2021年12月30日木曜日

古くて素敵なクラシック・レコードたち/村上春樹



村上春樹氏が、自身が収集した様々なクラシックレコードの解説をしている。クラシック(古典音楽)をそれほど聞いていない私のような人間でも十分楽しめる内容になっている。

第一に、ほとんどが1950年から1980年までの一昔前と言ってもいいレコード群なのだが、様々なレコードジャケットの写真を見ているだけで楽しい。クラシックレコードのジャケットというと、画一的なオーケストラの写真をイメージしがちだが、個性的なイラストや指揮者、オペラ歌手の顔写真が多く掲載されていて味がある。

特に小澤征爾の三十代頃の顔写真のレコードジャケットは如何にも才能に溢れた青年の風貌を湛えていて興味深い。

第二に、村上春樹氏のそれらレコードの入手のしかたがユニークだ。中古レコード屋で1ドル、最も安い価格では50円!で入手したという話を聞くと、そう言った場所に行かない私でも、心が揺れ動く部分がある。もちろん、そんな簡単なことではないと思うが。

第三に、村上春樹氏のレコードの解説が、平明な言葉づかいで分かりやすい。解説の仕方も、同じ曲を異なる指揮者と演奏家のレコードを複数並べ、それぞれの演奏を比較した批評になっている点も分かりやすい。

この本に、作曲家や曲、指揮者や演奏家の経歴の解説も注釈として付いていたらという感想も正直ないではないが、そこまで真面目に作ると、このCDサイズのカジュアルな本のイメージが壊れてしまうかもしれない。

それにしても、小説家の余技(ジャズレコードコレクター)の余技とは思えないほど、クラシック音楽に対する村上春樹氏の造詣は深いように感じる。(その点は小澤征爾も対談本で認めている)

2021年12月19日日曜日

所有者のパスワード/多和田葉子

木肌姫子という女子高校生。彼女は暇さえあれば本を読んでいて、月々の小遣い5000円では足りないぐらいの本(恋愛小説)を読んでいる。

最初のうち、漫画を読んでいたが読む時間のスピードが上がってしまい、たくさん買わなければ一日が持たなくなってしまい、読むのに時間がかかる本を購入するようになった。

その姫子は、ある日、恋愛小説の棚から変わった本を見つけるのだが、その説明が面白い。

観光地で売っている饅頭の包装紙のような装丁の本だった。手にして題名を見ると、漢字四字のうち一字しか知っている字がなかったので、中国語の本かと思ったが、中を見ると日本語だった。書き出しの文章が変わっている。「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。」活動写真とは何のことだろう。先を立ち読みすると、巡査との謎の会話が延々と続く。...題名の漢字は、「ボクトーキタン」と読むのだろうか。なんのことだか分からないけれども、ホンキートンクのようで、なかなか洒落た題名だと姫子は思った。

姫子は「ボクトーキタン」に影響されて、図書館で出会った男子生徒と仲良くなり、駆け落ちまでしようとし、果ては援助交際まで...という物語だ。

姫子をホテルに連れ込んだ中年男が喋るコンピュータ用語の意味がなんとなく卑猥な感じで伝わってくる。それを姫子が「ボクトーキタン」の一節「相手が「おらが国」と言ったら、こちらも「わたくし」の代りに「おら」を使う。」の知識でなんとかやり過ごすのだが、こんな一節が濹東綺譚にあることは全く覚えていなかった。

原文で確認したら、その一節の前に荷風はこんなことを書いていた。

わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。

これは、海外経験のある荷風が考えたユーモアのあるコミュニケーション術だなと感じた。おそらく、多和田葉子もその意外な新鮮さを感じたに違いない。

2021年12月18日土曜日

ヒナギクのお茶の場合/多和田葉子

ボルドーの義兄でも見られた、ちょっと変わった女友達との親密な関係。

小説や戯曲を書き、あまり家から出たがらないわたしと、対照的に行動的な髪の毛を緑色と金色に染めたパンク風の舞台監督のハンナ。

お互い正反対な存在というのは、全く拒絶しあうか、惹かれあうものなのかもしれない。

青いジーンズが似合うハンナの姿に刺激を受けて、ジーンズをはいたまま、小説を書いてしまい、腰を痛めてしまったわたしが可愛い。

小説を書く時には、ゆるくて暖かいモンペをはいていなければいけない。いつもお茶を飲みながら、モンペをはいて、スリッパを履いて、いつもじっとすわって書いている。いつも書いている。夏の光が受話器に貼った銀色の龍のシールに反射してまぶしい日でも。いつも。いつも。

そんなわたしをハンナはボートに乗せて漕いでくれるという。同性に甘やかされ、世話してもらうというのは、意外に快楽的なことなのかもしれない。

そんな優しいハンナが舞台監督を務めることになったのに、作者は見に行く暇がないという。というか、そこには無意識の対抗心が働いていたのかもしれない。

人に会いたい。机を離れたい、と思えば思うほど身体が動かなくなる、あの妙な精神状態に陥ってしまっていた。背骨を古い傘の骨のように鳴らして、原稿を書き続けた。

物語は、最後に意外な形で幕が下りるが、ティーバッグのお茶を大量に作り、そのお茶の色で舞台に使う紙を染め続け、ハーブ茶の匂いに誘われ、湿ったお茶の中で深い眠りに落ちてしまったハンナに不思議な羨望を覚えた。アルコールでは決して辿り着かない深い眠り。



2021年12月14日火曜日

雪の練習生/多和田葉子

この作品は、池澤夏樹編集の日本文学全集で一部「祖母の退化論」の章だけ読んでいたが、その後の2つの章「死の接吻」と「北極を想う日」を読み終わると、ホッキョクグマの三世代の物語としてスケールの大きさを感じた。

一人目の私(牝熊)は、サーカスで活躍していたが、自らのサーカスでの生い立ちを自伝として書いたことで、ソ連にいずらくなり、西ドイツ、さらにカナダに亡命する。そこで結婚し、2人の子供を産むが、男の子は死に、女の子にはトスカと名付ける。

トスカは、東ドイツのサーカスでウルズラという女性のサーカス団員と運命的な出会いをする。相思相愛。精神の奥深いところでつながり、お互いの記憶やサーカスでの出し物<死の接吻>の練習を同じ夢を見ながら共有・体験する。その愛は、トスカが動物園に売却され、そこで息子クヌートを産んでも変わらなかった。

クヌートは、トスカには育てられず、マテイアスという男性の飼育員に育てられ、可愛らしい子熊として統合後のベルリンの動物園で人気者になるが、次第に成長し、マテイアスを爪で傷つけてしまったあたりから人気も凋落するが、天性の才気と幽霊のミヒャエルとの出会いで孤独を乗り切っていく。北極を思わせる寒い冬を待ちわびながら。

ホッキョクグマという設定ではあるが、物語が1989年のベルリンの壁崩壊の前後ということもあり様々なテーマが浮かんでくる。移民、移民の子、多様性、同性愛、地球温暖化などなど。

作者がベルリンの動物園で子熊のクヌートを見て、そこから、ここまで奥行きのある物語を想像力だけで作り上げたことに本当に驚いてしまう。


2021年12月5日日曜日

容疑者の夜行列車/多和田葉子

タイトルが、まるで推理小説のようだが、この本では、作者が読者を、舞踏家を生業にした「あなた」という二人称に設定して、さまざまな都市の夜行列車に乗せて旅をさせ、ちょっとしたトラブルや奇妙な体験をさせるという構成になっている。

2001年頃の作品だが、このコロナ禍の中で読むと、よどんだ空気にすうっと入ってきた新鮮な空気感を味わえて楽しかった。

どの章も面白い。

パリ:「家がどんどん遠くなる。それでもいいではないか、どうせ旅芸人なのだから。匙を投げてしまえ。箸も投げてしまえ。投げて、投げて、計画も野心も全部捨てて、無心に目の前を眺めよ」の一言にすっとする。

グラーツ:「あなたも昔は子供だった。リュックサックを担いだ旅の外国人がどこからともなく現れて...そのすべてを背負った彼の身体が不思議な総合体になって、子供の目の前に現れ、何かを暗示していなかったか」という最後の問いかけが心に残る。

サグレブ:コーヒー豆は輸出規制品なんですね。

ベオグラード:海外の旅先で現地の人に親切にされるとうれしい反面、何か裏があるのではないかと疑ってしまうその心理がうまく描かれている。

北京:こういった状況に巻き込まれたら、ここまで冷静になれるだろうかと思う。

イルクーツク:シベリア鉄道の列車の中、特に会話もないが、干し魚の切り身と玉ねぎとパンの一切れ、そしてウォッカをふるまってくれる男の存在が妙に懐かしい。

ハバロフスク:移動する空間と精神がかみ合わず、夜行列車の中で見る奇妙な夢。

ウィーン:「魔は細部に宿るものだ」という一言が奇妙に説得力がある。不可解な出来事に巻き込まれたときに、細部を観察するということは意外と大事なことなのかもしれない。

バーゼル:マイナスオーラを与える人と個人的にここ最近会ったことがない、しかし、眠りというのは、自己防御の最たるものなのかもしれない。

ハンブルグ:平凡な街での時間の潰し方というのは本当に難しい。

アムステルダム:「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」という諺について、「誰でもかっと腹が立って、相手を殴り返していたりする。しかしそうなる前に、実験的に左の頬も打ってもらえば、どうやって怒りというものが発生することが分かって、自分の身体を他人のもののように冷静に観察することができる」からという説明が面白い。

ボンベイ:大事な爪切りを売り渡して、永遠の乗車券を手に入れる。ここでいう「爪切り」とは、私たちが収まっている日常社会の枠の象徴みたいなものなのかもしれない。

どこでもない町へ:旅についての観念的な言葉が3人の乗客の間で交わされる。この章だけ、二人称の「あなた」ではない。

旅が何かからの逃避行だとすれば、タイトルの「容疑者」という言葉は、作者が設定した旅に放り込まれた読者が味わう不安定な立場や思いを面白がって少し皮肉っぽく表しているようにも思える。

2021年11月14日日曜日

献灯使/多和田葉子

主人公は、無名(むめい)という少年。その無名を育てているのは、義郎という無名の曽祖父(ひい爺さん)だ。

無名は、立ったり、歩くことが困難で、パンを食べるのも口の中で出血してしまうほど、脆弱な体になっており、常に微熱をかかえている。これは無名だけではなく、この世代の子供たちすべてがそのような存在になっている。そして、反対に老人は元気な体を維持し、六十代は若者の部類になっている。

義郎と無名が住む東京は基準値(おそらく放射能)を超えた危険地域に指定され、住人は減少している。土壌が多量の有害物質に汚染され、野生動物もほとんどいない。

おまけにこの世界では日本を含めて各国が鎖国しているから、果物や農作物は、沖縄や四国、北海道でしか取れず地産地消しているため、蜜柑すら東京には滅多に回ってこない。オレンジは一個一万円。移住も容易には認められていない。

義郎には、妻の鞠華と娘の天南(あまな)がいたが、妻は別居して孤児をひきとる施設の院長に、娘は沖縄に移住してしまった。

孫の飛藻(とも)は、ギャンブル依存症で病院に入院していたが脱走して行方不明になり、その妻は無名を出産して死んでしまった。出産に立ち会ったのは義郎だけ。彼が無名を引き取らざるを得なかった。

タイトルの「献灯使」は、鎖国主義に逆らって、外国に性格的な欠陥がない優秀な若い人(献灯使)を送り出すプロジェクトからきている。義郎の妻の鞠華は、無名にその素質があることを見抜くが、彼の健康状態を考えて通常通りの生活をさせてあげたいと願う。しかし、無名の担任教師が彼を「献灯使」に推薦したいという話をもちかけてくる..という物語だ。

東北・関東地方が危険地域に指定され、農作物は北海道と西・南日本地域でしか収穫できず、日本は鎖国状態になってしまう。そして、子供たちの健康が脅かされる世界。

2011年の原発事故直後に読んだら、明らかにそれを意識したディストピアな未来小説だとしか、思わなかったかもしれない。

しかし、この物語は、工業製品を安価で競うグローバルビジネスが立ち行かなくなった時に、日本には何が残るのかという、気候変動問題やアフターコロナ後にも共通する根本的な指摘を投げかけているような気がする。

作中、工業製品を安価で競うグローバルビジネスからいち早く降りた南アフリカとインドが、言語を輸出して経済を潤し、それ以外のものは輸出入しない方針をとり、世界の人気者となり、どんどん経済的に豊かになっていったが、日本には「輸出できるような言語がなかった」と書かれている。

ここでいう「輸出できるような言語」とは何なのだろう。ソフト・パワーのようなものなのか。だとすると、日本のソフト・パワーとは何なのだろう。そんな事を考えさせられた本だった。

2021年11月11日木曜日

瀬戸内寂聴さんの死

ついにその日が来たかというのが訃報に接しての感想だった。

朝日新聞に不定期に掲載される彼女のコラムを読んで、内容よりも、ああ、まだ元気に生きているという思いをもって、いつも、彼女の文章を楽しんでいた。

なぜ、彼女に惹かれていたのか、自分でもよく分からないが、この人は、出家をしながらも、とても女性らしい人だと感じていた。

それは女性としての、細やかな気配りというより、可愛らしさのほうが際立っていたように思う。

尼僧でありながら、女を捨てきれない、そういう業のようなもの、大きな矛盾がこの人の中には渦巻いていて、常にエネルギッシュだったことが、わたしにとって大きな魅力だったのかもしれない。

そういう大きな精神を、矛盾を感じさせる人がいなくなってしまったことは実にさびしいことだ。

2021年11月7日日曜日

犬婿入り/多和田葉子

これは、またユニークな小説だ。

学習塾「キタムラ塾」を開いている北村みつこという独り者の三十九歳の女性の家に、ある日、太郎という若い男が住み込む。料理や掃除をきちんとする一方、みつこの首や肛門を吸ったり、舐めたり、昼も夜もみつこと交わったり、みつこの体臭を1時間も嗅ぎ続けたりと、人並みの男ではない。

その太郎は、折田という父兄のかつての部下で、良子という女と結婚して家庭を持っていた過去があり、良子の話では大勢の野犬に咬まれてから、その性格が一変し、ある日突然失踪したということを知る。

みつこは、一方で学習塾に通っていた扶希子という、子供たちからいじめられている女の子を可愛がるようになるが、その扶希子の父親と太郎がゲイバーのようなところで付き合っているという噂を聞く。

ある日、太郎と扶希子の父親が駅で旅行鞄を持って旅立つ場面を見た折田が、みつこにその事を告げようとするが、みつこの家には誰もおらず、「キタムラ塾」が閉鎖されたという貼り紙だけが残っていた。そして、その翌日、みつこから折田に、扶希子を連れて夜逃げしたという電報が届く...という物語だ。

物語は謎めいてはいるが(特にみつこが何者かは分からない)、太郎の存在は、「犬」に置き換えると、おおよそは理解できる。犬は突然飼い主の家からいなくなり、よその家で飼われていたということは、おかしな話ではない。

扶希子という愛情を注ぐ自分の「子供」を持ったみつこが、飼い犬に興味を失くし、犬も飼い主の愛情を得られず、再び家を出るという結末も納得できる。

しかし、私は、この物語について、汚いものや性の猥雑さに学習塾の子供たちが敏感に反応し、好奇心を抑えきれない様子が生き生きと描かれているところが面白いと思った。無意識に、太郎が犬であることを見抜き、興味津々で見守る子供たちの視線というものが、この物語を民話のようにからっと明るい雰囲気に仕立てているような印象を受ける。

なお、みつこが語っていた犬婿の話は、本当に昔話としてあるようだ(今昔物語や南総里見八犬伝など)。

2021年11月6日土曜日

ペルソナ/多和田葉子

この物語は、多和田葉子の作品としては珍しく、割とストレートにテーマが語られている。

ドイツ・ハンブルクで弟 和男と暮らす道子。姉弟は2年間の予定でドイツで暮らしている。道子は、「ドイツに住みドイツ語で小説を書いているトルコ人の女性作家たち」について論文を書いており、和男はドイツの中世文学を研究している。

道子は、知り合いの韓国人の看護師セオンリョン・キムが、「東アジア人」だから表情がなく、何を考えているか分からないと噂され、胃を悪くして入院してしまったことをきっかけに、同じ表情のない自分の顔が周りに見られていることに不安を覚える。

「東アジア人」ではない、日本人の顔になるように化粧をしなければ、という強迫観念にかられるが、彼女の不安は消えず、本当の思っていることを言おうとすると、日本語が下手になっていくことを感じるようになる。

そんな彼女が知人の家で偶然出会った、深井の能面。

道子の視線を捕らえて、恨めしげににらみ返してきた顔があった。女性の顔があった。頬の肉が多少垂れ下がって見え、口が半ば開いていた。開いた口は、人に噛みつこうとしているようでもあり、疲労のあまり言葉を失ったようでもあった。

道子は、その深井の面を自分の顔に被せ、ある一つの顔から解放され、しかも、その仮面には、これまで言葉にできずにいたことが、表情となってはっきりと表れていることを感じ、その面をつけたまま、ハンブルグの街を歩く...という物語だ。

仮面(ペルソナ)をつけることで、本来の自分を表現するという行為は、ある意味、珍しいことではないのかもしれない。ただ、深井の能面を被ったという点は、ユニークというかある種の覚悟のような思いを感じる。

決して日本人である自分を否定するということではなく、自分の感情(ある種の悲哀のようなもの)を隠さないという点において。


(深井の能面)

2021年11月3日水曜日

光とゼラチンのライプチッヒ/多和田葉子

作者と思しき彼女は、ベルリンから東の都市 ライプチッヒに行こうとするのだが、そこで何をしようとしているのかが、この物語のキーポイントだ。

ある商品を販売しに行くらしいのだが、スパイも現れ、ガラス板の技術とゼラチンがからんでいるのではないかという話になる。

彼女はスパイに対して、こんなことを言う。

「ゼラチンの特色は、湿り方によって光を通す度合いが異なってくる事です。」

「私がゼラチンを塗ったガラス板に正面からぴったり体をくっつけて立つと、目や口のところは湿っているからゼラチンが変質して光を通し...」 

「でも私がガラス板に体をつけて立ったのでは商売にならないのです。女性の姿を印刷すると、車の広告や、雑誌の表紙を、どうしても思い出させてしまうので、使い古した感じになってしまうんですね。」

ガラス板が「本」「印刷物」という解釈だとすると、「私がガラス板に体をつけて立つ」という行為は、生の自分を写すという意味で私小説のような印象を与える。そして、ゼラチンは外国語と解釈すると、「光を通す」とは、言葉をガラスの向こうに伝えることだろう。

国境地帯で彼女は喉の渇きを覚えながら、ひたすら歩き、「時々はっとする言葉があると、のどが少しだけ湿って、この粘膜が透き通り、光が通った気持ち」になるのだが、その同じ言葉を繰り返すと逆に影になって重くなってしまうため、彼女はまた別の言葉を捜さなければ前へ進めなくなる。

国境はまさに言葉の壁でもあるが、ここでは既成の文学、日本語の壁を乗り越えて、新しい文学、外の世界に響く言葉を見つけるのがいかに困難なのかが伝わってくる。

読んだ印象は、軽いタッチで書かれた作者のユーモアチックな精神世界だが、上記のように解釈すると、まさに多和田葉子が目指している文学の姿がシリアスに伝わってくる作品に思えてくる。

2021年10月17日日曜日

飛魂/多和田葉子

梨水という女性が、森林の奥深くにある「虎使い」の亀鏡という師がいる寄宿学校のようなところに行き、「子妹」という同窓生と共に、「虎の道」という書を読み、亀鏡との対話を通して学ぶ生活を描いている物語(主要な登場人物はすべて女性)なのだが、迷路に迷い込んだような錯覚を覚える。

まず、彼女たちが学んでいる「虎の道」という書の内容がよく分からない。その原典は全三百六十巻もあり到底読み通せる量ではなく、「一度読んだだけでは意味を表さない部分が多い」ので、通読しても意味がないものだという。粧娘という「子妹」は、書を読み進めていくうちに、書いてある内容にいくつも矛盾を見つけ、自分とは無縁のものであることを悟り、学舎を去る決心をする。

虎とは一体何なのかという疑問が読み終わっても残る。梨水は「虎」という「字霊」に取りつかれ、「幽密」(セックス)を行う場面が出てくるのだが、「虎」とは「字霊」あるいは「言霊」のようなものなのだろうか。

亀鏡が、師である自分の考えに同調しようとする「子妹」にはあまり関心を持たず、梨水に注意を払うのは、彼女が書を音読することで、その声の響きによって、時には内容も改変し、その言葉を自分の言葉に変えてしまい、言葉のパワーを解放する亀鏡とは全く違った能力を持つ存在だからかもしれない。

漢字が多用される本作は、中島敦の作品を彷彿させるが、彼が書いた「弟子」に登場する孔子と子路の模範的な師と弟子の姿はなく、亀鏡と梨水の関係は競争者の関係に近いかもしれない。そして、「字霊」といえば、中島敦も「文字禍」という作品も残しているが、本作品における「字霊」は女という生物から立ち昇ってくる霊気のようで、それだけに生々しい力強さを感じる。

2021年10月11日月曜日

無精卵/多和田葉子

この物語は、一見、気のふれた女のひきこもりの生活の破綻を描いているように思えるが、その本質は、女の中にある「内なる少女」を破壊しようとする、女と外の世界との戦いを描いているように感じた。

「少女」は現実的な描写で描かれているが、女の分身であることは明らかだ。

女を取り巻く人々は悪意に満ちている。

同居している男。彼は、彼女に文章を書くのを止めさせようとするが、性的不能のため、彼女を変えられない。男は、生まれの卑しい女性を教育や結婚によりいかに変えるかが重要であるという学者の本を読んでいる。

男の義姉は、男と性的関係を結ばない女を監視し、男の死後は、怪しいビデオ専門誌(おそらくアダルトビデオ)を通して、彼女に原稿を執筆させるよう依頼してくる。

女の旧友だった新聞記者は、彼女と同居する少女の存在を確認しようとし、女の従弟は、女に性的関係を迫ろうとする。

やがて、市役所や保健所が、少女の存在を確かめるように、女の家に現れるようになり、最後には...という物語だ。

主人公以外は悪意に満ちているという点で、カフカの描く悪夢の世界に近いものがあるが、最後、女の書いた文章を書き写したファイルを少女が持ち出し、家を逃げ出すシーンに救いを感じる。

女性の精神的自立を社会が阻害するテーマを描いた作品は多いが、この物語で抹殺されようとする「少女」は、さらにもっと深いところにある、フロイトが提唱した「エス」のようなものではないかと思った。

2021年10月10日日曜日

隅田川の皺男/多和田葉子

多和田葉子の作品としては、珍しく、東京の下町 隅田川が舞台になっている。マユコという精神的に不安定な三十代の女性と、ウメワカという源氏名の浪人生の男娼の出会いと別れ。

マユコは、自分の精神的危機をウメワカは癒してくれるように感じ、ウメワカは次第に少年らしさを失いつつある自分の運命を打破してくれる可能性をマユコに感じる。

しかし、マユコが母親のように自分に嘘をついたと感じたウメワカは隅田川の町から姿を消し、マユコは、お寺で聞いた人買いにさらわれて連れて来られた京都の公家の梅若丸の話や、母親に隅田川に突き落とされ溺死した梅若の亡霊の話をウメワカに重ね、会うことを諦めるのだが、もう隅田川を渡る理由がなくなってしまうことを残念に思うところで物語は終わる。

一読して、まるで80年代の唐十郎のドラマを彷彿させる内容だが、マユコが夢の中で東京の上空を飛行し、東京の町並みをまるで老人の顔のように皺の寄った皮膚のように思い、その町の皺にもぐりこむように東京を歩きたいと語っている点が多和田らしい。

不気味な登場人物は何人か立ち現れるが、読後感は不思議と明るい印象が残る。

2021年10月9日土曜日

ゴットハルト鉄道/多和田葉子

この本は、題名を見ただけで読みたくなった。
いかにもヨーロッパ的な硬質な名前と鉄道、そして多和田葉子。

その私の期待を正確にイメージさせるような表現が作品の冒頭に書かれている。

「ゴットハルト鉄道という言葉が、錆びた鉄の赤みと、まだ冷たい四月の煙った空気と、ひとりで窓の外を見ながら寂しく感じている乗客にしか聞こえない線路の摩擦音などに姿を変えて、(わたしに)炎症を起こした」

しかし、読み進めていくうちに、このゴットハルト鉄道も、わたし(作者)が感じるヨーロッパ世界と自分との距離感を心象世界として描いていることが分かる。

友人(恋人)のライナーが言う。

「北ドイツの知識階級に所属したいと思ったら、イタリアの光に憧れなければいけないのです。山やトンネルの中に入ったまま出て来なくなるような意識を持っていては、理解されない。理解されないような意識を持つということは、謎めいていて面白いということにはならない。単に自分たちの仲間ではないということにされてしまう」

しかし、わたしはゴット(神)ハルト(硬い)という父親的なイメージのある身体を通り抜けたいという願望を持っている。食道のようなトンネルを食べ物のようにもぐり込み、閉じこもりたいと思っている。

そして、スイスで一番醜い町というゲッシェネンで降り、ホテルでは閉じ籠もって、スイス人しか知らない作家が書いたゴットハルト鉄道の歴史書を読み、散歩禁止の雪の積もった平原の上を歩き、ぽっかりと開いた深緑色の湖面を見つめ、落下することをイメージする。

でも、わたしは、ゲッシェネン駅のプラットホームに上り、トンネルの入り口に目をやり、その闇の深さを見て、「ゴットハルトのお腹に、入らなかったに違いない。入ったとは、とても思えなかった」と思うところで、この物語は終わる。

この最後は、旅への期待と実際には辿り着けなかった距離感、ヨーロッパの(精神的な)深部に到達したいと願っても、決して入り込めない壁のようなものを強く感じさせる。
(一人旅をした時、これに近い気持ちを感じたことを思い出した)

もちろん、そう感じるということは、周りに溶け込まないわたし(作者)の強固な自我というものがあるからなのだが。

短い小説なのだが、多和田の作品は、色々なことを思い出させ、考えさせる。

2021年10月3日日曜日

文字移植/多和田葉子

2ページ程度の 小説の翻訳の仕事をもって、知人の内科医が貸してくれた海が見える別荘で滞在する翻訳者のわたし。

バナナ園、溶岩の跡、教会、雑貨屋、魚屋、郵便局、カフェバーしかないようなカナリア諸島の島。

アフリカ大陸から吹き上げるという「ドラゴン風」という熱風に肌や髪の毛は乾燥し、剥げていく。

わたしが訳そうとしている小説は、ドラゴンを退治しようとする「聖ゲオルグ伝説」の話のようなのだが、その翻訳作業は一向にはかどらず、言葉たちがつながらないまま、原稿用紙に散らばっている状況。

その散らばっている言葉たちの固まりが、そのまま、物語にごろっと配置されている。

また、この物語には、「作者」という人物が出てくる。これは多和田のことでなく、翻訳している小説の作者と思われるのだが、わたしは「作者」と一緒に水の枯れた河底を歩いても、わたしの考えていたような<締めくくり>ではなかったり、「作者」は翻訳者のわたしの存在など必要としないようなふるまいをする。

この部分を読むと、この物語は、翻訳作業を行うわたしの心象世界を描いているようにも思える。(ただ、心象世界だとしても、南国の島の人々や出てくる風景は奇妙にリアルだ。)

そして、わたしが書き上げた原稿を入れた封筒を取り上げ、郵便局に出すのを邪魔しようとする聖ゲオルグが化身した青年は、「作者」の思いと交わることができなかったわたしが、自分の翻訳した原稿を編集者に送りたくないという本音が反映されているようにも思えた。

ドラゴン風のせいで、肌がただれて赤茶け、「自分の肌ではなくなってしまったような感じ」とは、翻訳という作業を通して、異物を体の中に取り入れ、変異しようとするわたしの精神を象徴しているのかもしれない。


2021年9月26日日曜日

三人関係/多和田葉子

この小説も読み方によっていろいろな解釈ができる。

登場人物は、会社に勤めている私と、アルバイトに来た大学生の川村綾子を軸に、二人が好きな作家 山野秋奈と、綾子が高校時代美術部の担任であった秋奈の夫 山野稜一郎、さらに私の別れた男 萩のいとこで稜一郎とも交友関係がある杉本が加わる。

綾子が秋奈の講演会で声を掛けられ、稜一郎の個展の初日のパーティーに誘われることを聞いた私は、綾子と秋奈と稜一郎を「三人関係」に仕立てあげるための物語を妄想していく。

私の思っている「三人関係」とは、「つかみどころがなく、ゆったりとした関係。誰が誰と結びついているのか、わからないような関係」をいうのだが、綾子が山野夫妻との交流を深めていくにつれ、綾子と秋奈と稜一郎の関係は、次第にそれに近いものになっていく。

ただ、それが本当に綾子が私に語ったことなのか、私の妄想なのかは曖昧模糊としていてわからない。

そして、ある日、綾子がバイトを辞めてしまい、「三人関係」の物語を作れなくなった私は、杉本と稜一郎の関係をつてに、自分が秋奈の講演会に行き、山野夫妻と「三人関係」を持つことを想像するのだが、それは綾子の「三人関係」の物語を繰り返すことになることを避けられないと、ぼんやり思うところで物語は終わる。

物語には、謎が多い。
秋奈がどういった内容の著書を書く作家なのかも分からないし、夫 稜一郎との関係もよくわからない。

二人の住む家もどこにあるのかも分からない。東京の北西部を走る古い私鉄 葉芹(はせり)線の貝割礼駅という奇妙な名前も印象的だ。

綾子から聞いた「三人関係」の物語は、私のすべて妄想だったのか、私が山野秋奈を私が作った「三人関係」の物語の中に絡めとりたかったのか。

2021年9月20日月曜日

かかとを失くして/多和田葉子

この作品は、作者が初めて日本語で書いた小説ということだが、最初の題名は「偽装結婚」だったという。

「かかとを失くして」と「偽装結婚」。

前者のタイトルで読むと、外国の街で暮らし始めた女性が感じる周囲との異和感(その象徴としての欠けている「かかと」の不安定さ)が物語のメインテーマになるし、後者のタイトルで読むと、「書類結婚」という怪しげな方法で結婚した女性が、同じ家にいるはずなのに一向に姿を現わさない夫や、学校教師や病院の人々と繰り広げる奇妙なカフカ的な世界が前面にでてくるような気がする。

しかし、おそらく二つのテーマがお互いにねじり飴のように一つの作品に同居していると言ったほうが正しいかもしれない。

この奇妙な世界は、カフカの作品と同質であると言ってしまうのは簡単だが、それだけとは言い切れない。例えば、主人公が列車の旅でゆで卵を持っていたのに対し、この街では卵を縦に食べるために卵立てという道具が使われていることが説明され、主人公が異なる文化圏に足を踏み入れたことが具体的に明示されている点だ。

この前者「かかとを失くして」のテーマは、作者のほとんどの作品に通底しているような気がする。
ただ、日本語のデビュー作で、いきなり、こんな複雑な作品を書いていたことには驚いた。


2021年9月18日土曜日

ボルドーの義兄/多和田葉子

読み終えると、これは小説なのかと問いたくなるような斬新な作品だ。

作品の一節に、主人公の優奈が話すこんな言葉が出てくる。

あたしの身に起こったことをすべて記録したいの。でもたくさんのことが同時に起こりすぎる。だから文章ではなくて、出来事一つについて漢字を一つ書くことにしたの。一つの漢字をトキホグスと、一つの長いストーリーになるわけ。

ハンブルグに住んでいた日本人の主人公 優奈が、フランス語を学ぶために、女友達のレナの義兄が住むボルドーの家で暮らすことになるというのが、この物語の縦線ではあるのだが、物語の中心は、ボルドーでの新生活ではなく、ハンブルグのさまざまな記憶の断章によって構成されている。

そして、その切り取られた数々の記憶の断章を封印するかように、鏡写しになった漢字一文字でシールされているのだ。

まるで、その漢字で画鋲のように刺し止めないと、切り取られたうごめく記憶の断章が、このように一つの作品にまとまることはなかったとでもいうように。

その裏返しになった漢字は、日本人の私から見ると、私たちが見慣れた漢字ではなく、別の東洋の古代文字のような印象を受けるのだが、おそらくドイツや欧州圏の人たちが見る漢字とは、このような奇怪な形の文字のように感じるのだろう。
(この作品はドイツ語で書かれ、その後、作者によって日本語に翻訳されている)

あとがきで、日本語や中国語を勉強しているドイツ人がポケットに忍ばせている漢字カードをみた作者が、面白いことを言っている。

わたしはある時、漢字カードを魔除として使えそうな気がしてきた。...例えば、大変な光景を目にしてしまった時に、精神的な衝撃と、無数の解釈と、激しく掻き起された幼年時代の記憶に同時に襲われ、気が遠くなることがある。そんな時に「惚」とか「企」など、その場にふさわしい漢字カードをポケットから出して盾にすれば、身を守ることができると同時に、その瞬間を記録して、後で思い出す助けにもなるのではないか。

文字とは、新しい知識を得たり、世界とつながるための道具であるということは誰も異論ないと思うが、自分の個性や精神を守るための道具でもあるという視点は、私も含めて外国で暮らしたことのない人には、なかなか思いつかないことだと思う。

2021年9月12日日曜日

臨時ニュース/楠勝平 「1968[3]漫画」より

 楠勝平の作品をもっと読みたいと思い、色々と探してみたが、すぐに読めたのは、筑摩選書「1968[3]漫画」に収められている「臨時ニュース」だけだった。

この「1968[3]漫画」だが、「楠勝平コレクションで、山岸凉子が語っていた前衛的な作品が多く載っていたという「ガロ」の掲載作品が多くまとめられていた。

佐々木マキ、つげ義春、水木しげる、赤塚不二夫、藤子不二雄Aの作品などなど
(村上春樹が書いた「佐々木マキ・ショック・1967」という短文も収められている)

これらの作品群の中で、楠勝平の作品は、ある意味、もっとも地味でまともな内容だった。

なかよく暮らす父と娘と息子の3人家族。
そんな家族に突然災難が起こる。
娘が居眠り運転をしたタクシー運転手のせいで事故に遭い、びっこになってしまったのだ。
保険金の支払いと示談で話は進むが、父親が内心抑えている怒りを表すかのように、飼っている黒い犬は不気味な唸り声をあげる。
父親はある日、駅で偶然、そのタクシー運転手の男を見つけ、家まで付けるが、男の普通の家庭生活を垣間見、男を問い詰めてどうにかしてやろうという攻撃性は鎮まる。
最後に、犬を連れた父親とギター教室に行くびっこを引く娘が笑顔で散歩しているシーンがある。父親に連れられた黒い犬はやはり、うなり声をあげているが、その声は前に比べるとずいぶんと弱まっている。そこに肩にラジオを下げた男が通りかかる。ラジオからは、北京で日中親善団員58名が民兵に虐殺されたという臨時ニュースが流れる...という物語だ。

色々な解釈ができる物語だが、私には、家族を傷つけられた怒りを抑え、暴力の連鎖を断ち切り、娘と幸せそうに散歩する父親の姿と、北京で起きた凄惨な虐殺事件は実は紙一重の出来事だったということを暗示しているように思えた。

楠が江戸期の作品だけでなく、こうした少し政治的な作品も書いていたという点で意外だった。(1968年という時代は、そういう時期だったんでしょうね。)


2021年9月11日土曜日

楠勝平コレクション/山岸凉子と読む

山岸凉子が編集する他の作家の漫画コレクションというだけで興味津々だったので、この本は待ちわびていた。

全く知らなかった漫画家の作品集だったのだが、その作品の一つ一つに魅了された。

楠勝平は、1944年、東京に生まれ、中学生の頃から心臓弁膜症を患い、「カムイ伝」の白土三平のアシスタントの傍ら、江戸時代を中心とした市井の人々の生活ををこつこつと描いていたが、病が悪化し、三十歳の若さで亡くなっている。

しかし、五十年近く経った今でも、その作品の魅力は失われていない、というより、この時代になったからこそ、その真価が見え始めたのかもしれない。

楠勝平の作品から浮かび上がる、貧困、女性の自立、病、人の弱さ、やさしさ、家族、死というキーワード。

山岸凉子があとがきで、楠作品は「メジャーで普遍的な世界を描いている」と言っているが、その指摘は正しいと思う。

それと、絵が温かい。
「おせん」が花瓶を割ってしまい、それを男のせいにしても、彼女がちっとも悪者にみえず、同情したくなってしまうのは、彼女が朝早くから晩まで家族を養うために必死に働いている姿をリアルに描き切っているからだと思う。

「やすべえ」も、浮浪少年が、明日の食べるための鮒もつれず、誤って川に落ち、ずぶ濡れで雨の中を歩いているときに、見かねた婦人が自分のさしていた傘を渡す場面がある。そして、やすべえが傘を差しながら空っぽのはずの魚籠をみると、小さなメダカが入っていたという何気ないシーンが続くのだが、不思議と温かな気持ちが読後に残る。

「彩雪に舞う…」は、病に苦しみ、死にいく少年が主人公なのだが、彼が病床から見える庭の木に留まった小鳥たちの会話を想像し、笑顔を浮かべるシーンは印象的だ。
(熱で寝汗を掻いて、寝床から出てタンスから着替えを出して着替えるシーンが、ものすごくリアルだ)

「大部屋」も、心臓病を患った人々が入院している病院の大部屋の様子を描いているのだが、これもリアルだ。(髪をぼうぼうに伸ばしている青年は、楠本人だろうか?)
病院に出入りする床屋と果物屋。執刀医への心づけ。他の患者や医師たちの噂話。
添い寝している寝相の悪い女性の足にドギマギする患者。
死んだ病人の遺品を無言で片づける看護師。
最後に、髪の毛も切ろうという気力もないほど、病状が悪化した青年(楠本人?)の姿が印象的だ。

楠のもっとほかの作品を読みたいのだが、絶版状態になっているらしい。

2021年8月22日日曜日

エーゲ 永遠回帰の海/立花 隆 [写真]須田慎太郎

 立花 隆の著書に、こんな本があったのかという驚きを感じながら読んだ。

1982年夏、立花 隆がカメラマンとレンタカーと船に乗って、エーゲ海沿岸を旅した記録が収められている。
冒頭に収められた数々の遺跡の力強い写真と、そこに添えられたゴシック大文字で語られている、立花隆の歴史観を表す言葉が印象的だ。

立花 隆は、須田カメラマンとともに、観光コースに組み込まれている遺跡や人里はなれた山の中に埋もれて誰一人訪れることのない遺跡を一つ一つ丹念に見て回ったという。
そして、その遺跡の前で「黙って」かつ「しばらく」(二時間くらい) 座ってみたという。

そのうち、二千年、あるいは三千年、四千年という気が遠くなるような時間が、目の前にころがっているのが見えてくる。抽象的な時間ではなく、具体的時間としてそれが見えてくる。…

突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思いちがいをしていたのにちがいないと思いはじめていた。…

最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。

記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。

本書は「偉大なるパーン(宇宙の根源)は死せり」という大音声が天上から発せられたローマ帝国ティベリウス帝時代の逸話から始まり、それは、異教の神々が支配した時代の終焉と、キリスト教の世界支配の開始を示す転換点だと述べている。

ギリシアが、ローマ帝国の支配を受けることで、ギリシアの神々はローマの神々と同化し、「ギリシア・ローマ神話」にまとめられ、キリスト教がローマ帝国の国教となる過程で、後期ギリシア文明をたっぷりと吸収したことが指摘されている。
(アジアの地母信仰がギリシアのアルテミス信仰に変容し、それがキリスト教のマリア信仰に形を変えていった)

イエスの存在に象徴される、神が不死ではなく、死ぬ可能性もあり、死んでも復活する能力というのは、ユダヤ教にはなく東方的な要素であるという。

ただ、一点、キリスト教が、ギリシアの神々やアジアや東方の神々と同化しなかった部分は、性を原罪ととらえていた点で、男根を象ったブロンズ像や、陰部、腰、腹が強調されている地母神の像の写真が載っているが、古代の異教の神々のもとでは、セックスが聖なる信仰の行為として捉えられていたことがよく分かる。

立花隆が、性を禁忌として最大限に抑圧する宗教(キリスト教)が生まれて二千年後の今、どのような社会が現出したかというと、むしろ性の解放をもってよしとする社会だったと言えるのではないか、と指摘しているが、妥当な認識だと思う。

立花隆が、本書は田中角栄の裁判の傍聴から離れ、遠く宇宙や古代世界に自らを解き放つ仕事だったと述べているが、忙しい雑務から解放され、力みが抜けたストレートな知的好奇心が美しい写真とともに滲み出ている。

あとがきで、立花隆が田中角栄の裁判を巡る仕事に忙殺され、本書の完成になかなか手を付けられなかった経緯が述べられているが、本当に残念だったと思う。

本書は、ニーチェの永遠回帰の思想や、世界で初めての哲学者と言われるタレスの言葉「万物のもとは水である」をめぐる思想など、旅行記にとどまらず、歴史や哲学、文明論まで含んだ総合的なテーマを扱うものだったからだ。

まさに、立花 隆にうってつけのテーマだ。

田中角栄研究の著書も素晴らしいとは思うが、本書のようなテーマにもっと取り組んでほしかったと、つくづく思う。




2021年8月12日木曜日

雲をつかむ話/多和田葉子

題名通り、最初それはつかみどころのない、ばらばらな話なのかと思ってしまったが、全体を読み終わると焦点がしぼられるようにその知的な構成がぐっと前面に出てくるような、いかにも小説らしい小説を読んだという気分になる本だ。

12章から構成される中編小説なのだが、作者が出会った犯罪者の話が章ごとに書かれている。

1章…警察に追われ、姿を隠すために作者の家を訪問した殺人犯のフライムート青年の話

2章…作者の郵便ポストに投函された日本の文芸雑誌を盗んだ十歳の少年の話

3章…殺人未遂罪で牢屋に入っていたZという詩人の話

4章…作者が地方の文学祭に呼ばれた際に泊まったアルタースハイム(老人ホーム)を作った妻を殺した牧師(蟻が原因で犯罪が判明)の話

5章…小学校を中退し司法試験を目指していた(前科があり諦めた)マボロシさんという舞踏家の話

6章…独房に長く入れられ言葉が話せない中国人の亡命詩人の話

7章…無賃乗車を繰り返す青年オスワルドとその双子の青年ヴェルナーの話

8章…クリスマスに招待された知人の家で会った夫殺しの女性ベアトリーチェの話

9・10章…ベニータ(作者は紅田と呼ぶ)と、彼女の胸をナイフで刺した友人のマヤとの奇妙な関係の話

11章…作者は1~10章の犯罪者が搭乗している飛行機の中にいる(心象世界)

12章…作者の精神状態を気遣い、犯罪者とは会わないようにと忠言する女医の話(心象世界?)

1章ごとに読ませる内容になっている。
特に7~12章は面白くて一気に読んでしまった。

一貫して感じるのは、作者自身が移民であること、外国人であることの意識から生じる、ドイツの日常世界とは一歩距離を置いた慎重な姿勢と、その反動からなのか、犯罪者に無意識的に近づいてしまう隠された好奇心である。その意識的なブレーキのかけ方と無意識的なドライブ全開の感じの奇妙なギャップが作者の言動から浮かび上がってきて面白い。

ところが、12章で描かれる女医は、無意識の世界に登場する、その好奇心にブレーキをかけようとする存在だ。その自信に満ちた言動から、女医という存在は、作者がともすれば犯罪者と同じ道に転がりそうになる精神にブレーキをかける重要な役割を持っていることが分かる。

ミイラ取りがミイラになる、朱に染まれば赤くなる、を防ぐための基準。
そういった線引きをきちんと最後に示したこの作品は、タイトルの「雲をつかむ話」=「つかみどころのない話」とは、まるで違った様相を呈していることも興味深かった。

PS:個人的に面白かったのは、6章に出てくるキーワード「オクラホマ・シティ」と、それを「どこでもない場所の真ん中」と作者が言った場面だ。
前者はカフカの作品「アメリカ」(失踪者)で、主人公カールが採用された劇団(「オクラホマ劇場」)のことだが、「どこでもない場所の真ん中」とは、村上春樹の「ノルウェイの森」で、僕が最後に緑に言った言葉ではないか。




2021年7月25日日曜日

ものぐさ精神分析/岸田 秀

私がこの本をおそらく高校生時分に読んだのは、橋本治の「桃尻娘」に引用されていた本だったからではないかと思う。
今、読み返すと、全く記憶がない章があったし、これは高校生には理解できないだろうというテーマもあった。

ただ、この本を読んで、これはすごい本だという記憶は確かにあった。当時は、ろくな本を読んでいなかったと思うが、それでも、この容赦のないほどの論旨の明快さが心に突き刺さったのだと思う。

今こうして、この本を久々に再読すると、岸田秀が唱えている唯幻論のほとんどのテーマ(歴史、性、人間、自己)が網羅されており、この一冊を読めば、彼の主張は理解できる内容になっていることに驚いた。
処女作にして、すでに彼の唯幻論は、ほぼ完成していたことを証明している。出し惜しみもない。

個人的には、「自己嫌悪の効用」が特に強烈である。自己嫌悪の原理を分かりやすい言葉で説明するその一文に、醜い自分の姿が鏡に映し出されたような気分を覚える。
こういう恐ろしい読書体験はめったにない。


2021年7月11日日曜日

高校生からのフロイト漫画講座/コリンヌ・マイエール=作 アンヌ・シモン=画 岸田秀=訳

精神分析の創始者であるジークムント・フロイトの生涯を漫画で描いているのだが、よくできていて、彼が精神分析で唱えた無意識の存在(錯誤行為、夢、エス・自我・超自我の三層論)や神経症の原因(抑圧、リビドー、エディプス・コンプレックスなどの理論)が、奇妙かつ少し不気味で大胆な図柄で分かりやすく説明されている。

巻末の訳者である岸田秀の小文が分かりやすい。
フロイトが生まれたのは1856年。ユダヤ人として生まれた。
当時のヨーロッパはビクトリア時代の最盛期で、ビクトリア時代とは、分かりやすく言えば、理性の時代だった。

自分を理性で律することが求められ、理性に反すると思われる性の衝動や感情や欲望を非難し、自分の中のそういう衝動の存在まで否定することを強いられる時代だった。そして、ヨーロッパを覆っていたキリスト教もセックスを罪悪として捉える宗教だった。

要するに人間らしい感情を否定し、紳士淑女を気取らなければならない非常に窮屈な時代だった。

その抑圧によって神経症を発した様々な患者の話を聞くうちに、フロイトの精神分析論は発達したということが説明されている。

そして、フロイトが神経症の原因に気づいたのは、彼の才能だけでなく、彼が差別される側のユダヤ人であったことも影響していたのではないかと述べている(差別者の醜い面は非被差別者には丸見え)。

フロイトの理論は常識的なことばかりで、ほとんど民衆の知恵や箴言(例えば、性格形成における幼年期の重要性は、「三つ子の魂百まで」)で説明できるという指摘も面白い。

しかし、岸田秀自身が自らの強迫神経症と鬱病と幻覚の治療のため、フロイトの著書を読み漁ったように、フロイト理論は、生活の知恵として知っておいて損はないものなのかもしれない。

漫画の最後は、フロイトの以下のような言葉で締められているが、精神分析の本にありがちな暗い印象がないというのも本書の特徴と言えると思う。

精神分析の戦いとは、欲望を開放すること
そして、理解しようとすること
もちろん、これらはすべて喜びなのだ
私の名、フロイトは「喜び」という意味だ。忘れないで! 

 

2021年7月4日日曜日

嘘だらけのヨーロッパ製世界史/岸田秀

マーティン・バナールの著書「黒いアテナ」は、ヨーロッパ人がヨーロッパ文明の源流であると思っていたギリシア文明が、実はエジプト文明やフェニキア文明から派生したものであるという説を述べているらしく、様々な批判があったらしい。

本書は、そのバナールの主張に対する批判を一つ一つ紹介し、検証しているのだが、岸田秀の考える古代エジプト人は黒人だったという説や、白人は黒人に差別され、追い出された種であるという説、その追い出され、恨みを持ったヨーロッパ人の思想を押し付けられた日本が大日本帝国を作り上げたことを取り上げたことなどを取り上げており、本のタイトルとはほとんど関係ない考えが脱線気味に述べられている。

本書で一番面白かったのは、大日本帝国がかつて理念として掲げていた「欧米諸国による植民地主義からのアジアの解放」という理念を、今は中国や北朝鮮が引き継いでいるのではないかと述べているところだ。

かつて、日本は「アジア解放」の理念を共有する同志を、中国や朝鮮に求めたが、理解されず、彼らを頼むに足らずとみなしていたが、今は全く逆の立場で、中国や北朝鮮が、あれだけ「アジア解放」を主張していた日本が、敗戦後、米国の子分となり、アメリカ的享楽生活にうつつを抜かしていると見ているのではないかという指摘だ。

この本は、2007年に書かれたものだが、現在の中国の立場は、まさに欧米諸国から総スカンを食らっており、この本で指摘しているような対立が実際に起きていることが面白い。
個人的には、香港や新疆ウイグル自治区における人権弾圧の実態を見るかぎり、それは中国が悪いのだという思いが強いのだが、作者が指摘しているような欧米諸国によるアジア叩きという側面も感じる部分はある。
(本書で、米国は日本と中国が同盟関係を結ぶことを最も恐れているという指摘は、たぶん本当だろう。田中角栄はそれで失脚したという説があるぐらいだ)

また、日米戦争について、東京裁判で日本は全面的に悪くアメリカが絶対的に正しかったということを、アメリカは躍起になって証明しようとしていた点を指摘し、

歴史は長い目で見なければならない。日米の道義戦争は、最終的勝負はまだ決まってないのだから。軍事の勝敗は、たかだか当面の利得損失の問題でしかないが、道義の勝敗は、百年先、千年先まで響く国家存立の精神的価値の根拠に関わる問題なのだから。

と述べているのも興味深かった。(日米の戦争が終わっていないなんて、今の日本で誰がそんなことを想起するだろう)


2021年6月27日日曜日

一神教 VS 多神教/岸田秀

 一神教というと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が三大宗教だが、そのルーツは、ユダヤ教にあり、ユダヤ教からキリスト教が派生し、さらにイスラム教が派生したという。
(宗教ではないが似たような構造で、マルクス主義と大日本帝国の天皇制を挙げている)

岸田秀の説では、モーセに連れられてエジプトから脱出した人々は差別されていて、パレスチナににやってきて、ユダヤ人になったという。

しかも、その差別されていた理由は、ユダヤ人が白人だったこと。人類は、アフリカの黒人種を共通の祖先とし、その黒人種が中近東からヨーロッパに入って白人種となり、白人種がさらにアジアに入って黄色人種になったという。
アフリカの肥沃な土地からヨーロッパの寒冷な痩せた土地に追い出された白人種は、黒人の間で気味悪がられ、追い払われたという仮説である。

つまり、ユダヤ教は、もともと差別された人々の宗教であり、だから、その宗教には”恨み”がこもっていた。それが一神教の特質だという。

一神教の特質として、神は復讐欲が強く残酷な罰を与える傾向がある。また、自分のものと違った信仰、考え方、見方をすべて認めない点がある。

もともと、ヨーロッパ民族にも、独自の多神教(ギリシア神話、ローマ神話、ゲルマン神話、ケルト神話など)があったが、ローマ帝国の軍事力によって、ヨーロッパの人々にキリスト教が押しつけられた。

人間は押しつけられると押しつけ返す(被害者が加害者に転じる)傾向があり、近代ヨーロッパ人の行動の基本パターンは、世界中の諸民族にキリスト教を布教(押しつける)し、植民地化を進める猛烈な行動エネルギーとなった。
(アステカ帝国やインカ帝国の滅亡、アメリカ先住民の虐殺など)
そして、黒船来航で同じ思いを押しつけられた日本は、朝鮮に対して押しつけ返した。

以上の通り、岸田秀は、一神教に対して強い批判を持っており、その理由として、一神教は、唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が、人類に最大の災厄をもたらしているという点を挙げている。

強い自我というと、よい印象も受けるが、自我が不当に被害を受けると、回復しようとする衝動を持つのが自我の宿命ということで、いわゆる復讐欲は、失われた自我の位置づけを回復しようとする衝動であるという説明をしている。
(個人的に、この指摘にはどきっとしました)

岸田秀が、神社に初詣に行き、結婚式を教会で挙げ、葬式でお坊さんがお経を読み上げる日本のちゃらんぽらんな感じのほうが健全であると指摘しているのが面白かった。
追い詰められたり、不安に強く襲われると、一神教が求められる傾向が強くなるという指摘も興味深い。

この本は、確固とした自我を持たなければならないと焦っている人や、無宗教であることに引け目や不安を感じている人にとっては、よい解毒剤になると思う。

2021年6月26日土曜日

立花隆の時代

立花隆さんが、今年4月30日に亡くなっていたというニュースをみて、私も一つの時代が終わったなという感慨を抱いた。

今でも、本棚に見え隠れする立花隆の著書。

「田中角栄研究」
「ロッキード裁判批判を斬る」
「日本共産党の研究」
「農協」
「中核VS革マル」
「宇宙からの帰還」
「宇宙よ」
「文明の逆説」
「サル学の現在」
「青春漂流」
「精神と物質」
「脳死」
「知のソフトウェア」など

作者のこの頃の著書は、むさぼるように読んでいたような気がする。
一貫して感じるのは、彼の仕事の誠実さと桁外れの知的好奇心だ。

膨大な資料を徹底的に読み込み、事前に勉強をしてから、対象者にインタビューを行う。
新聞や雑誌の関連記事は、テーマごとにスクラップブックにファイリングする。
収集した情報に基づき、年表や図表を作成し、事実関係を整理し、分析する。
(この辺のノウハウは、「知のソフトウェア」に詳しい)

徹底した事実認識に基づき文章を書く。実にオーソドックスなやり方といえるかもしれないが、このようなスタイルで仕事を貫いているジャーナリストは今、いるのだろうか。

知的好奇心という点では、著書のタイトルを見ればわかるが、政治、宇宙、人体、環境問題、絵画など、あらゆる分野に口を突っ込んでいた。自らを学問のディレッタント(好事家)と呼んでいたが、「文明の逆説」のような、やたらスケールが大きい本を書いていることからもわかる。

私個人の勝手な思いだが、立花隆は、インターネット時代到来前のほうが、ずっといい仕事をしていたような気がする。膨大な紙の資料をかき集め、そこから情報を抽出し、有機的に結び付け、隠れていた事実を明らかにし、時の政権を倒すことに寄与するほどのペンの強さを見せつける。今思うと、まるで神話のような話だけれど。

そういう堅実な方法で膨大な著書を書き上げ、ジャーナリズムの黄金期を作った人であることは間違いない。

2021年6月19日土曜日

唯幻論始末記/岸田 秀

わたしは、岸田 秀の著書「ものぐさ精神分析」を読んでから三十年以上、彼の著書を読まなかった。

その事に引っかかり、自分の心を探り、おおよそ見当はついたのだが、この本を読んで確信に変わった。

自分は、 彼の著書を読んで、おそらくは危険だと感じたのだ。
彼が唱える「唯幻論」は、破壊力のあるバズーガー砲のように、世の中の確固とした(と思っていた)常識を容赦なく打ち砕いていく。

性欲も、宗教も、歴史も、日本とアメリカとの関係も、親子関係も。

とりわけ、親子関係(母親との関係)に関する彼の容赦のない分析は、たぶん、高校生の頃の幼い精神には耐えられなかったに違いない。

彼の主張は、ほとんど明確に理解できるし、納得できる。論理的におかしなところがない。
特に対米関係において、日本が属国であることに心の底では気づいているが、表面上取り繕うことが習い性になり、そのせいで国のアイデンティティが揺らぎ、日本人の多くが自分とは何者なのか、何のために生きているのか、どう生きればいいのか分からなくなっているという主張には、ほぼ100%同意できる。

しかし、その鋭利な刃物のような分析の根拠が、作者の本来プライベートな部分をさらけ出すことで明確になっているのは事実であり、その特異性には、今になっても恐ろしさを感じる。

本書の最終章「消えた我が家」は、儒教的な価値観で言えば、岸田秀自身が言っている通り、「親不幸の最たる者」ということになるのだろう。しかし、それを自認し、一連の悲劇を隠さずさらけ出していることにある種の感銘すら覚える。

わたしが、若い頃、彼の著書から本能的に距離を置いたのは間違いではなかったように思う。ある種の劇薬のような強さがあるので、読む人はご注意を。

2021年6月13日日曜日

幻獣の話/池内紀

「世に役に立たない本はない」というが、「幻獣辞典」を書いたボルヘスの「むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」という言葉は真実だと思う。

マルコ・ポーロが東方見聞録のなかで、スマトラの一角獣や侏儒、樽のような蛇を語った時、ヨーロッパの人々はまだ見ぬ東方の世界に想像を逞しくすることができたのだろう。

しかし、世界の津々浦々まで踏破され、科学知識が行き渡った現在でも、「幻獣」はいると思う。

それは、確かに人の心の中にいる。精神病患者の不思議体験、文学作品に現れる奇妙な動物(村上春樹の「羊男」だって「幻獣」だと思う)。

本書は、ドイツ語文学の翻訳を手掛けた池内紀だけあって、ボードレールやフローベル、ポオ、カフカ、寺山修司の作品についても触れられている。

興味深かったのは、ダニエル・パウル・シュレーバーの幻覚の話だ。
有能な法律家だったが、四十二の時に精神変調の兆しを見せ、回復するも、五十一で再発。強度の幻覚症状を示した。医師の診断はパラノイア。

彼は「女であって、性交されているならば本当に素敵であるに違いない」という妄想に襲われる。

男性生殖器が「撤収」され、ついで内生殖器の同時的改造が進む。そして、これが奇妙だが、数ミリの大きさのそっくりよく似た「チビ男」の二人組が現れ、頭の上で会話をしたり、瞼をつねったり、食べた食事の一部を食べたりしていたらしい。

エレベータに乗ったような状態で地球の深部に降りていき、地球の全歴史を逆行するかたちで体験し、「人類の原始原」を示す第一地点にも足を踏み入れたという。
精神病理学では「世界没落」の幻覚というらしい。
(ケン・ラッセル監督の撮った「Altered states」のような世界をイメージしてしまう)

本書では、作者は結論めいたことは言わないが、なぜ、その人の前に「幻獣」は現れたのかという、その人の生活や社会的立場に視点を当てていて、読んでいて興味深かった。

2021年6月12日土曜日

日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論/岸田 秀

実に理路整然とした文章だ。矛盾を感じる部分がない。

まず、岸田は、人間について、歴史についてこう定義する。

動物は本能に従って生きているから、物語を必要としないが、人間は本能が壊れているから、物語(歴史)を作る。

人類が賢明であるという思い込みこそが最も愚かな幻想。

愚者がわけもわからず試行錯誤しながら何とかやってきた病的現象として理解する必要がある。

自分の愚かさを知った人間のみが、その分だけ、少しばかり利口になる。

そして、歴史を振り返り、日本は常に外的自己と内的自己とに分裂してきた国であると主張する。

外的自己とは、日本が外国の属国であることを容認し、外国を崇拝し、外国に適応しようとする自己であり、

内的自己とは、外国との関係を避けて自己の中に閉じ籠もり、外国を軽視し排除して、自己中心的・誇大妄想的に なって、外国を蔑視し攻撃しようとする自己である。

日本は、古代・中世においては、中国に対して、近代・戦後においては、米国に対して、分裂した外的自己と内的自己とが葛藤し続けてきたという説明が実に明快だ。

日本がなぜ、工業生産力が十倍もある米国と戦争を始めようとしたのか、それはペリーの黒船以来の脅迫と侮辱に対する復讐だったという説も興味深い。

そして、太平洋戦争の結果について「馬鹿な軍部が暴走した。国民が騙された。」という、今日、多くの人が支持している定説を信じることに警鐘を促している(騙されたとぼやく人はまた騙される)。

彼らは気が狂っていたわけでも馬鹿だったわけでも極悪人だったわけでもない。開戦するほかないと判断した彼らの心情を検討する必要がある。

彼らを狂人とか馬鹿とか極悪人と決めつけて事足れりとする人は、彼らが当時置かれていた状況と同じような状況に置かれれば、同じように開戦するほかないと判断するであろう。

彼らが正常な心で開戦するほかないと判断したとき、その判断には、彼らの主観としては、当然過ぎるほど当然な正当性のある根拠があったはずである。それらの根拠をすべて白日の下に晒し、ひとつひとつ詳しく検討し、それらの根拠が目の前にあって迫られていても、戦争に訴えないことができるだけの理論を構築しておかなければ、戦争を防ぐことはできないであろう。

日本国憲法の改憲についても、日本が実質的にアメリカの属国であることを認めないまま、属国を脱することのないまま、自主憲法を作れば、できあがった憲法は今よりももっとアメリカに都合のよい憲法になることが目に見えているという指摘にも反論が難しいように思う。

わたしが「ものぐさ精神分析」を読んだのは、高校生の頃だった。それから随分とご無沙汰して読んだ本書だったが、岸田 秀の切れ味鋭いナイフのような分析は健在だった。

2021年6月6日日曜日

詩歌川百景①/吉田秋生

海街の番外編で描かれていた、すずの義弟 和樹と彼を取り巻く河鹿沢温泉での人間模様。

吉田秋生は、前作でも、本当の家族ではないけれど、それに近い緩やかな人間関係を描いたが、その枠組みは本作も同じだと思う。

両親の離散、死別により、行き場を失った和樹とその弟 守を、温泉旅館あづまやの孫娘 妙と大女将である祖母が見守る。というより、強力にサポートする。

湯守の倉石さんという父親的な存在も配置されているが、これも前作の海街同様、圧倒的に母性的な存在が強い。

この温泉旅館あづまやは、強く賢い女性たちによって、秩序が保たれている世界なのだ。

妙の母親のキャラが、海街の幸たちの母親と全く同じだったりして、配置人物に既視感が漂う。

そういう意味で新鮮味はないかもしれないが、前作同様、人間模様は細かく描かれていて、読んでいてリラックスできる作品になっている。

2021年6月5日土曜日

ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録/片山夏子

原発作業員のインタビューや記事というものを、主要メディアでは、ほとんど取り上げない。

取り上げる価値がないはずがない。彼らがやっているのは、被爆のリスクと戦い、廃炉という福島を原発のない土地に戻すための40年以上かかると言われている必要不可欠な作業のはずだ。

こういう本を読むと、日本という国は、国が国民に見せたくない都合の悪い情報が統制されていることがよく分かる。
そして、選挙になると、真っ先に福島県に駆け付け、「福島の復興を政府の最重要課題として取り組む」などと言ったり、「廃炉や汚染水処理が最重要課題」だと言う政治家が嘘つきだということがよく分かる。

原発作業員の勤務条件が悪すぎるのだ。
とりわけ、2011年12月26日に、当時の民主党 野田政権が出した「事故収束宣言」で、作業員の賃金や危険手当、諸経費がカットされていた事実は知らなかった。
(しかも、これ以降、本を読み進めても給与等の待遇は改善されるどころか、下がっていく)

最も衝撃だったのは、「5年で100mSV」という国が定めた被ばく線量の限度を超えると、作業員が働けなくなってしまうため、線量計を鉛カバーに入れて作業するよう指示していた下請け会社があったことだ。
さらに、「高線量要員」として、短期雇用の臨時作業員を雇い、放射線量の高い場所ばかりを作業させ、年間被ばく限度の20mSvぎりぎりまで使い倒すという非人道的なことまで行われていたということだ。

多くの作業員は、多重下請け構造の中で勤務しており、7次請けや8次請けまで連なっておる。

労働者にとっては、手取りの給与額が、中間業者によって手数料などの名目を差っ引かれて減額され、労働安全衛生上の管理責任があいまいになる。

防護服と全面マスクを被って酷暑の中、汗が水のようにマスクの中にたまるが、内部被ばくしてしまうため外せない。熱中症になって、会社に報告しても、東電の建前上、労務管理が出来ていないことを隠すため、報告はされず、労災扱いにならない。

「俺たちは使い捨てだから」と嘆く作業員。そういったやりきれない言葉がつらい。この本に掲載された作業員のほとんどの人たちは、福島をよくしたいという思いから、身を投じた人たちであることが分かるからだ。

一方で、作業員が地元の被災地の老人から聞いた、2014年のオリンピック招致の際の「オモテナシ」が「オモテムキ」と言い換えられたり、安倍首相の発言「アンダーコントロール」が「情報がコントロールされている」と言い換えたというエピソードも載っていて、人の精神の逞しさが描かれていて、ほっとする部分もある。

様々な作業員の話を、いわき市内の居酒屋の個室などで長時間、聞いて、それを一つのエピソードに書きあげるという地道な作業を繰り返した筆者に敬意を表したい。
それは機械的な作業ではない。人の話を聞き、それを文章にするということは、その人の思いも自分の中に取り込まなければならないからだ。

巻末に、筆者が2014年2月、一行も原稿が書けなくなったというエピソードが載っていた。

福島第一での過酷な作業、そこで働く作業員のこと、そして自分の思い…を書こうとしたが、まったく手が動かなかった。心も体も一杯いっぱいになっていた。

9年間の取材でぼろぼろになった大学ノート179冊が筆者の手元に残ったというが、その努力がずっしりと伝わってくる本だ。

2021年5月24日月曜日

みっちんの声/池澤夏樹

池澤夏樹が、2008年から2017年、約十年間に行った十数回の対話集が収められている。
石牟礼道子の育った環境や家族のことが書かれていて、興味深く読んだ。

石牟礼道子が、他人が書いた小説をほとんど読まず、彼女の文学の源泉が、彼女が幼い頃、彼女の家に集まって交わされる大人たちの話し言葉だったというのは面白い。
彼女は「苦海浄土」を書いているとき、「見えない袋からひゅっと絞り出す」と表現しているが、その記憶にあった村の言葉や家の言葉を思い出しながら文章を書いたという。

しかし、幼い頃の彼女の記憶がそれほど鮮明に残っていたというほうが、驚嘆すべきことなのかもしれない。

もう一つ面白いのは、池澤夏樹が石牟礼の作品を読んで、自分は魂の問題を扱えない、それらしい事しか書いていない、「文学ごっこ」しかしてこなかったと、繰り言のように石牟礼に述懐しているところだ。(2012年5月19日の対談)

池澤夏樹が、当時、被災した東北を目の当たりにして、自分も「椿の海の記」のような作品を書いて、東北の人々の歴史や暮らしを再現したかったという思いが感じられる。
しかし、一方で、石牟礼道子と自分の文学の成り立ちがまるで違っていて、決して真似することもできないということにも気づいていて、その思いを石牟礼と対話することで自分を慰めているようにも見える。

最初は多くを語っていた石牟礼が、病気のせいで段々と言葉少なになり、対話の時間も短くなっていくのがせつない。

しかし、その限られた時間さえ、池澤夏樹にとっては至福の時間だったに違いない。

2021年5月23日日曜日

無垢の歌 ウィリアム・ブレイク/池澤春菜・池澤夏樹 訳

この詩集を読むまで、ウィリアム・ブレイクが、こんなに真っ当なポジティブな詩を書く詩人だとは知らなかった。

同時に、これほどキリスト教のピューリタン的な「無垢」という価値観に依った詩だということに驚いた。

池澤春菜の訳は、神や宗教をあまり感じさせないポップな感じの軽いタッチの訳し方で、ブレイクの詩の持つ本来の明るさをうまく伝えているような気がした。

そして、それに父親の夏樹が、詩の背景・意味を解説するという構成もよい。

ストレートな善のパワーを感じる詩というのも、いいものだと思った。
(今、こんな詩を書く人はいるのだろうか)

*はずかしながら、私のウィリアム・ブレイクの知識は、ジム・モリソンが、ブレイクの詩集「天国と地獄の結婚」の一節 ”If the doors of perception were cleansed, every thing would appear to man as it truly is, infinite.”(知覚の扉が清められたら、すべてのものはありのままに無限に見えるだろう)から、ドアーズの名前をとったことぐらいしか知らなかった。

ドアーズの印象に引きずられて、ドラッグに関わっているような詩人のイメージを持っていました。。



2021年5月22日土曜日

されく魂 わが石牟礼道子抄/池澤夏樹

池澤夏樹が十数年にわたって書き続けてきた石牟礼道子論。
読んでいて感じるのは、池澤がとにかく石牟礼道子の作品の魅力をあまねく知ってもらおうと渾身の力を振り絞って書評を書いていることだ。

本来はそれが理想の書評というものなのかもしれない。
何度も何度も繰り返し同じ作品を読んでは、その魅力を解き明かそうと努め、また読み直しては欠落していた部分に気づき、時にはそれを恥じて、改めて書き直す。

池澤夏樹は、個人編集の世界文学全集に、石牟礼道子の「苦海浄土」を、日本文学全集に、「椿の海の記」などを入れている。

こんな編集をした全集はかつてないし、池澤夏樹の思い入れの深さが分かる。

彼がここまで石牟礼道子の作品を高く評価している(というより愛している)理由は、弱者の視点からの文学という特徴もあると思う。しかも、その弱者は、石牟礼が生み出した美しい人間らしい豊かな言葉で、かつての水俣の海を、人々の様子を話す。

そして、実は、その弱者こそが本当の人間で、彼らを貶め、阻害し、退けようとした国や会社や社会の制度こそが「非人間的制度」だったというパラドックスが立ち現れる。

池澤夏樹は「苦海浄土」をこんな風に説明する。

制度の側に立つ人々がひたすら患者との対面を避け、制度の中に立てこもろうとするのに対して、患者の方は相手を人間として自分の側に回収しようとするのだ。どうしてそのようなことが可能なのか、人間に希望があるとすればまさにこの一点。制度の壁を越えて、顔もなく名もなき、職名だけの相手にも人間を見ようとするおおらかな、彼ら自身が笑うごとくどこか滑稽な姿勢の中にこそあるとぼくには思われる。

水俣に始まり、生涯、熊本さえ訪れる機会のなかったはずの漁民たちが患者代表川本輝夫に率いられ「非人」となって東京へ行く。天子さまの都に上る。東京駅の前に坐り込み、最後はチッソの社長室に至る。巡礼行は実は出世双六であったという笑うべき展開。あまりの悲惨さに『苦海浄土』はしばしば滑稽になる。笑うしかないという事態に行き当たる。

水俣病の前にあった幸福が感じられる「椿の海の記」についても、四歳のみっちんが実は同年配の友人がほとんどおらず、いつも山や海という「異界」で遊んでいた孤独を持っていたこと。そんな異界に属する者であったからこそ、水俣病の患者たちに対して、高い共感能力を示すことができたという点も興味深い。

録音機もなく、メモも取らず、数回しか会っていない患者の思いをあの文体で書いたことについて、「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と石牟礼が言い切ったという。

あの美しい話ことばが、高い共感能力と文章力を備えた石牟礼を通して生み出されたことを思えば、「苦海浄土」は、ルポルタージュ、ノンフィクションではなく、まぎれもなく文学作品だ。

石牟礼は幼い頃、水俣の村の老婆に、眸をのぞかれ、「この子は、…魂のおろついとる。高漂浪(たかざれき)するかもしれんねえ」と宣託されたという。

タイトルにもなっている「されく」は、水俣のことばで、魂がさまようことをいう。それに、石牟礼道子が「漂浪く」という漢字をあてた。

美しさと悲しさが入り混じった、石牟礼道子という人にふさわしい言葉だ。


2021年3月21日日曜日

ETV特集 原発事故“最悪のシナリオ”〜そのとき誰が命を懸けるのか〜

2011年3月12日、福島の第一原子力発電所 1号機建屋が水素爆発し、3月14日、続いて3号機建屋が水素爆発した。

この時、東京電力は、最悪の事態を想定し、第一原発(大熊町)の緊急対策本部を第二原発(楢葉町)に移そうというプランを持っていた。免震重要棟にいる作業者の命を守るためという最もな理由だった。

事故後にまとめられた報告書では、東電は第一原発から全面撤退するつもりはなかったということを述べているが、当時の菅直人総理が率いる民主党政権の内閣危機管理監の証言によると、第二原発に人を移すということは、第一原発はコントロールできない状態になる(いずれメルトダウンが発生する)という説明を東電は行っていたという。

菅総理は、東電の申し出に対して、それはあり得ないとはねつけ、東電に対する国の関与を強めるため、東電本店に統合本部の設置を決定した。
この時3月15日に、さらに4号機建屋が爆発する(2号機の爆発と思われていた)。
現場の指揮を執っていた吉田所長は、即死レベルの高線量を想定し、現場から離れる許可を東電本店に求めたが、菅総理は給水(燃料棒を冷やす冷却水)の者だけ残せという答えだったらしい。

番組では、NHKスタッフが憲法第18条を持ち出し、「何人もいかなる奴隷的拘束を受けない」という規定があるが、菅総理の指示はこれに抵触するものだという指摘をし、菅総理は「超法規的措置」としか答えようがない場面が収録されている。

米軍(米側)は、使用済み核燃料を大量に保管しているプールを保有している4号機が爆発し、火災まで発生していることを重く見、確実な注水を行うよう、日本側(防衛省)に「英雄的行為」を求めた。

この「英雄的行為」とは、1986年チェルノブイリ原発事故で、自分の命を犠牲にしてまで事故終息に当たった人々を指していたらしい。
言葉はきれいだが、「高線量に被爆しても、とにかく、やれ」という生々しいものだったらしい。

この米側の圧力もあり、4号機にヘリコプターから放水活動を行うことになるのだが、水蒸気爆発の危険もあることは、ヘリを操縦する自衛隊員にも説明があったという。
しかし、この放水活動は、地上30メートルが、247mSv/hという高線量だったため、1回目は断念となった。

自衛隊員も、事故を起こした原発に命がけで放水をするという任務を負っている訳でもない。東電の社員も線量の高い建屋に命がけで保守監視する任務を負っている訳ではない。
当時、吉田所長が「部下にこれ以上線量を浴びせる訳にはいかない」と本社側に訴えていたが、本社から人的補充はほとんどなかった(というより、無理だったのだろう)。

驚くことに、東電の勝俣元会長が、非公式な政府との打ち合わせで、「自衛隊に原子炉の管理を任せます」と言ったという。この発言の真意は分からないが、民間企業が社員に死地で働けと言えないだろう、という本音もあったのかもしれない。

「最悪のシナリオを想定し、平時から準備をしておく」という、このシンプルな教訓を実行するのが、いかに容易でないことが、この「最悪の事態に、誰が命を懸けるのか」ということからも、垣間見える。

この問題を正面から見据えず、原発再稼働など、軽々しく口にすべきではないと本当に思う。

当時、自衛隊全部隊の作戦指導していた統合幕僚監部の運用部長が、番組の最後で、「最悪の事態を想定する思考や、備えるための訓練やマインドが日本の中にたぶんない。危機的な状況に対して国としてどうするのかということに対して、何も変わっていない。だから同じことが起きる。」と述べていたのが印象に残った。

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/Y3YKKKNVNP/

2021年3月14日日曜日

クララとお日さま/カズオ・イシグロ 土屋政雄 訳

読み終えて、心の奥深くにある懐かしい感情がくすぐられたような気分になった。

それは昔、子供時代に一人遊びで使っていた人形や、ぬいぐるみ、プラモデルへの懐かしい感情に近い。

彼らは、ある時期、濃密な関係と言っていいほど、確かに私の傍にいたのだけれど、いつの間にか、私は彼らから離れてしまい、彼らを動かしたり、語りかけることはなくなった。

おそらく、彼らは何かのついでに物置きに移動して、何かのついでに捨てられたのだろう。

クララという子供のAIロボットの物語を読んで、そういった子供の頃の彼らへの思い出がふと呼び起こされ、くすぐられたような気分になった。

彼らは、自分の主人をどう感じていたのか、彼らは幸せだったのだろうかと。

それにしても、クララの備えている美質が、観察することを主とした控え目な知性であったり、謙虚さであったり、主人に対する忠実さというところが面白い。

カズオ・イシグロの物語には、そういう、今では、あまりもてはやされない、昔気質な美徳をもった登場人物が現れるが、それは、かつて、日本人の美徳でもあったはずだ。

その日本人が失った美徳を、イギリスの作家であるイシグロが再現していて、しかも、この物語では、AIロボットの少女がそれを備えているというところが逆説的で面白い。

物はいつか使い捨てられてしまう。そんな過酷で悲しい運命を想いながらも、この物語が、終始明るさを失わないのは、彼女が自分が下した決断に何の後悔の念を持たず、一貫した肯定感を維持しているからだろう。

彼女が信じたお日さまの光の力のように。

2021年3月7日日曜日

チェルノブイリの祈り/ スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/ 松本 妙子 訳

私が、この本に惹かれたのは、ドラマ「チェルノブイリ」の典拠本であったことも確かだ。

あの事故を食い止めるために高線量被爆に命を犠牲にして戦った消防士、医療関係者、炭鉱夫、名もなき兵士たち、研究者、そして彼らを愛していた家族の思い。

彼らの犠牲的な行動がなかったら、放射能汚染はヨーロッパ全域に及んでいたかもしれない。

そして、突然、住み慣れた故郷から強制退去を迫られ、生活の基盤を失った住民、放射能に被爆した子供たち、彼らが飼っていた犬や猫、家畜たちの最後。

それらは決して表立って報道されることはない。

それらは、時が経つにつれ、忘れられていく。

そんな彼らの行動、思い、無念さをもっと感じたかったのかもしれない。

本書では、そういった人たちの言葉が整理されないまま、リアルに記録されている。

1986年4月26日午前1時23分に発生した事故から、ほぼ二十年間、原発の元労働者、科学者、医学者、兵士、移住者、サマショール(自分の意志で村に戻って住んでいる人)、その他多くの人たちが、作者にインタビューされ、語り、時には、

「記録してください」
「わたしたちには目にしたすべてを理解できているわけではないが、のこしておきたい。読んで理解できる人がでてくるはずです。わたしたちがいなくなったあとで」

と作者に頼み、彼らの多くが命を失った後も、その思いは記録された。

今、この本を読み終えたのは遅かったのかもしれないと思う。
もっとチェルノブイリ原発事故について関心を持って、この事故が起こした取り返しのつかない事態を、彼らの思いを、日本の多くの人々が重く受け止めていれば、福島の原発事故は防げていたのではないか。
(今、それを実現しようとしているのは、ドイツらしい)

しかし、福島で同じことが起きて、取り返しのつかない事態を同じように体験してしまったからこそ、この本に共感できるのかもしれないと一方では思う。

作者は、この本で、「わたしは未来のことを記録している」と述べているが、その言葉は、チェルノブイリから福島を通して、残念なことに現実のものになってしまった。

今朝、朝日新聞の記事を読んだら、脱炭素社会の実現のため、再び、原発増設の方針に舵を切るような政府の動きが載っていた。

この記事を読んで、本書に載っていた以下の言葉が頭によぎった。

「信じてもらえるのは、ほんものだけです。なぜなら、チェルノブイリをめぐってはあまりにもウソが多すぎるから。むかしもいまも。原子力は軍事と平和のために利用できるだけでなく、私的な目的にも利用できるのです。チェルノブイリのまわりは基金と営利組織だらけです...」

2021年1月30日土曜日

チェルノブイリ CHERNOBYL

今さらながら、アメリカHBOで制作されたテレビドラマ「チェルノブイリ」に衝撃を受けている。この事故は、こんな風に起きたんだということが、ものすごくリアルに伝わってくる。

チェルノブイリ原子力発電所の事故は、1986年4月26日午前1時23分に、現ウクライナキエフ州プリピャチで起きた。

発電所のコントロールルームで茫然とする技術者たち。炉心が爆発で飛び散ったという技師の報告も、地上に散乱する黒鉛(通常は炉心内で使用されるため、外部に飛び散らない)を見ても信じられず、炉心への注水と消防への通報を指示するディアトロフ副技師長。漏れた放射能の測定値も3.6レントゲンだと思い込む(36ミリシーベルト、これもすごい数値であるが、実際は500~数万レントゲンという恐ろしい数値だった)。

アメリカの攻撃か?という技師の質問も、いかにも冷戦時代下という気がする。

一方、発電所から4キロ離れたアパートで、消防士であるワシリー・イグナテンコと妻リュドミラは、衝撃波を受けた窓から、炎を立ち昇らせた発電所の光景を見、リュドミラは化学物質を気にするが(放射能については認識がなかった?)、ワシリーは義務感から非番にもかかわらず消火のため出動する。

放射能の怖ろしさもリアルである。放射能焼けし顔が赤黒くなる技師。吐瀉する技師。作業着から血がにじみ出す技師。鉄の味を口腔に感じる消防士、黒鉛をそれと知らず拾い上げ、手が焼けただれる消防士。

ブリュハーノフ原子力発電所長とフォーミン技師長に、「Under Control」と説明するディアトロフ副技師。彼らの認識は緊急用水タンクの水素爆発と建物火災という誤認に落ち着く。(私はこの「Under Control」という言葉を聞いて、オリンピック誘致の際に日本の首相が福島第一原発について世界に説明した言葉を思い出しました)

人は最悪の事態を認識せず、見たいものを見て、聞きたいものだけを聞くという典型的な状況が立ち現れる。

一方、発電所の火災の様子を、まるで花火のように子供連れで見る夫婦。きれいとつぶやく妻。やがて、彼らに雪のような灰が降りかかる。はしゃぐ子供たち。誰もそれが有害な放射性降下物だと気づかない。

もっとも悲惨なのは、爆発に至る操作をしてしまい、自責の念にかられ、すでに無くなった炉心に注水するため、炉心近くのバルブに近づき注水活動をしたアキーモフ副技師長とトプトゥーノフだろう。放射能障害で朦朧となりながらも真っ赤に焼けただれた手で注水を続け、彼らはそれが原因で悲惨な死を迎える。

旧ソビエトの政治体制の欠陥も描写される。事故を受け、急遽開催されたプリピャチ市執行委員会で、ブリュハーノフ原子力発電所長の説明に疑義を呈する委員もいたが、年老いた委員が、都市を封鎖し、電話回線を切り、市民に真実を知らせないことが得策であるという驚くべき発言を行い、議場は拍手喝さいを送る。

いかにも計画都市として整然とした街並みのプリピャチでは、子供たちが通学する中、放射能に侵され、痙攣した鳥が空から落ちてくる。プリピャチ市民は集団避難を指示されるまでの間、1時間当たり1レントゲン(10ミリシーベルト)の放射能にさらされることになる。(当時5万人が住んでいたが、30年以上経った今も立入禁止区域でほとんど人は住んでいない)

事態が正しい解決の方向に向かうのは、閣僚会議副議長兼エネルギー部門担当のボリス・シチェルビナから、RBMK原子炉の専門家ヴァレリー・レガソフに事故処理のため、政府委員会への出席を求める電話が掛かってきてからだった。

チェルノブイリのレポートを読んで、炉心が壊れたことを察知したレガソフは、ゴルバチョフ書記長が出席する政府委員会で、事実誤認の楽観的状況を話すシチェルビナに反論し、事態の重大さを専門家として説明し、ゴルバチョフはシチェルビナとレガソフにチェルノブイリに行って事態を報告するよう指示を出す。

このシチェルビナとレガソフの無骨なやり取りが、見ていて面白いのだが、このドラマから最も印象に残るのは、放射能に自らの命を縮めながら、事態の困難さを全身に受け止める二人の耐え切れなさを示すかのように繰り返されるため息と、タバコの煙とウォッカである。

実際、その後も目を覆いたくなるような光景が繰り広げられる。
福島第一原発事故から10年。改めて、原子力災害の恐ろしさを感じることができるドラマだ。




2021年1月10日日曜日

全東洋街道/藤原新也

 コロナ禍の中、人との接触を避けるようにと呪文のように何度も聞かされていると、不思議と「濃厚接触」したくなる。

そういった雰囲気をふと味わいたくなって、ひさかたぶりに、藤原新也の「全東洋街道」を読んだ。

この本は、藤原新也が、イスタンブールからアンカラ、黒海、トルコ、シリア、パキスタンを通って、インドのカルカッタ、チベット、ビルマ(ミャンマー)、タイのチェンマイ、上海、香港、ソウル、日本への旅路を綴った旅行記でもあるのだが、非常に多くの写真が収められており、私が「濃厚接触」の雰囲気を感じるのは、とりわけ、この写真からである。

まったく、コロナ禍の中でこの本を読むと、40年前の世界とは言え、まるで別世界のような雰囲気を感じる。街の雑踏の人いきれ、屋台の湯気の匂い、飲み屋の酒やタバコ、香水の匂い、路地裏の饐えた匂い、雨の感触、雨に濡れる人の体温、娼館の花や女の匂い、人間の息や汗や血の匂いをぶわっと感じてしまうような濃密な世界。

1980年代、こういったアジア的情景を抹殺し、すべてを清潔、クリーンにしていく日本へのアンチテーゼとして、この本は作られたと思う。しかし、今読むと、まるで夢のような、幻のようなアンチデジタルの「濃厚接触型世界」がそこには満ちている。

コロナが収まり、こういった世界の一端だけでも感じたい、と心から思う。