2021年9月18日土曜日

ボルドーの義兄/多和田葉子

読み終えると、これは小説なのかと問いたくなるような斬新な作品だ。

作品の一節に、主人公の優奈が話すこんな言葉が出てくる。

あたしの身に起こったことをすべて記録したいの。でもたくさんのことが同時に起こりすぎる。だから文章ではなくて、出来事一つについて漢字を一つ書くことにしたの。一つの漢字をトキホグスと、一つの長いストーリーになるわけ。

ハンブルグに住んでいた日本人の主人公 優奈が、フランス語を学ぶために、女友達のレナの義兄が住むボルドーの家で暮らすことになるというのが、この物語の縦線ではあるのだが、物語の中心は、ボルドーでの新生活ではなく、ハンブルグのさまざまな記憶の断章によって構成されている。

そして、その切り取られた数々の記憶の断章を封印するかように、鏡写しになった漢字一文字でシールされているのだ。

まるで、その漢字で画鋲のように刺し止めないと、切り取られたうごめく記憶の断章が、このように一つの作品にまとまることはなかったとでもいうように。

その裏返しになった漢字は、日本人の私から見ると、私たちが見慣れた漢字ではなく、別の東洋の古代文字のような印象を受けるのだが、おそらくドイツや欧州圏の人たちが見る漢字とは、このような奇怪な形の文字のように感じるのだろう。
(この作品はドイツ語で書かれ、その後、作者によって日本語に翻訳されている)

あとがきで、日本語や中国語を勉強しているドイツ人がポケットに忍ばせている漢字カードをみた作者が、面白いことを言っている。

わたしはある時、漢字カードを魔除として使えそうな気がしてきた。...例えば、大変な光景を目にしてしまった時に、精神的な衝撃と、無数の解釈と、激しく掻き起された幼年時代の記憶に同時に襲われ、気が遠くなることがある。そんな時に「惚」とか「企」など、その場にふさわしい漢字カードをポケットから出して盾にすれば、身を守ることができると同時に、その瞬間を記録して、後で思い出す助けにもなるのではないか。

文字とは、新しい知識を得たり、世界とつながるための道具であるということは誰も異論ないと思うが、自分の個性や精神を守るための道具でもあるという視点は、私も含めて外国で暮らしたことのない人には、なかなか思いつかないことだと思う。

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