その夢のような奇怪さのようなものを、この小説から感じた。
そもそも文字を闘わせる遊戯とは一体何なのだろう。
かつては一方が文字を書き、他方が部首を当てるだけだったものが、文字の間に強弱を設定する決めごとになり、そのうち字体によって勝負を定める流行が訪れる。
蟋蟀(こおろぎ)が戦う闘蟋の際には、蟋蟀の背中に文字を書き、あるいは螽斯(きりぎりす)、蟷螂(かまきり)、百足(むかで)の背中に文字が配され、しまいには人の体に文字を刺青し闘わせる。
闘字は、本来は出来事を不動にするための文字を弄ぶため、品のない行いとされており、文化大革命以降、下火にはなっているが、いまだに小規模ながら好事家たちのコミュニティが各地に存在しており、主人公もそのコミュニティに呼ばれる。
そこで主人公は闘字を行うのだが、彼の筆から跳ねた墨汁は魚になり、魚面人身蛇尾に変身し、最後に人首蛇身の女媧(女神)になる。
そして、匈の文字に勝る文字を記し、その理由を述べるのだが、文字に支配されたかのような主人公の説明は謎めいている。
文字が生き物のように躍動するマジックリアリズムの世界。
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