2021年5月22日土曜日

されく魂 わが石牟礼道子抄/池澤夏樹

池澤夏樹が十数年にわたって書き続けてきた石牟礼道子論。
読んでいて感じるのは、池澤がとにかく石牟礼道子の作品の魅力をあまねく知ってもらおうと渾身の力を振り絞って書評を書いていることだ。

本来はそれが理想の書評というものなのかもしれない。
何度も何度も繰り返し同じ作品を読んでは、その魅力を解き明かそうと努め、また読み直しては欠落していた部分に気づき、時にはそれを恥じて、改めて書き直す。

池澤夏樹は、個人編集の世界文学全集に、石牟礼道子の「苦海浄土」を、日本文学全集に、「椿の海の記」などを入れている。

こんな編集をした全集はかつてないし、池澤夏樹の思い入れの深さが分かる。

彼がここまで石牟礼道子の作品を高く評価している(というより愛している)理由は、弱者の視点からの文学という特徴もあると思う。しかも、その弱者は、石牟礼が生み出した美しい人間らしい豊かな言葉で、かつての水俣の海を、人々の様子を話す。

そして、実は、その弱者こそが本当の人間で、彼らを貶め、阻害し、退けようとした国や会社や社会の制度こそが「非人間的制度」だったというパラドックスが立ち現れる。

池澤夏樹は「苦海浄土」をこんな風に説明する。

制度の側に立つ人々がひたすら患者との対面を避け、制度の中に立てこもろうとするのに対して、患者の方は相手を人間として自分の側に回収しようとするのだ。どうしてそのようなことが可能なのか、人間に希望があるとすればまさにこの一点。制度の壁を越えて、顔もなく名もなき、職名だけの相手にも人間を見ようとするおおらかな、彼ら自身が笑うごとくどこか滑稽な姿勢の中にこそあるとぼくには思われる。

水俣に始まり、生涯、熊本さえ訪れる機会のなかったはずの漁民たちが患者代表川本輝夫に率いられ「非人」となって東京へ行く。天子さまの都に上る。東京駅の前に坐り込み、最後はチッソの社長室に至る。巡礼行は実は出世双六であったという笑うべき展開。あまりの悲惨さに『苦海浄土』はしばしば滑稽になる。笑うしかないという事態に行き当たる。

水俣病の前にあった幸福が感じられる「椿の海の記」についても、四歳のみっちんが実は同年配の友人がほとんどおらず、いつも山や海という「異界」で遊んでいた孤独を持っていたこと。そんな異界に属する者であったからこそ、水俣病の患者たちに対して、高い共感能力を示すことができたという点も興味深い。

録音機もなく、メモも取らず、数回しか会っていない患者の思いをあの文体で書いたことについて、「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と石牟礼が言い切ったという。

あの美しい話ことばが、高い共感能力と文章力を備えた石牟礼を通して生み出されたことを思えば、「苦海浄土」は、ルポルタージュ、ノンフィクションではなく、まぎれもなく文学作品だ。

石牟礼は幼い頃、水俣の村の老婆に、眸をのぞかれ、「この子は、…魂のおろついとる。高漂浪(たかざれき)するかもしれんねえ」と宣託されたという。

タイトルにもなっている「されく」は、水俣のことばで、魂がさまようことをいう。それに、石牟礼道子が「漂浪く」という漢字をあてた。

美しさと悲しさが入り混じった、石牟礼道子という人にふさわしい言葉だ。


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