私が、この本に惹かれたのは、ドラマ「チェルノブイリ」の典拠本であったことも確かだ。
あの事故を食い止めるために高線量被爆に命を犠牲にして戦った消防士、医療関係者、炭鉱夫、名もなき兵士たち、研究者、そして彼らを愛していた家族の思い。
彼らの犠牲的な行動がなかったら、放射能汚染はヨーロッパ全域に及んでいたかもしれない。
そして、突然、住み慣れた故郷から強制退去を迫られ、生活の基盤を失った住民、放射能に被爆した子供たち、彼らが飼っていた犬や猫、家畜たちの最後。
それらは決して表立って報道されることはない。
それらは、時が経つにつれ、忘れられていく。
そんな彼らの行動、思い、無念さをもっと感じたかったのかもしれない。
本書では、そういった人たちの言葉が整理されないまま、リアルに記録されている。
1986年4月26日午前1時23分に発生した事故から、ほぼ二十年間、原発の元労働者、科学者、医学者、兵士、移住者、サマショール(自分の意志で村に戻って住んでいる人)、その他多くの人たちが、作者にインタビューされ、語り、時には、
「記録してください」
「わたしたちには目にしたすべてを理解できているわけではないが、のこしておきたい。読んで理解できる人がでてくるはずです。わたしたちがいなくなったあとで」
と作者に頼み、彼らの多くが命を失った後も、その思いは記録された。
今、この本を読み終えたのは遅かったのかもしれないと思う。
もっとチェルノブイリ原発事故について関心を持って、この事故が起こした取り返しのつかない事態を、彼らの思いを、日本の多くの人々が重く受け止めていれば、福島の原発事故は防げていたのではないか。
(今、それを実現しようとしているのは、ドイツらしい)
しかし、福島で同じことが起きて、取り返しのつかない事態を同じように体験してしまったからこそ、この本に共感できるのかもしれないと一方では思う。
作者は、この本で、「わたしは未来のことを記録している」と述べているが、その言葉は、チェルノブイリから福島を通して、残念なことに現実のものになってしまった。
今朝、朝日新聞の記事を読んだら、脱炭素社会の実現のため、再び、原発増設の方針に舵を切るような政府の動きが載っていた。
この記事を読んで、本書に載っていた以下の言葉が頭によぎった。
「信じてもらえるのは、ほんものだけです。なぜなら、チェルノブイリをめぐってはあまりにもウソが多すぎるから。むかしもいまも。原子力は軍事と平和のために利用できるだけでなく、私的な目的にも利用できるのです。チェルノブイリのまわりは基金と営利組織だらけです...」
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