本書は、ナチのNo.2 ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書の一人として働き、106歳まで生きたドイツ人の女性 ブルンヒルデ・ポムゼルさんの告白を記した本だ。
この本は、別の意味で衝撃を受けた。
あの激動の時代を、しかもゲッベルスの秘書として3年間も働いた女性が、戦後、ある意味、ナチの行った行為と自身の関わりと責任を、他人事のように否定している姿勢に驚いたからだ。
自分は職業人としてナチに仕えたが、自分自身が犯罪を犯したわけではない。
あの時代、ユダヤ人の迫害を助けるために、もっと何かをできたと人は言うけれど、きっと、その人たちも自分と同じことをしていた。
あのころと似た無関心は、今の世の中にも存在する。
テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのがわかる。
しかし、そのあとのテレビではバラエティ・ショーが放映される。
シリアのニュースを見たらかといって人々は生活を変えない。
生きるとはそんなものだと私は思う。
これらの言葉は、奇妙な説得力がある。
我々は、様々な映画やドラマや小説で、ナチと勇敢に戦った人や物語を知っているが、それは、とてつもない勇気と犠牲を強いる行為だという自覚がないまま、軽い認識で共感しているだけなのかもしれない。
むしろ、ポムゼルのように、政治への無関心を貫き、体制に逆らわず、都合の悪い事実や情報は視界の外に遠さげ、それがどんな意味を持つかも考えずに粛々と与えられた仕事を誠実に行う。
そんなサイレント・マジョリティと言われる人々が実は大多数なのかもしれない。
政治への無関心、ポピュリズム、ナショナリズムの台頭、移民の排斥。
世界の至る所で、今は第一次世界大戦後の世界に似ていると言われている。
実際、民主主義の旗手であったはずのアメリカからトランプという大統領がすでに生まれているのだ。
日本だって他人事ではない。生産性がないという理由に基づいた障害者の大量殺人事件と、自民党の若手議員がLGBTの人々を生産性がないと切り捨てた思想はリンクしている。
ナチのユダヤ人迫害の前には、同様の理由で障害者差別が始まっていたのだから。
そういった世界情勢を認める中で、自分はポムゼルと同じ生き方を選ぶことはない、と断言できるだろうか。
ポムゼルの語る言葉に対して、どれだけの反論ができるのか、語らなかった事に対して、どれだけの想像を巡らすことができるのか、この本はそういう難しいことを要求している。
0 件のコメント:
コメントを投稿