いているが、実は、彼が1970年代に書き終えていた「七瀬三部作」(特に七瀬ふたたび)も、”キャラクター”が立っているという点から言えば、ライトノベルの先駆的な作品だったのかもしれない。

冒頭の「感情移入」という言葉に引っかかっていたのですが、この「虚構理論」、なにげに説明されているが、どうも、ハイデガーの哲学理論と関係しているみたいですね。

2018年10月29日月曜日

たる工場の怪・ジェランドの航海/コナン・ドイル

「たる工場の怪」は、蝶の採集のため、アフリカ辺りを航海していた船の船長が、水の補給のために立ち寄った島の交易所で経験した怪事件だ。

船長は、現地でたる工場を経営している交易所の支配人から、工場で立て続けに起きているの怪事件を聞く。

それは、たるのたがが盗まれないようにと警備をしていた夜警が二人とも行方不明になってしまったという事件だ。暴行の跡や血痕、島から出て行った形跡も見られない。

船長は、支配人から工場で寝ずの番をしてほしいと頼まれ、嵐の夜に耐えて監視を続けたが、工場では何事もなく夜が明ける。

しかし、熱病のためアヘンを飲んで寝込んでいた支配人の同僚が住家で肋骨を粉々に砕かれ、変死していたことが分かる。

泡を食った二人は船長の船に逃げ込むが、その海の上で偶然、怪事件を引き起こしていた原因を発見する...という物語だ。

物語自体は、それほどの恐怖や意外性はない。むしろ、アフリカの現地人の会話を、
「お世話申しましゅ」とか「できましぇん」と訳していることに驚いた。

*原文を見るとnegroと差別的な単語があったので、馬鹿にしたような言葉遣いにしたのだろうが、それにしても...という感じ。

「ジェランドの航海」は、日本の横浜を舞台にした作品だ。
大きな輸出商の一番番頭だったジェランドと同じく番頭のマキヴォイは、博打で負けがこみ、一文無しになり、小切手を振り出し、事務所の金を流用してしまう。
帳簿監査までの間に巻き返して穴埋めするつもりだったが、予想外に早く帳簿の監査が実施されることになってしまう。

腹をくくった二人は、事務所の金を持ち出し、缶詰が詰め込まれた船を購入し、夜逃げする。

しかし、海は凪の状態で遅々として進まない。そのうち、追手が二人に気づき、船を追いかける。絶望した二人は銃で自殺を図るが、その時...という物語だ。

作者としては、二人の死体を乗せた船が大海原を漂う謎を描きたかったのだろうが、多少無理があるなと思った。そんなに都合よく風が吹き出すのかとか、なぜ銃で応戦しなかったのかなど。

それと日本が舞台となっているが、「この地震国ではすべての家屋をがんじょうには作らない習慣だった」という記述ぐらいで、舞台が日本でなければならない事情はあまり見受けられない。ただイギリスの帝国主義の雰囲気はなんとなく感じる。

2018年10月28日日曜日

エディプスの恋人/筒井康隆

本作では、火田七瀬は地方の進学高校の教務課で働いている。
そして、その高校で、一人だけ異質な精神構造をした不思議な「意志」の力で守られている男子生徒を見つける。

野球のボールが彼にぶつかりそうになれば、寸前でボールがさく裂し、
彼を殴ろうとした同級生は空のプールに突き落とされる。

彼が念動力を持っているわけではなく、何かの「意志」が彼を傷つけようとする者から守っているのだ。

興味を持った七瀬は、彼の謎を探るため、画家である彼の父親の絵画展に行ったり、その故郷まで訪れ、不思議な「意志」の力の発現が彼が子供だった頃に起きた母親の失踪と関係していることに気づく。

そして、突然、彼と激しい両想いの恋に落ちる。
付き合い始めた二人の関係を邪魔する男たちは「意志」の力によって酷い目にあわされ、存在すら消されてしまう。

彼を守る「意志」の力とは何なのか?
七瀬は、彼の父親と会い、その真相について知らされる。
それは、神の存在に近い「宇宙意志」の存在だった...

「意志」の望みに従うことで、「宇宙意志」の意識さえ体験した七瀬だったが、自分の生きる世界に現実感を失くしていく。

しかし、「意志」が七瀬に現実感を与えようと、彼女が失っていた超能力者の仲間たちとの記憶をよみがえらせたことで、七瀬は本来の自分に覚醒する。
彼女のクールな知性は、「意志」が用意した超能力者の仲間たちとの再会の矛盾を、そして、自分の存在すら現実のものでない可能性があることを見破ってしまう。
その知性は、まぎれもなく前作「七瀬ふたたび」で見えない組織と戦っていた頃の彼女の姿だ。

七瀬は「意志」の言いなりになって、現実味のない生き方を強いられるくらいなら、この物語「エディプスの恋人」を早く終わらせてしまおうと自ら決断してしまう。
こんな物語の終わり方は聞いたことがない。

作者が愛した気丈な女性は、作者の言いなりにすらならなかった。

2018年10月26日金曜日

家族八景/筒井康隆

火田七瀬が主人公の最初の作品。

この物語は、タイトルの通り、七瀬が「お手伝いさん」として八つの異なる家族の家に住み込み、そのテレパスの能力から、各家族の裏事情(それはどちらかというとネガティブな感情の集積といってもいいかもしれない)を読み取り、ある時はその家族に敬遠され、ある時はわが身に迫る危機を脱するためにその家を立ち去るまでの物語だ。

この小説を読むと、確かに“家”というのは、ある意味、閉ざされた密室のようなものだと思う。
第二話「澱の呪縛」の家の中に籠る異臭などは、まさにその好例だ。
自分たちでは全く気づかないが、ある日、他者である七瀬が家に侵入することで、この家の人々は、それまでの自分たちの不潔さに気づいてしまう。

あるいは第八話「亡母渇仰」で母の死に泣き叫ぶ幼児と化した二十七歳の男は、告別式で会葬者に目撃されることにより、その異常性があらわになる。

それと意外なのは、火田七瀬が最初のほうでは十八歳の痩せているだけの目立たない観察者として配置されているということ。
二作目の「七瀬ふたたび」で、地味な格好をしていても目立ってしまう美貌の女性として描かれていた七瀬とは、別人のように描かれている。

第四話の「水蜜桃」では、定年退職して暇を持て余している中年男に犯されそうになるが、この時の七瀬は、十九歳の肌は瑞々しくても痩せすぎの女性でしかない。

それが、第七話の「日曜画家」で、突然、七瀬の印象が変わる。
少し以前から七瀬は、最近急に女らしくなってきた自分のからだつきに、いくらかの危険を感じはじめていた。男たちの眼をひきつけるに充分な美貌を自分が備えはじめていることも、ぼんやりと自覚していた。
この変化はなぜ起きたのだろうと、興味深いものがある。
物語の積み重ねとともに、作者自身の中で七瀬の存在が大きくなり、もっと書いてみたいと思うキャラクターに育ったからかもしれない。

その転機は、第五話の「紅蓮菩薩」で住み込んだ家の心理学の教授が彼女の超能力を探り出そうとした際に、巧みに切り抜けた彼女の意外な強さによって訪れたのかもしれない。

あるいは、第六話「芝生は緑」の二組の中年夫婦の浮気心と激しい情欲に当てられっぱなしだった七瀬を、もっと魅力的な女性にしたいという作者の願いだったのかもしれない。

1972年の作品だが、今読んでも面白い作品だと思う。

2018年10月23日火曜日

縞のある衣類箱・ポールスター号船長/コナン・ドイル

「縞のある衣類箱」は、濃霧に包まれた海で一隻の漂流船を見つけた船長とクルーが遭遇した奇譚だ。

その漂流船には大きな衣類箱と後頭部を斧のような鈍器で潰された死体だけが乗っていた。
残されていた航海日誌には、この箱が宝物箱であること、そして取り扱いに注意すべきことが書かれていていた。

船長とクルーは、唯一価値のあると思われる衣類箱を自分たちの船のキャビンに積み替えたが、その日の夜明け前、キャビンから人の叫び声が聞こえた。船長が行くと、箱の横に、この箱に強い興味を抱いていた一等航海士が倒れており、頭から血が滴っていた...という物語だ。

まるで、インディジョーンズの聖櫃のような話だが、この小説はよく出来ている話だと思う。

「ポールスター号船長」は、北極海をさまよう捕鯨船に乗り込んだ医師が遭遇した奇譚だ。
航海中、船員が子供あるいは女の泣き叫ぶ声を聞いたという怪奇現象が起きる。
しかもそれだけでなく、浮氷原に背の高い白い姿の何者かがいるのを見たという証言まで出てくる。

そして、この怪奇現象は、意思が強そうな美しい肖像画を飾っていた精神的に不安定な気性の荒い船長の事件によって半ば真相?が解明する。

コナン・ドイルは心霊現象にも興味を持っていたことがわかる小説だ。
しかし、それよりも鯨油を探し求めてイギリスの船が鯨漁をしていたことのほうが興味深かった。

実際、コナン・ドイルは半年間、捕鯨船の船医となって北氷洋を船で暮らした経験があるらしい。長い航海中、誰もいないはずの白い氷の上に何者かの存在を感じることは実際にあったのかもしれない。

2018年10月22日月曜日

ヘル HELL/筒井康隆

人間、生きていれば、誰しも後ろめたい過去は心当たりがあるはずだ。
自覚しているものもあれば、無意識のものもある。

ふとした時に自分の人生の善悪の収支を数えてみて、天国行きだと思う人がどれだけいるのだろうか?

おそらく地獄は、多くの人にとって身近な存在に違いない。

この本で描かれているヘル(地獄)は、リアリティがある。
信照、勇三、武の幼馴染の三人を中心に、三人に絡んだ人々も含めて物語は展開していく。

武は、信照と勇三との遊びの中の悪ふざけで足が跋扈になるが、部下の泉の妻とは不倫の仲だ。

信照も東京にある文化的に価値のある建物の保存運動を都庁に勤める義弟の頼みで潰した過去の罪悪感にさいなまれている。

勇三はヤクザになってしまったが、その原因はひもじい暮らしをしていた勇三を見かねた紳士 二人が勇三を地獄に連れていき、御馳走を食べさせようとするが、行儀の悪さに気を悪くし、折檻してしまったことが原因らしい。

ある人に対しては自分は被害者だと思っていても、ある人に対しては加害者になってしまう相対的な関係。

地獄では、自分に過去に(悪い方面で)関係した人が立ち現れるが、何をしたかは目を凝らせが自動的に浮かんでくる。
自分の上司が自分の妻とSEXをしている情景も浮かんでくるし、その当事者の意識になることすらできる。

ただ、それで嫉妬心や憎しみを持つ訳でもない。自分の思念に浮かんだ過去の情景にある人々の姿や思いをみるだけだ。

この一見地獄らしくない地獄めぐりは、我々が日々、色々な出来事に反応して頭の中に思い描いている妄想の世界に近いものがあるのかもしれない。


2018年10月21日日曜日

悪夢の部屋・五十年後/コナン・ドイル

「悪夢の部屋」は、美しい妻に対して贅沢を許し、愛情を注いできた夫が、その妻に毒殺されそうになっており、夫は妻のたくらみを問いただすのだが、そこから、妻が別に愛している男が判明し、その男が登場するという三角関係を描いている。
しかし、まるでジョークのように、この物語は唐突に終わる。
コナン・ドイルらしくない、ある意味、雑ともいえるこの作品は、彼の珍品ともいえるものかもしれない。

「五十年後」は、ある資本家が思い付きで実行した漆喰塗りの工場設立が原因で、競合する工場に勤めいていたジョン・ハックスフォードが職を失い、愛する娘メアリーをイギリスに残し、カナダに旅立ち、職を求めるのだが、カナダで犯罪に巻き込まれ、記憶喪失になってしまうという物語だ。ジョンは記憶をなくしたままカナダの工場で働き続ける。
しかし、頭も白髪になったジョンが偶然イギリスの地元の水夫たちの方言に心惹かれ、話を聞くうちに失われた記憶を取り戻す。
彼は、ためらわずイギリスへの汽船に乗り込むが、すでに五十年の月日が経っていた。果たして、メアリーは...という物語だ。

これもコナン・ドイルの持つ道徳観がにじみでているような作品だ。
人の強固な意思は非情な運命さえ乗り越えられるというような。

2018年10月20日土曜日

膚黒医師・ユダヤの胸牌/コナン・ドイル

「膚黒医師」 英語ではBlack Doctorとそのまま読むと、黒人の医師の話かと思うが、この物語では、インディアンの系統にありながら、容貌はヨーロッパ人的というイギリスの小さな村では目立つ風貌のラナ医師の話だ。

外科医としても内科医としても有能なラナ医師は独身で、大地主の娘と恋仲になり、婚約するが、海外から届いた一通の手紙を受け取った後、突然婚約を破棄する。そして、その数日後、ラナ医師は自宅で謎の死を遂げる。

真っ先に疑われ、容疑者となったのは婚約を破棄された娘の兄だったが、その兄の裁判で、娘は死んだはずのラナ医師が生きていることを告白する。

「ユダヤの胸牌」 胸牌というと、胸のプレートという意味もあるが、ここでは甲冑の胸当てのことである。博物館長に就任したばかりのモーティマーに、博物館の夜の見張りが一人しかおらず、盗難に遭わないよう警備を強化すべきだという謎の手紙が届く。しかも、その手紙の筆跡は、彼の前任者であり、ヨーロッパでも高名なアンドリーアス教授のものだった。

そして、その手紙の警告通り、何者かが博物館内に立ち入り、胸牌に埋め込まれた宝石を取ろうとしていた形跡が見つかる。しかし、宝石は盗まれず、残ったまま。そして、翌日も、別の列の宝石が取られようとしていた形跡が見つかるが、これも残ったまま。
モーティマーたちは博物館で寝ずの番をし、ついに胸牌の宝石に手をかける犯人を目撃する。その姿はアンドリーアス教授その人だった。

いずれも、高い身分にある職業人が関わる事件だが、凶悪性はなく、やむ得ない事情により犯罪めいた行為をしてしまう物語だ。
登場人物も下品な人物は誰一人おらず、紳士、淑女しかいない映画のような世界。




2018年10月16日火曜日

熊野川

自分にとって和歌山県というのは、全く空白の土地だった。
大阪、奈良、三重の下にあるこの県を訪れてみたくなったのは、やはり、中上健次の熊野集を読んだせいだと思う。

世界遺産の熊野神社の一つである熊野本宮大社は、紀伊半島下部の真ん中に位置していて、大阪から阪和自動車道で南紀田辺で降りても、三重から紀勢自動車道で尾鷲北で降りても、ましてや奈良から下っても、ずっと普通道路の曲がりくねった山道で真ん中に向かって走らなければ辿り着けない。

このアクセスの悪さのせいだろうか、道中、観光地化されていない雰囲気をところどころに感じた。

一番、印象に残ったのが熊野川だ。
熊野本宮大社に向かって走る道路沿いに、くすんだ水色の熊野川がずっと視界に入ってくる。
不思議に思うくらい、人影が少ない。
釣り人はたまに現れるくらいで、バーベキューなどしている人は皆無。

そして、熊野本宮大社の旧社地 大斎原大鳥居に行くと、より川の存在が迫ってくる。
神社も無い巨大な鳥居だけが建っているこの抜け殻のような土地のすぐ真横には、熊野川が流れている。

堤防も柵もない地面と同じ高さで流れている川。
人が運んだとは思えない様々な形をした自然の石ころが転がっている川洲を歩いていくと、静かに音もなくくすんだ水色の川が流れている。
普通、川の横にはススキなどの植物が生い茂っているが、この川にはない。
まるで、神社の境内の玉石のように石ころに囲まれている。
そのせいか、この川自体にどこか神聖な雰囲気がある。

明治二十二年の大洪水前まで、熊野本宮大社の社地は、熊野川の中州にあったというが、それがこの神社の本来の形なのかもしれない。




2018年10月13日土曜日

七瀬ふたたび/筒井康隆

この作品は、とても興味深く読んだ。作者特有のパロディ、ブラックユーモア気質が見られず、シリアスな仕上がりになっているからだ。

最初の「邂逅」で、テレパスの七瀬が雨の山間部を走る電車の車両の中で、三歳児のテレパシスト トシオと、予知能力者 恒夫と出会う話。

今にも脱線しそうなあぶなかっしい電車の中で、七瀬の超能力によって、あからさまになる乗客の厭らしい思惑や、テレパシスト同士の言葉を介さないコミュニケーションの様子が、括弧を応用した文章の構成で生き生きと描かれている。

「邪悪の視線」では、高級バーでホステスとして働く七瀬が、透視能力を持つ邪悪な男と対決し、危ういところをテレキネシスを持つ黒人のヘンリーに助けられる話だが、これもバーのホステスたちの敵意が見え隠れする関係、客の厭らしさ、透視能力を卑劣な悪事に使う男の欲望が生々しく描かれている。

「七瀬 時をのぼる」は、七瀬が、トシオとヘンリーとともに北海道に行こうとするフェリーの中で、タイムトラベラーの藤子と出会い、殺人事件に巻き込まれたことで彼らの超能力が気づかれそうになった危機を、藤子に救われるという話。

ここまで登場した超能力者たちが、「ヘニーデ姫」「七瀬 森を走る」の章で、警察を巻き込んだ超能力者狩りの組織から命を狙われることになる。
この組織については物語中、何も説明されていないことと、超能力者たちの能力を無力化できる力を持っていることが示唆されていて不気味な印象がある。

物語の最後は悲劇的だが、七瀬はとても魅力的なキャラクターなので、これ以外の小説を探したら、この小説がちょうど真ん中の「七瀬三部作」であったことにようやく気づく。

特に最初の「家族八景」を読んでいなくても、この小説からはじめて問題ないと思う。



2018年10月11日木曜日

時計だらけの男・漆器の箱/コナン・ドイル

「時計だらけの男」は、列車で起きた殺人事件を描いたミステリだ。
喫煙車両に乗った赤ら顔の男とその隣の客車に乗った背の高い男と、連れのこれまた背の高い女性。

駅に着いたところで、駅員がこの3人の乗客が消えうせた事に気づく。
そして、その代わりに見慣れない若い男が胸をピストルで撃ちぬかれ、死んでいることに気づく。

「消えた臨急」同様、この作品でも、名のある犯罪研究家による推理が新聞へ投稿されるのだが、その推理に対して上記3人のうちの一人がリスペクトするような返信を犯罪研究家に送り、真実が明らかになる。

この説明のなかで、ひときわ印象的なのが、カード使いのいかさま師 スパロー・マッコイの名前である。いかにも悪党らしい豪胆な名前のイメージがあるが、物語の中では実はそう悪い人間ではないのではないかという一面を見せる。

本当の悪人などいないという結末。読んでいて決していやな気持にならない。

「漆器の箱」は、妻を亡くし、孤独で容易に人を寄せ付けない貴族の家に住み込み、家庭教師を務めていた私が知った主人の秘密についての話。それは主人が宿泊先にも持っていくという黒い漆器の箱の中にあるらしいのだが。

当時の工業製品の普及状況がわかる作品だ。
そして、ここでも、本当の悪人は登場せず、むしろ隠れた美談を聞いたような気分になる。
漆器の箱が、英語ではThe Japanned Boxと表記されているのが面白い。



2018年10月10日水曜日

日本以外全部沈没/筒井康隆

これは、もちろん小松左京の「日本沈没」のパロディ小説だ。

地球温暖化で北極と南極の氷が溶け、ほとんどの陸地が水没する一方、大洋底マントルと大陸底マントルの交差点で押し上げられた日本列島だけが海の真ん中で陸地を確保している。

新聞記者の溜まり場だった飲み屋にも著名な外国人の政治家が顔を出し、パーティーや客引きに有名な外国人の女優が顔を見せる。

出てくる名前が古いが、今風に置き換えて読むことが可能だと思う。

シナトラ → トニー・ベネット
ポンピドー → マクロン
毛沢東 → 習近平
蒋介石 → 蔡英文
グレース公妃 → キャサリン妃
ニクソン → トランプ
金日成 → 金正恩
ブレジネフ → プーチン
エリザベス・テイラー → ミラ・ジョヴォヴィッチ
オードリー・ヘップバーン → ナタリー・ポートマン
クラウディア・カルディナーレ → エマ・ストーン
ソフィア・ローレン → ジェニファー・ローレンス

特に、地球温暖化とか、日本国に入国を許された外国人のうち3年経っても馴染めぬ者は国外追放だとか、ニクソンが「黒人を一人も船に乗せなかったのはお手柄だ」と言ったりするあたりは、今の世界状況に置き換えてみても違和感がないのが、ある意味怖い。


2018年10月9日火曜日

小説「私小説」/筒井康隆

この作品は、とても、よくできたパロディだと思う。

主人公の能勢灸太郎は、赤河馬派(アカカバハ)の巨匠で、私小説の大家である。
文芸時評で若い作家の作品に嘘があると評したことがきっかけで、若手の作家たちから、灸太郎の書く私小説がネタ切れで全く面白みがないものだと逆に批評されてしまう。

(補足:私小説とは、作家の実体験を事実そのままに書く作風のことで、明治以降の日本文学の主流となりました。上記の赤河馬派はもちろん白樺派のもじりです)

そんな中、新しい小説の依頼を受けた灸太郎は、浮気を経験して、それを基に小説を書くことを思いつく。
しかも、住み込みの若い女中を手籠めにしてしまうという方法で。

ここからは読んでのお楽しみだが、「私小説」とはいえ、必ずしも事実そのものを描くものではいということが、灸太郎の真面目くさった文章と、実際に起こった事実との対比で描写される“手籠め”のシーンで明らかになる。

しかし、極めつけは、灸太郎に全く逆らわない無口な妻の最後の一撃だろう。

「私小説」を批判する批評(吉田健一、丸谷才一など)はよく目にするが、「私小説」そのものを小説の中で取り上げ、その作家まで含めて、からかい倒すという作品は珍しいと思う。

2018年10月8日月曜日

消えた臨急・甲虫採集家/コナン・ドイル

「消えた臨急」は、小柄な中年男の依頼でリヴァプール駅を出発した臨時列車が、乗客2名、火夫1名、機関士1名、車掌1名を乗せたまま、線路上で消失してしまう事件。
この当時、お金さえ出せば、臨時で列車を走らせることも出来たというのが、まず面白い。

まるで、ホームズを思わせる町で著名な推理家の推理を紹介されたり、消えた列車の車掌が妻に宛てた手紙が紹介されるが、どれも直ちには真実に結びつかない。

やがて、別の殺人事件で逮捕されたフランス人の男の告白で、事件の真相が明るみになるのだが、パリの政治情勢などを巧みに織り込み、スキのない堅牢な推理小説になっている。
自分の能力と犯罪に絶大な自信を持っている犯人も、ホームズの変形キャラと言っていいだろう。

「甲虫採集家」は、医師で、身体強健、精神堅固、決断力旺盛にして、かつ昆虫学者特にカブトムシ学者なら可 という奇妙な求人広告に、金に困った医師が申込み、経験した奇妙な事件。

彼を雇った貴族らしい中年男は、特に理由を説明しないが、中年男の妹と思われる顔に傷を負った女性の夫のもとに連れていかれることがわかる。そして、その夫は有名なカブト虫の研究家だった...という話だ。

奇妙ではあるが、結末もほのぼのとしていて、「赤毛組合」を書いたコナン・ドイルらしい作品。




2018年10月7日日曜日

ビアンカ・オーバースタディ/筒井康隆

筒井康隆が書いたライトノベル。SF学園もの?である。
でも、さすがというか、過激な内容になっている。

美少女のビアンカは、生物研究部の部員で、ウニを使った生殖の研究にのめり込んでいたが、それにあきたらず、自分を恋い慕っている後輩の男子生徒の塩崎の精子を採取し、観察を始める。

そして、別の男子の精子をと触手を伸ばした生物研究部の先輩部員が、実は未来から来たことがわかる。彼の世界では食用家畜として生物を巨大化させる実験が行われていたが、体長50センチに成長したカマキリが逃げ出し、群れになって人間社会を脅かしていた。その巨大カマキリを退治するため、ビアンカは、未来のDNA技術を用いて、人の精子をカエルへ授精し、カエル人間を作り出すことを思いつく。

タイムトラベル、多元宇宙というSFお決まりの話も出てくる一方、剃刀で切り取ったヤクザの陰嚢を新聞紙で包んでくる生物研究部の部室に来る美少女が表紙にあるような可愛いイラスト入りで描かれているのが、こわい。

しかし、総じていえば、ちょっとしたビジュアルと肉体的な刺激で精子を搾り取られる男子生徒は弱弱しく、勢いのない精子しか作り出すことが出来ない男たちがいる未来社会は、現代よりはるかに衰弱したイメージで描かれており、ビアンカに代表される女性たちにこれからの時代がかかっているような雰囲気が印象的だった。

今の男子の草食ぶりと、反原発から原発への揺り戻し、結局、地球温暖化は止められなかった人類の行く末に対する皮肉めいた作者の思いが、このライトノベルから透けて見える。




2018年9月24日月曜日

佇むひと/筒井康隆

ビタミンAからZまでのエピソードをインデックス形式で並べた「ビタミン」や、情報が伝聞されていくうちにデマに代わっていくプロセスを描いた「デマ」など、実験的な内容の短編小説より、「佇むひと」のような作品のほうが個人的には好きだ。

人や犬や猫が地面に植えられた植物のような存在に変えられてしまう物語。犬や猫は食糧不足や緑化のために「犬柱」、「猫柱」にされ、社会に批判的な言動を行う人間は「人柱」にされてしまう。作家である主人公の妻も政府を批判する言動を他人に密告され、金物屋の道路ぎわに植えられてしまう。

徐々に人間らしさを失くし、植物に変わっていく妻を諦められない主人公。
言論統制、全体主義的な社会を批判している作品にも思える。

それにしても、筒井康隆は、夫婦(相思相愛の男女)の愛情関係を描くのがうまい。


2018年9月22日土曜日

万引き家族/是枝裕和

樹木希林が死んだせいもあったのだろうか、普段なら絶対に見ないであろう映画「万引き家族」を見た。

この映画に出ている俳優の魅力が溢れんばかりに伝わってくる作品だと思う。

樹木希林演じる祖母役の年寄り独特のずるさとやさしさ。
リリー・フランキー演じる父親役のだらしないやさしさ。
安藤サクラ演じる母親役の色っぽさとやさしさ。
子役もすばらしかったと思う(特に虐待されてこの家族に保護された女の子)。

小栗康平の「泥の河」と似たタッチを感じた。

個人的に不満だったのは、安藤サクラ演じる母親が、現実の壁にぶち当たり、この”偽家族”の終わりを宣言してしまったことだ。

たとえ嘘でもいいから、”偽家族”の復活を誓うべきだったのでは、もったいない...と思ってしまったのは、この不思議なやさしさに満ちた”偽家族”に魅せられたからかもしれない。


2018年9月21日金曜日

フェミニズム殺人事件/筒井康隆

今、この題名を読んで時代を感じるのは、やはり「フェミニズム」という言葉だろう。

今の潮流で言うと、耳につくのは「ジェンダー」「ジェンダーフリー」であって、「フェミニズム」という言葉は、少なくとも公の場では滅多に聞かなくなった。

女性への性差別の解放から、男女の性差別の解放に範囲が拡大されたということなのだろうか。

しかし、この作品は、1989年の作品なのだから、その違和感はしかたがない...と思いつつ、その「フェミニズム」という言葉にすら、名前負けしている感が否めない。

主人公の小説家 石坂が自分の小説のあらすじのなかで、文芸批評としてのフェミニズムを会員制ホテルに泊まったセレブ系の人々に話すところまでは、まだいいとしても、以降の殺人事件をめぐる物語は、はっきり言って、火サスの世界である。フェミニズムを主張する気の強い美女は出てくるが、タイトルにするほどの重みを感じない。

否定的な見解が続くが、推理小説としても難があるのを感じる。被害者がどんどん増えていくのは面白いが、犯人が誰かもわからないのに、事件に巻き込まれた当事者たちが宿泊を続けることや、犯人が三人もの宿泊客を殺すリスクが私には正直ピンとこなかった。


2018年9月19日水曜日

最高級有機質肥料・腸はどこへいった/筒井康隆

どちらも読むのは覚悟がいる短編かもしれない。
人間の排泄物についての物語だからだ。

「最高級有機質肥料」は、ミトラヴァルナという惑星に大使として赴任した男の悲劇だ。
彼の前任の大使は皆、栄養失調かつ自閉症になって地球に戻っていたが原因が分からない。それでも、男は、行けば上役の美しい娘と付き合える特典に目がくらみ、惑星に赴き、植物から進化したミトラヴァルナ人の首相や大臣たちに豪奢な料理で歓待される。
腹一杯になり、なぜ前任者が栄養失調になったのか不可解に思う男に、首相が目を輝かせて会いに来るのだが…という物語だ。

結局、男も自閉症になってしまうのだが、彼の偉いところは、子孫たちに対して、人間の排泄物を「汚物」として教え込まないほうがよいという提言を報告書にまとめるところだ。しかし、上役の美しい娘に対して何も感じなくなってしまうという悲劇が妙に共感できる。

「腸はどこへいった」も、奇妙な話だ。トイレに入って英単語を覚えることが得意な男が、英単語に気を取られているうちに、自分が3ヶ月もの間、大便を全くしていない事実に気づく。にも関わらず、男の健康状態は至って良好。

原因は彼が腸捻転を患った時に、外科医のおじが施した手術にあることが分かる。それは、メビウスの輪のように彼の腸が別の宇宙につながってしまっていたのだ。男はおじに腸を元どおりに戻すことを頼み、その願いは実現するのだが別の宇宙に隠れていた彼の大便が…という物語だ。

清潔好きで気の弱い方は読まないことをお勧めする。
夢でうなされるかもしれない。






2018年9月16日日曜日

カメロイド文部省・火星のツァラトゥストラ/筒井康隆

どちらも、地球で書かれた小説を地球外の惑星で盗作することを仕事とする男たちの話だ。筒井康隆のパロディ気質が遺憾なく発揮されていて楽しい。

「カメロイド文部省」は、小説を書くことを請われた主人公が、宇宙の僻地 カメロイド星に妻とともに赴き、地球では名作といわれる小説「レ・ミゼラブル」「罪と罰」「チャタレイ夫人の恋人」の盗作を書こうとする物語だ。
しかし、カメロイド星には、日本の文科省の役人のような通俗的道徳感に支配されている同星の文部省の役人がいて、物語の内容(悪人、殺人、不倫)が社会に好ましくないことを理由に、執筆を拒否されてしまう。
カメロイド星の悪口を書かれることを恐れ、主人公と妻を閉じ込めようとする役人たちから逃れようとする二人(というか妻がすごい)の脱出方法が笑える。

「火星のツァラトゥストラ」は、火星の植民地で、古典文献学教授 カン・トミヅカ氏(どこかで聞いた名前)がニーチェの「ツァラトゥストラ」を「誰にでも分かる哲学」風に軽い文章で翻訳し、流行らせるという物語だ。
さらに偶然見つけた「ツァラトゥストラ」風の男をアイコンに使い、「ツァラトゥストラ」をさまざまな手法により商業的に徹底して使い倒す手法は、まるで80年から90年代の日本の社会を風刺しているようにも思える。
しかし、この作品1966年に書かれているところが実はすごいことなのかもしれない。


2018年9月15日土曜日

たそがれてゆく子さん/伊藤比呂美

出だしから、惹きつけられて買ってしまった。
なぜか知らないが、最初、小説だと思ったのだ。
ご無沙汰してました。ご無沙汰していた間、ずんずん老いていきました。つい先日には六十歳になりまして。肉体はたるみ、顔も首も皺だらけ。吊り目だった目は垂れ目になり、生え際は全部白い。
この老いに対する容赦のない描写。この後もっと続くのだが、自分の老いをここまでさらけ出してリアルに書ける人は、そうはいない。

詩人でもある伊藤比呂美さんのエッセイ。

ほとんどが、老い、介護、死、孤独に関する話なのだが、読んでいて不思議に元気をもらった気分になるのは、この人の持つパワーが伝わってくるせいだろう。
(だいたい、六十近くの人がズンバを踊るなんて初めて聞いた)


2018年9月10日月曜日

青の洞窟の怪・ブラジル猫/コナン・ドイル

「青の洞窟の怪」は、肺結核で死んだ医師が残した手記に、治療のために訪れた高原の農場で、ローマ人が掘ったといわれるムラサキホタル石が採掘できる洞窟の噂を聞く。その洞窟の周りでは、真っ暗な晩に羊が姿を消し、洞穴に血がついた羊毛のかたまりがみつかっているという不気味な話だった。

好奇心が強い主人公は洞窟に入り込み、奥へ奥へと進むが、誤って洞窟の中の川に落ちてしまう。濡れたマッチが乾くのを待つうちに、巨大な重量と思われる生物の足音を聞く...という物語だ。

コナン・ドイルの小説は、シャーロック・ホームズの物語でもそうだが、いかに非科学的な事を実証できるか、説明できるかどうかを、かなりしつこく描写・立証していく。まるでワトソン博士のような地味でしつこい執着心を感じる。

「ブラジル猫」は、この短編集中、最もクオリティの高い掌編と言っていいだろう。
叔父のサザートン卿の遺産の第一承継者でありながら、存命しているため貧困にあえぐ青年が、ブラジル帰りの財産家の従兄弟の邸宅に招かれる。

そこで、青年は従兄弟に厚遇されるのだが、何故か、従兄弟の細君には、ひどく嫌われる。そして、ブラジルで見つけたというトミーと名付けられた美しいけれど凶暴な黒猫を見せられる。

そして、青年が借金の工面を従兄弟にお願いした夜、従兄弟は、トミーを飼っている部屋に青年を閉じ込め、檻からトミーが放たれる...という物語だ。

肉食獣の兇暴さが、くさい獣の臭いと俊敏な動きで見事に表現しており、檻の中で青年がいかに自分の身を守るかという緊張したシーンは読みごたえがある。

青年に冷たくした細君の意外な告白と、相続の意外な結末も面白かった。






2018年9月9日日曜日

短編小説講義/筒井康隆

筒井康隆が1990年に書いた「短編小説講義」を読む。
時期としては、「文学部唯野教授」が騒がれていた時期なので、唯野教授風の軽いタッチで説明しているのかと思ったら、意外とまじめな内容だった。

今読んでも、古びた印象がなく、むしろ新鮮に感じたのは、事例として扱った短編小説のどれもが、なじみがないもので、古典といってもよい時代の作家の作品を扱っているせいだろう。
それぞれの作品の着眼点も面白い。

ディケンズ「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」
 作品冒頭の書き出しの戸惑いが、主人公が釈明に苦心している印象を与えている

ホフマン「隅の窓」
 ちょっと見ただけの人物を辛辣に批評し、そこからさまざまな想像を過激に働かせて類型や典型を造形してしまう、何を書いてもかまわない「小説」の自由さを有利に応用した例

アンブロウズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」
 「意外な結末」という拘束と「死」というテーマを貫ぬくという拘束、この二重の拘束が最も効果的に発揮された作品

マーク・トウェイン「頭突き羊の物語」
 トウェイン自身が口演していたことを想像しながら読む。また、彼の精神が後半生では、深い深いぺシミニズム、救いようのないニヒリズムに満たされていることを見落としてはならない。

ゴーリキー「二十六人の男と一人の少女」
 通常は個性の描き分けが必要とされる小説にあって、二十六人(地下のパン工場で働く男たち)を一様のものとして描いており、ゴーリキーはこの書き方によって、こうした環境の中にいる者がいつしか同じような抑しひしがれた感情を持ち、似たような視野の狭い考え方を持つにいたることを表現しようとしたのだろうが、きわめてリアリスティックな効果を齎すと同時に、手法としても新しさを持っているという結果となった。

トオマス・マン「幻滅」
 凡人の眼からは「ほんのちょっとした感覚」としか思えないものをとりあげ、その感覚にとりつかれた人物を典型として造形し、その人物の姿を借りて徹底的に突きつめ、観念の域まで至らしめたこと

サマセット・モームの短編小説観
 これだけ自覚的に自分の短編小説作法を決定し、主張した作家は珍しい。場所は一定、人物は数人、そしてある一定時間内に事件が起こり、終わる。ひとことで言うならこれは短編小説の作法というよりも一幕劇の作法なのである。

ローソン「爆弾犬」
 スラップスティック(ドタバタ・ギャグ)の定石。まず「設定」、構造主義のいわゆる「後説法」。ロシア・フォルマリズムで言う「遅延」「妨害」のテクニック。

文中からにじんでくるのは、筒井康隆が批評家としての一面を持ちつつも、それを上回る小説家的意欲がいかに大きいか、すなわち、従来の小説作法を乗り越え、新しいものを書きたいという思いが、ふつふつと伝わってくる講義集だと思う。

2018年9月6日木曜日

新しい地下墓地・サノクス令夫人/コナン・ドイル

「新しい地下墓地」は、ケネディとビュルガーというローマ遺跡を研究している二人の考古学研究者が登場人物。

ビュルガーの部屋に置いてあった珍しい蒐集品をみた友人のケネディが、新しい地下墓地をビュルガーが発見したことに気づき、その場所を教えてほしいと頼む。

ビュルガーは、地下墓地の場所を教える代わりに、奇妙なことをケネディに要求する。
それは、ケネディが起こした恋愛の醜聞の詳細を話してほしいということだった。

そして、話を聞き終わった後、ビュルガーは、真っ暗な地下墓地にビュルガーを案内するのだが...という話だ。

結末は読んでのお楽しみだが、友人同士の二人が、こんな事に気づかないことなんてあるのかと思ってしまう点が、唯一の欠点かもしれない。

「サノクス令夫人」は、外科医のダグラスと不倫関係にあるサノクス令夫人の夫 サノクス卿が、二人に復讐するという話だ。

これも読んでのお楽しみだが、サノクス卿の考えた復讐の方法はかなり怖い。

シャーロック・ホームズ シリーズでは、男女関係のもつれが犯罪に至るというありふれた事件があまりなかったということに、この2つの短編を読んで今さら気づく。

2018年9月3日月曜日

大空の恐怖・皮の漏斗/コナン・ドイル

コナン・ドイルの恐怖小説を読む。

「大空の恐怖」は、大空で数多く起こっていた遭難事故の原因を突きとめるため、飛び立ち、帰らぬ人となった一人の航空士が残した文書に、空に住む未知の怪物との遭遇が書かれていた...というSFチックな小説だ。

航空機の創世記、数多く発生する遭難事故にヒントを得たものであろうが、今や、単なる移動空間と化した空に未知の世界をイメージできた時代があったのだという貴重な小説だと思う。

この命を絶った航空士が、資産家で自分の趣味の航空関係にお金をつぎ込み、人間嫌いで奇人のような振る舞いをするが、航空士としての能力はピカ一というあたりは、シャーロック・ホームズを髣髴とさせるものがある。

「皮の漏斗」は、主人公が、やはり資産家で怪奇性や神秘的な骨董を収集する友人の家に泊まった時のエピソードだ。

主人公は、友人宅で泊まった際、使用用途が分からない革製の大きな漏斗(じょうご)を枕元に置き、夢見をしてみてはどうかと誘いをかけられる。そして、主人公は夢の中で、中世時代、その漏斗が実際に使われている恐ろしい場面を目撃する..という怪奇小説的な内容だ。

途中まで、まるで、エリアーデの幻想怪奇小説を読んでいるような気分になったが、コナン・ドイルの場合、推理小説のように理路整然とした謎解きを進めているため、恐怖に必要以上に深入りしない健全な物語運びになっている。人によって好き嫌いはあると思うが、そのせいで個人的には恐怖という点では物足りないものを感じた。


2018年9月2日日曜日

お紺昇天/筒井康隆

1964年12月の著者の作品。
しかし、今読んでも作品の質は落ちていないと思う。

車に搭載されたAI(人工知能)お紺との愛。
彼女は老朽化のため、スクラップ工場で壊される運命にある。
主人である私に理由を言わず立ち去ろうとするが、真相がばれてしまう。

お紺との別れを何とか引き延ばそうとする私と、スクラップ工場までついてこようとする主人を気遣うお紺との会話。
まるで人間の恋人同士のやり取りのように、相思相愛感が漂う。

平井和正の初期の作品「レオノーラ」(1962年)も、女性アンドロイドが契約により主人の元を離れることになってしまう物語だが、結末の方向性がまるで違う。

54年前の作品だけれど、この作品で筒井康隆のファンになってしまったような気がする。


2018年9月1日土曜日

誰にもわかるハイデガー/筒井康隆

筒井康隆が、1990年ごろ、胃に穴が二つあいて、死を感じた時に、入院先の病室で1か月かけて、ドイツの哲学者ハイデガーの哲学書「存在と時間」を読み終え、その難解な内容を自署「文学部唯野教授」の語り口を使って、分かりやすく説明しようとした作品だ。

唯野教授の説明を聞いて、私の理解が正しければ、この哲学書は、人間と死の関わり方について考察している。簡単に3つにまとめてみよう。

①人間(現存在)は、自分が死ぬと知っているから、何より自分を気遣う。自分を気遣うだけではなくて、周りの道具、例えば、机、いす(道具的存在者)も気遣う(配慮的気遣い)。そして、自分以外の他人(共現存在)に対しても自分を顧みての気遣いをする(顧慮的気遣い)。

②現存在は、死を忘れようとするため(非本来性、頽落)、共現存在(世人)と空談や空文(どうでもいい話)を交わす。また、美味しいものを食べに行ったり、海外旅行に行き、珍しいものを見ること(好奇心)によっても死を忘れようとする。これらによって、本人が安らぎを得たり、有意義な生活を送っている自覚が生じ、生き生きとするため、本来性か非本来性の区別がつかなくなる(曖昧性)。

③しかし、現存在には、だれでも死を思い出すきっかけ(不安)が訪れる。その不安が訪れた際、世人との関係が崩壊し、今までの安らぎがなくなってしまう。
現存在は、良心のよびかけ(不安)によって死ぬ前に先駆けて(先駆)、本来的に死ぬことを了解しようとする(先駆的了解)ことができる。
現存在は先駆けて、死という可能性を目指して、本来の自分へとたどり着き、自分が死ぬことがはっきりと分かる(到来)。そして、自分が生まれてきてから今まで何をやってきたかを了解すること(既在)によって、自分が既在してきた本当の意味を取り返す。そして、また現在に戻ってくる(現在化)。このプロセス(未来を見て、過去を振り返り、現在に戻ってくる)は順番に来るのではなく、いっぺんに来る(時熟)。

まとめてみて思うのは、上記③の内容になると、ほとんど宗教的といってもいい内容に足を踏み入れているということだ。
「到来」「既在」「時熟」のあたりは、一種の悟りといってもいいだろう。

ハイデガーが三十七歳にして、これだけ”死”を意識した人間存在の解釈を記述した「存在と時間」を書いたのはなぜだろうか。彼が師のフッサールと異なり、死を思い出す契機となる“不安“を重要なものとして捉えていたということは、それだけ、彼の身近に不安が多かったからかもしれない。「存在と時間」が発表された1927年は、時代的にもナチスが台頭し、戦争の恐怖は間近にあった。

この20世紀最大の哲学者とも呼ばれるハイデガーの思想を分かりやすく説明してくれた唯野教授に感謝しつつ、いつの日か、その難解な著作を直に読んで見たいと思った。

2018年8月26日日曜日

文学部唯野教授のサブ・テキスト/筒井康隆

小説「文学部唯野教授」のおまけみたいな本で、唯野教授への100の質問とか、インタビューが収録されているだけと切り捨てようと思ったが、この本に収められている『ポスト構造主義による「一杯のかけそば」分析』は、読む価値がある作品だと思った。

一杯のかけそば」と言って、この作品を覚えている人はどれだけいるのだろうか。
この作品が今、安倍政権による道徳教育推進の最中でさえ、話題にすら上がらず消え去った事実が全てを物語っていると思うが。
*一方でモリカケというキーワードで変にシンクロしているのが面白い。

私は、この批評(パロディ)によって、「一杯のかけそば」を初めて読んだのだが、作者の田舎芝居的な表現、道徳観の押しつけがましさには辟易とさせられた。
(その突っ込みどころ満載のテキストだったから、ポスト構造主義による難解な批評の対象(パロディ)にもなり得たとも思うが)

まったく、この筒井康隆のパロディの対象になったことで、御蔵入りを免れたと言い切ってもいいだろう。

しかし、読み進めていくうちに、

「いかなる金持ちなっても最高のぜいたくはかけそばである」という、ハイデカー的思想が宣伝される。倹約、素朴、気づかいといった全体主義の謳歌。

といった批評や、登場人物の言動をファシズムと評する当たり、正鵠を得ているのではないかと思ってしまったのは、実はパロディと見せかけて、この作品の本質を炙り出した筒井康隆の真当な批評の力なのかもしれない。


2018年8月25日土曜日

聖痕/筒井康隆

聖痕とは、よくも付けたタイトルだと思う。

その象徴は、この物語でいえば、美少年ゆえに変質者によって切り取られた主人公 葉月貴夫の陰茎及び陰嚢の傷痕を指すのだろうが、その切除によって、色欲や闘争心、金銭欲から解き放たれ、平和に暮らすことができた貴夫の奇跡的な半生も指すのかもしれない。

貴夫は、自分の美貌に惹きつけられた人々と距離を置く。芸能プロダクションの誘いは断り、目立つことを避ける。性に向けられるはずだったエネルギーは、美食への研究に振り替える。そして、自分の周りに群がる多くの男女の欲望から身を守るように、その男女を結びつける仲人のような役割を果たす。そして、彼の周りには幸せな男女のカップルが集うことになる。

彼が、もし男子の機能を保持し続けていたなら、どうなっていただろう。
おそらくは、彼の弟妹の自我の強さ、欲望の強さをみれば、彼に欲望を抱いた複数の女性または男性と関係を持ち、その色恋に集中力を奪われ、彼が好きな料理の研究の道には進まなかったかもしれない。彼を憎み、嫉妬する人々も増えただろう。

また、彼の優れた知能を生かそうという金銭欲・事業欲が重なれば、バブル崩壊前に父や自分の投資資産の売却も勧めることもせず、大きな損失を抱えた不安定な生活を送っていたかもしれない。

物語の最後のほうで、東日本大震災の被災地の支援を終えた葉月家の慰労会の際、貴夫の友人で文芸批評家の金杉が、「この災害と原発事故で科学秘術文明と資本主義経済の破綻が起こっていることは間違いない。これからは、リビドーやコンプレックスの呪縛から脱した高みで論じられる、静かな滅びへの誘い、闘争なき世界へと教え導く哲学や宗教が必要となってくる。その教義はおそらく今まで葉月が実行してきたことと合致する筈だ」と述べるのだが、この物語のまとめとしては軽すぎる。
(弁護的に言えば、金杉は貴夫が払った代償の大きさを知らないから、こんな事がいえるのかもしれないが)

葉月貴夫が、妹に瓶にホルマリン漬けにされた自分の陰茎について尋ねられ、「それがぼくの贖罪羊(スケープゴート)だったんだよ」という言葉にこそ、この物語が持つ痛烈な人間性への批判が隠れているのかもしれない。
例えば、性の喜びに代表される人間の欲望を、それにとどまらず生物の本能ともいえる生殖機能の喪失を犠牲にしても、平和で静かな世界を選択することが、あなたにはできるだろうかと。


*作品の中で散りばめられた多数の古語(造語?)は、唯野教授の講座で解説があったロシア・フォルマリズムの「異化」を意識したものなのだろうか。