2018年8月25日土曜日

聖痕/筒井康隆

聖痕とは、よくも付けたタイトルだと思う。

その象徴は、この物語でいえば、美少年ゆえに変質者によって切り取られた主人公 葉月貴夫の陰茎及び陰嚢の傷痕を指すのだろうが、その切除によって、色欲や闘争心、金銭欲から解き放たれ、平和に暮らすことができた貴夫の奇跡的な半生も指すのかもしれない。

貴夫は、自分の美貌に惹きつけられた人々と距離を置く。芸能プロダクションの誘いは断り、目立つことを避ける。性に向けられるはずだったエネルギーは、美食への研究に振り替える。そして、自分の周りに群がる多くの男女の欲望から身を守るように、その男女を結びつける仲人のような役割を果たす。そして、彼の周りには幸せな男女のカップルが集うことになる。

彼が、もし男子の機能を保持し続けていたなら、どうなっていただろう。
おそらくは、彼の弟妹の自我の強さ、欲望の強さをみれば、彼に欲望を抱いた複数の女性または男性と関係を持ち、その色恋に集中力を奪われ、彼が好きな料理の研究の道には進まなかったかもしれない。彼を憎み、嫉妬する人々も増えただろう。

また、彼の優れた知能を生かそうという金銭欲・事業欲が重なれば、バブル崩壊前に父や自分の投資資産の売却も勧めることもせず、大きな損失を抱えた不安定な生活を送っていたかもしれない。

物語の最後のほうで、東日本大震災の被災地の支援を終えた葉月家の慰労会の際、貴夫の友人で文芸批評家の金杉が、「この災害と原発事故で科学秘術文明と資本主義経済の破綻が起こっていることは間違いない。これからは、リビドーやコンプレックスの呪縛から脱した高みで論じられる、静かな滅びへの誘い、闘争なき世界へと教え導く哲学や宗教が必要となってくる。その教義はおそらく今まで葉月が実行してきたことと合致する筈だ」と述べるのだが、この物語のまとめとしては軽すぎる。
(弁護的に言えば、金杉は貴夫が払った代償の大きさを知らないから、こんな事がいえるのかもしれないが)

葉月貴夫が、妹に瓶にホルマリン漬けにされた自分の陰茎について尋ねられ、「それがぼくの贖罪羊(スケープゴート)だったんだよ」という言葉にこそ、この物語が持つ痛烈な人間性への批判が隠れているのかもしれない。
例えば、性の喜びに代表される人間の欲望を、それにとどまらず生物の本能ともいえる生殖機能の喪失を犠牲にしても、平和で静かな世界を選択することが、あなたにはできるだろうかと。


*作品の中で散りばめられた多数の古語(造語?)は、唯野教授の講座で解説があったロシア・フォルマリズムの「異化」を意識したものなのだろうか。

1 件のコメント:

  1. 歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)

    読み通すには一頑張りが必要かも。
    読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
    ネット小説も面白いです。

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