中島 敦の「文字禍」を読んでいて、ふとそのことを思い出した。
「一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。このように、意味のない単なる線の集合が、音と意味とを有することができるのは、文字の霊の存在があるからだというのが、この物語の主題だ。
単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」
文字の霊は、必ずしも人々にとって良い事ばかりもたらす訳ではない。
文字を覚えてから今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者…近頃人々は物臆えが悪くなった。…人々は、もはや、書きとめて置かなければ、何一つ臆えることができない。…人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。今の時代で言えば、媒体は書物から、PC、スマートフォン、iPadなどの情報端末に変わったのかもしれないが、本質的には変わっていない。
「文字」を「情報」に置き換えてみたら、ますますそうかもしれない。
この作品が発表されたのは、昭和十七年二月。
日本軍が次々と東南アジアの国々を侵略していた年である。
そんな時代に背を向けて、どこかマイナーポエットな作品を書き続けた中島 敦は、この年の12月4日に、気管支喘息で亡くなっている。
三十三歳という短い人生だったが、その作品はどれも質が高い。
0 件のコメント:
コメントを投稿