2022年12月25日日曜日

胡蝶、カリフォルニアに舞う/多和田葉子

久々に多和田葉子の小説を読んだ。

Iというアメリカに留学した学生が十年ぶりに日本に戻ってきて、就職試験を受けるという話なのだが、アメリカの大学時代に女の子のナンパの仕方から学んだいい加減な会話で、高校の同級生だった優子とのかみ合わないコミュニケーションの様子や、日本の電車の異質感(女性専用車両、中央線の駅名)や家電メーカー就職試験の様子が、明るいMonotoneの悪夢のように続いて、読んでいて楽しかった。
胡蝶の夢のような終わり方も面白い。

次の小説「文通」もある種の悪夢だ。
作家の陽太が同級会に行くときに頭痛がして、彼が付き合っている舟子が持っていた謎の置き薬を飲んで、ラリッてしまった状態で同級会で味わう数々の悪夢。
名前が思い出せない同級生たち、親戚の葬式でふとしたことから関係を持ってしまった従兄弟の浮子との追い詰められていくような文通の数々。
やがて、舟子や浮子との文通の存在も現実のものなのか、分からなくなってしまう。

どちらの作品も、妙に明るい雰囲気のカフカが書いた悪夢のような物語だ。


2022年10月30日日曜日

犬神明①/平井和正

まさか、この作品を読むとは思っていなかったが、Amazon kindleと、平井和正の文章力のおかげなのかもしれない。

私は、かなりこの作品を読まずして、たぶん読めば幻滅すると強い偏見を抱いていたが、一読して面白いと思った。
旧作 狼のレクイエム の流れを受け継ぎ、きっちり物語としてつながっているし、何より旧作の登場人物のその後が興味深い。

CIA極東支局長 サミュエル・ハンターの娘で、色情狂だったエリノア・ハンターは本来の姿に目覚め、アリゾナ砂漠の近くの片田舎の町で、ジョッシュ・パーミターという病弱な東洋人の少年を世話している。

そのパーミターが犬神明なのだが、狼人間の力はまったく非力化していて、砂漠に力を吸い取られ、ゆっくりと死のうとしている。

東洋系の少女キム・アラーヤは、軟禁された山荘から脱走し、ゆく先々で出会う人々の支援を得ながら、アキラを探して、アメリカのどこかをさまよっている。

それを追跡する殺し屋アルとサイキックのトラウトマン。

そして、中国の特殊工作機関 虎部隊の虎4はバイオ兵器BEEとして登場するが、かつての面影はなくロボットのような印象を受けるが、なぜか虎4の記憶がキム・アラーヤに残っている。

そして、あのタフで魅力的な殺し屋 西城恵の姿も怪しい人物のボディガードとして健在。

砂漠で岩に力を吸い取られるパーミターとそれを助ける謎のインディアン ポペイとのやり取り(水と鹿の干し肉を口に入れて力を取り戻すシーン)が少し独特な印象を受けた。

2022年10月23日日曜日

O侯爵夫人/クライスト

これは、彼の作品の中では、喜劇の部類に属する小説かもしれない。

イタリア北部の要衝M市に、未亡人であるが盛名をうたわれる貴婦人 O侯爵夫人がいたが、戦争が起きて、ロシア軍に攻め込まれる。

その際、O侯爵夫人は、ロシア軍の狙撃兵たちに暴行されそうになるが、一人のロシアの将校 F伯爵が彼女を救う。

F伯爵は、彼女を助けた後、瀕死の重傷を負うが、命を取り留めると、忙しい軍務のさなか、O侯爵夫人の家を再訪し、彼女にプロポーズを申し込む。

突然のF伯爵の申し出に夫人とその父母も違和感を覚えるが、F伯爵の思いをひとまず了承し、彼は再び戦場に戻る。

しかし、O侯爵夫人の身体には異変が起き、妊娠していることが分かる。それを知った父親からは激怒され、夫人は家を追い出されてしまう。彼女は、新聞に、生まれてくるこの父親に対して名乗り出てきてほしいという広告を出す。そして、その新聞広告を見て現れた男は…という物語だ。

読んでいる途中から、だいたい分かってしまったせいもあるし、パロディのような小説なので、クライストにしては、切迫感のない冗長な展開だと感じる作品であった。

しかし、O侯爵夫人と彼女の父親が和解する場面での異様なキスシーンや、現れた男に対するO侯爵夫人の激情など、クライストらしい要素は垣間見える。
 

2022年10月22日土曜日

決闘/クライスト

本書も短編ながらクライストらしい劇的な運命の変化が人々を揺れ動かす。

十四世紀末頃のドイツ、大公の暗殺事件が起き、大公を殺した弓矢の細工から、容疑者として、異母弟のヤーコプ伯が疑われる。

ヤーコプ伯は告発されるが、法廷の場で、事件のあった夜、実は美しい未亡人リッテガルデ夫人と共に過ごしていたと自らの潔白を証言する。

リッテガルデ夫人は全く身に覚えがなかったが、その証言のせいでリッテガルの父はショックのあまり命を落とし、彼女の主張を信じない兄たちには勘当されてしまう。行き場のなくなったリッテガルデは、彼女を恋い慕っていたフリードリヒ侍従を頼る。

フリードリヒ侍従は、リッテガルデの潔白を証明するために、ヤーコプ伯と決闘するが、重傷を負わされて敗北する。

フリードリヒは命を取り留めるが、絶望したリッテガルデは牢獄の中で無言を貫き、会いに行ったフリードリヒを激しい言葉で拒絶する。しかし、改めてリッテガルデが身の潔白を告白すると、フリードリヒは、彼の母の制止も聞かず、気持ちは再び高揚する。

フリードリヒとリッテガルデは偽証罪で火刑に処せられることになるが、奇妙なことにフリードリヒの傷は全快する一方で、決闘の際、ヤーコプ伯はフリードリヒがわずかに傷つけた軽傷が悪化して膿み、腕まで切り落とすこととなり、瀕死の状態になる。 

さらにヤーコプ伯に追い打ちをかけるように、彼が密通していたのが実はリッテガルデの小間使であるロザリーであったことが明らかになる。(ヤーコプ伯はロザリーだとは知らず)

皇帝の面前での処刑の日、ヤーコプ伯は、にフリードリヒの傷が軽傷で自分の傷が命を危うくしていること自体が神の託宣であること、自分の不義の相手はロザリーであったことを告白する。

皇帝は火刑台に自ら近寄り、フリードリヒとリッテガルデを解き放ち、真実を告白したヤーコプ伯を助けようとするが、ヤーコプ伯は、大公の暗殺は自分が雇った刺客によるものであったことまで告白する。

この言葉に皇帝は憤怒し、フリードリヒとリッテガルデが処刑されるはずだった火刑台でヤーコプ伯を処刑する。

皇帝はフリードリヒとリッテガルデの名誉を回復し、二人は結婚する。皇帝は決闘を記念する彫像に 「神の御心のままに」と彫り込ませて物語は終わる。

この物語も登場人物たちの運命が劇的に変化する要素がいくつもある。「暗殺」「密通」「決闘」「傷」「告白」「処刑」。

読んでいて面白かったのは、「決闘」で敗北したフリードリヒが全く気落ちせず、命を保った自らの幸運をポジティブに捉え、リッテガルデの告白を無心で信じきった精神的な強さである。

クライストが書いたのでなければ、一時は敗北と思っても長い目で見ると実は勝利であるというポジティブ思考の人生観が描かれていると言ってしまいそうだ。

一方で悪人役であるヤーコプ伯も、リッテガルデと密通していたと勘違いしていた愚かさや、最後に自らの罪を認め、皇帝の中途半端な同情を拒絶し、自ら火刑による死を望んだ潔さにも魅力がある。

クライストが最後に残したこの短編小説も、全く隙のない緻密な文章で描かれていて、なぜこの小説を書けた人が自殺しなければならなかったのかと不思議な気持ちになる。

2022年10月16日日曜日

聖ツェツィーリェあるいは音楽の魔力/クライスト

聖像破壊運動が猖獗した十六世紀末頃のネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー・フランス北東部を含む地域)の話である。

聖像破壊運動とは、キリスト教を扱った絵画や彫刻といった聖像を否定し、破壊する運動のことで、マルティン・ルターによるカトリック教会批判をきっかけとして、カトリック教会からプロテスタントを分離させた宗教改革の一連の流れの中で発生した

物語は、アーヘン市の聖ツェツィーリェ修道院で行われる聖体奉祝日の式典に、聖像破壊騒動を起こすことを首謀したプロテスタントと思われる4人の兄弟とそれに同調した多くの人々が参加するが、尼僧たちが演奏する音楽「栄光の賛歌」の中、騒動は何一つ起こらず式典は無事終了する。

それから六年後、行方を絶った4人の兄弟の母親が、彼らの居所を探しにアーヘン市を訪れるが、変わり果てた4人の兄弟を精神病院で見つける。

彼らは黒いガウンを着こみ、一体のキリスト磔刑像を取り囲み黙然と祈りをささげており、管理人によると真夜中に一度だけ起き出し、大声で「栄光の賛歌」を歌い出すという。

母親は4人の兄弟と聖像破壊騒動を共謀していた今は商人の男に話を聞くと、聖体奉祝日の式典の際、修道院の尼僧たちが演奏する音楽を聴き始めてから、4人の兄弟に異変が起きたということがわかる。

そして、当日式典を取り仕切っていた尼僧院長の話によると、当日オルガンの前で「栄光の賛歌」の指揮を執ったのはアントニア修道尼であったが、彼女は、その日、病気で意識不明のまま一日臥せっていたことを看護していた者が確認していたという。では、指揮を執った人は誰だったのか。

その話を聞いた大司教の話によると聖ツェツィーリェおんみずから奇跡を成就したのだという。

これらの話を聞き終わった母親は息子たちのためにお金を供託し、故郷に戻った後、カトリックに改宗したこと、4人の息子たちは円満な死を全うしたことに触れられている。

この作品も劇的な出来事によって運命を変えられた人々を描いているが、今回は「奇跡」だ。

題名が面白い。

聖ツェツィーリェ」は聖女の名前で、「天の百合」「盲目性を欠いた女」という意味があるという。大司教は、その聖女が起こした奇跡であると言明しているが、「あるいは音楽の魔力」ということも踏まえれば、4人は音楽によって劇的な改心をしたとも読み取れる。

教会のミサで音楽を聴くとき、クライストは、劇的なまでに至らなくても、そういった恍惚感を密かに感じていたのかもしれない。

ある種の宗教的高揚は多幸感に支配された一種の痴呆状態ともいえるが、悩み多きクライストがそういった状態に支配された人々に実は憧れを抱いていたのではないかと思わせる物語だ。

下記の絵は、聖像破壊の様子を描いている。
ヨーロッパの教会の歴史もいろいろあったんですね。


2022年10月3日月曜日

拾い子/クライスト

 クライストの小説では、登場人物たちが少なからず自分たちの運命を左右される事件が起きるのだが、この小説は、その事件がかなり多い。

1.疫病

ローマの豪商ピアキ氏が自分の息子を連れてラグーサに行ったが、そこではペストに似た疫病が蔓延しており、一人の感染した少年ニコロを助けたばかりに、ピアキ氏は自分の息子を失う。そしてピアキ氏は、病から回復したニコロを自分の養子にする。

2.火事

ピアキ氏の妻 エルヴィーレは十三歳の時、家が火事になり命を落としそうになるが、名門貴族のジェノヴァ人の若者が彼女を救い、彼はその代償に命を落とす。
エルヴィーレは自分の部屋に彼の肖像画を飾り、神のように密かに崇めていた。

3.瓜二つという偶然

ニコロは大人になり、仕事はできたが、少年の頃から早熟で女性に対する関心が異常に高く、妻をめとった後も、僧院長の愛人との関係を持っていた。
そのニコロが、ある日、その愛人と逢瀬する際に身に着けたジェノヴァの騎士の格好を、 エルヴィーレが偶然に見て気絶する。

ニコロは、 エルヴィーレの憧れていたジェノヴァ人の若者と瓜二つだったという偶然があった。

4.強姦未遂

エルヴィーレが実はひそかに自分を愛しているのではないかと誤解したニコロはエルヴィーレに対する関心を強めるが、ニコロの不徳を知っているエルヴィーレは一向に彼に対する関心を示さない。それどころか、ニコロは、その不徳を知ったピアキ氏からも冷たくされる。

ニコロはピアキ氏による冷遇もエルヴィーレのせいであると思い怨みを募らせる。そして、エルヴィーレの部屋に飾っていた騎士が実は自分ではないという真実を知った時、恥辱と情欲と復讐心から、再びジェノヴァの騎士の格好をして、エルヴィーレを我が物にしようと策略する。

5.殺人

ニコロが気絶したエルヴィーレを犯そうとしていたところに、ピアキ氏が戻ってくる。彼は、ニコロに無一文で家から出ていくことを求めるが、家の所有権はすでにニコロに移転しており、ニコロは僧院長が別れたがっていた愛人と結婚することと引き換えに、僧院長のとりなしにより、家の所有権がニコロに帰属している政府の判決書を得る。

一方、ニコロに仕掛けられた罠が原因で高熱を出したエルヴィーレは死亡し、これに憤怒したピアキ氏は、判決書を、ニコロの口にねじ込んで悶絶死させる。

6.死刑

ピアキ氏は、絞首刑による死罪の判決を下されたが、教会側が説得する自身の犯罪の有罪性の承認、免罪、神による救済の一切を拒否する。

彼は、地獄の底の底に降りて、ニコロに対する復讐をもう一度やり直すことを誓う。

これを知った教皇の命により、教会はついに彼を一切の免罪なしで、絞首刑に処す。

というかなり特異な事件に彩られている。

ピアキ氏の憤怒は、ニコロを助けたばかりに、本当の息子を失い、人生の晩年において、妻を失い、自宅の所有権を失し、すべてを失ったという結果からすれば当然ともいえるが、地獄において養子をさらに殺すと宣言するあたりは、鬼気迫るものがある。

一方でこの事件が起きてしまった原因の一つとして、エルヴィーレによる隠れた形でのジェノヴァ騎士に対する恋愛とも思える崇拝が挙げられるだろう。

エルヴィーレはピアキ氏と結婚しながらも、実はピアキ氏を愛してはおらず、十三歳の時に自分を救ってくれたジェノヴァ騎士を愛していたという事実も重い。

彼女は、ジェノヴァ騎士の姿をしたニコロを見て二度失神するが、ニコロが情欲を感じた通り、それは恐怖によるものではなく、愛する者とリアルに接触するという歓喜のために起こったものだろう。

という具合に、この短編小説は、クライスト特有の事件に翻弄される人々を描きながらも、実に技巧的で精緻な構成になっている。

この小説も、クライストがピストル自殺をした年に出版されたものだ。



2022年10月2日日曜日

ロカルノの女乞食/クライスト

クライストの小説は、登場人物たちの時代背景として、社会的に起きた大きな事件がベースとして描かれていることが多いようだ。

地震、人種間戦争、感染症、聖像破壊騒動など。

この「ロカルノの女乞食」では、物語最後に起きる火災と考えることもできるけれど、侯爵が古城を売る気になった原因である「戦乱と凶作」が当たるのではないかと思った。

私がそう思ったのは、侯爵が建物に火をつけた理由として、「おのが生に倦んじ果てて」と書かれている一節があったからだ。

いくら恐怖におののくような幽霊の存在があったとしても「生きることに疲れ果てる」とまではいかないだろう。

「戦乱と凶作」で財政状態が悪化し、美しいたたずまいの城まで売らなければならないところまで、侯爵はすでに追い詰められていたのだ。

そこに「女乞食」の幽霊が出現し、かつての自分の冷酷な仕打ちを思い出させるとともに、自分の経済状況を持ち直すことまで阻もうとすることに堪えきれなかったのではないだろうか。

そして、それに加えて、この物語では明示的に書かれてはいないが、侯爵夫人の侯爵に対する愛情がどうだったのかという点も気になる。

理由は、自らも焼けて白骨化した侯爵の骨を、侯爵が「女乞食に立てと命じた部屋のあの一隅に安置されている」点だ。

そもそも、女乞食に憐れみをかけ、城の客間を貸したのは侯爵夫人である。その「女乞食」に無慈悲に暖炉のそばをどけと命令し死に至らしめた夫に対して何もネガティブな感情を抱いていなかったはずはない。

ひょっとすると、侯爵は、侯爵夫人の愛情も得られない立場に置かれていたのかもしれない。

しかし、死後も「女乞食」の喘ぎ声と足音に悩まされそうなところに、自分の遺骨が安置されるというのは、最大の罰といえるかもしれない。
 

2022年10月1日土曜日

聖ドミンゴ島の婚約/クライスト

フランスの植民地 聖ドミンゴ島で、黒人たちが白人を大虐殺した時代…と、いきなり物騒な時代設定から始まるこの小説。

しかし、この人種間戦争は、終わりまで読むと背骨のようにこの小説の骨格を形作っている。

コンゴ・ホアンゴという白人の主人に可愛がられながら、その主人の頭に銃弾をぶち込み、白人への復讐に燃える老人に使われている混血のバベカンという母と娘のトーニ。

彼女たちは、ホアンゴが居ない間、彼の屋敷で、食事や一宿を求めてくる白人たちを売春婦のように篭絡し、ホアンゴに引き渡して死刑に処すという非情な役割を担っていた。

そこに現れたフランス軍将校でスイス人の青年グスタフが、叔父のシュトレームリ氏の一家と共に島から脱出するために逃げていた最中、この屋敷に立ち寄り、バベカンは彼も餌食にしようとし、トーニを彼の部屋に行かせるのだが、トーニがグスタフを好きになってしまい、関係を持ってしまう。

グスタフ(白人)側に立ったトーニは、母親のバベカンの意思に反して、彼と叔父の一家を救うように立ち回る。ホアンゴが予想より早く屋敷に戻ってしまったことで危機を迎えたときも、寝ていたグスタフの身体をロープで縛り、自分が黒人側にいるかのように立ち振る舞い、難を逃れる。

トーニの働きで、シュトレームリ氏を屋敷まで連れてきて、ホアンゴと戦い、無事グスタフを救い出したところで悲劇が起きる…という物語だ。

突然の悲劇は「チリの地震」同様の展開だ。「地震」では尼僧教会内で逢瀬をした男女が暴徒と化した民衆に殺され、この「婚約」では、人種間の争いを乗り越えようとした男女の恋愛が男の女に対する不信で無残に壊れる。

クライストが自殺した年に書かれた小説で、彼の人生の時期としては最悪の時だったと思われるが、作品の質は高い。

2022年9月26日月曜日

チリの地震/クライスト

クライストの小説は、多和田葉子の新聞連載で「ロカルノの女乞食」を一読しただけだったが、ツヴァイクの書いたクライスト論を読んで、その小説を改めて読みたくなった。

ツヴァイクは、クライストの両極端の二面性を取り上げ、彼の過剰な狂気のような自我は劇作のほうに反映される一方、小説については彼自身の影は一切映さず、完璧な文体で堅牢な物語を提供したと述べている。

「チリの地震」は、こんなあらすじだ。

修道院で密通を犯した二人のカップル、ジェロニモとジョゼフェが、その罪で首吊りの刑に処せられる。しかし、刑を執行しようとしたその刹那、大地震が発生し、多くの人々が命を落とす中、二人は命が救われ、二人の子供も助かる。

ジェロニモとジョゼフェは、当初スペインに逃げることを考えるが、避難生活の中、軍司令官のドン・フェルナンドと遭遇し、彼の家族と親しくなり、二人の罪は震災で許されたような感覚を覚え、チリに残ることにする。

震災後、教会がこれ以上の禍を避けるために祝祭ミサを開くことになり、ジェロニモとジョゼフェは、フェルナンド一家と教会に行くことになるが、聖職者たちは、今回の地震でさえ、ソドムとゴモラで起きたような道徳的退廃、蛮行が根絶できなかったことを述べ、ジェロニモとジョゼフェの冒涜行為を非難する。

取り囲まれた聴衆から暴力を振るわれる危険を、ドン・フェルナンドと彼の知人であるドン・アロンソの機転で一時免れるが、教会を出た後、荒れ狂う群衆を止められず、ジェロニモとジョゼフェは棍棒で殴り殺される。そして、罪のないフェルナンドの子供と義妹も命を落とす。

ドン・フェルナンドと妻は、ジェロニモとジョゼフェの赤ちゃんを自分たちの子供として育てていく決心をする…という物語だ。

一読して、全く隙のない短編小説に仕上がっていることに驚いた。
ある意味、老成した短編小説家が、冒険せず自身のテリトリーで腕をふるって書いたとさえ思うほどだ(この作品を書いた時、クライストは三十三歳)。

作者であるクライスト、物語中、この悲劇に対して自分の考えや思いを全く表明していないようにも思える。

ただ、わたしにはやはりクライストが背徳の罪を犯した二人の側に立っている印象を受ける。そして罪人でありながら、暴徒と化した世間から逃げず、堂々と立ち向かった二人の姿は、自分を理解し受け入れようとしない世間に対するクライストの思いを具現化した姿だったのではないだろうか。

2022年9月25日日曜日

デーモンとの闘争/シュテファン・ツヴァイク

ツヴァイクが、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェをテーマに、三人の生涯には、人間の力を超えた魔人的(デーモニッシュ)ともいうべき共通点があったことを取り上げている。

住み心地のよい生活を捨てて情熱の破滅的な台風のなかに突き入り、命数に先んじて精神の恐ろしい惑乱、感覚の致命的な陶酔に落ち、狂死し、あるいは自殺し果てるという運命。
三人のうち、誰一人妻子を持たず、家財を持たず、永続的な職業、公務を持たなかった。現世における浮浪人、アウトサイダー、変わり者として、世間から軽侮され、無名の生涯を送った。

その原因を、 ツヴァイクは三人には根元的かつ本来的に生まれついた焦燥(デーモニッシュなもの)があったことを指摘している。この焦燥のために彼らは、自分自身から抜け出し、自分自身を超えて無限の彼方へ、根元的な世界へ駆り立てられる。しかし、デーモニッシュなもの(焦燥)が無限に満たされるためは、有限のもの、地上のもの、彼らの肉体を非常に破壊し去るほかに道はない。

中庸の人々は、この焦燥の衝動を自らのうちに抑えつけ、道徳の麻酔をかけ、仕事で紛らわし、秩序の中にせき止めてしまうが、焦燥は、とくに創造にたずさわる人々には、日々の作品に対する不満足という形をとって創造的に促進的に働き続ける力となる。

しかし、デーモニッシュなものをコントロールできず、その下僕となってしまうと、人生は常に危険と危機を暗示するあやしい雲行き、悲劇的な雰囲気、宿命に包まれる。

ツヴァイクは、三人と対称的に生涯を送った人物として、ゲーテを挙げている。
ゲーテは、人生のどこかでデーモニッシュなものと遭遇し、その危険性を認識し、創造活動において、その暴力的、痙攣的、火山的なものを否定し続けた。
彼に人生は、三人とは異なり、人生にしっかりと深く根を張り、裕福な邸宅に住み、妻子もあれば、孫もいて、確実な友人たちや女性たちがいつも彼のまわりを取り巻いていた。

ゲーテの創作活動が年とともに定着的・堅固なものになっていくのに対し、デーモニッシュな者たちは、ますます刹那的、不安定になり、狩り立てられた獣さながら地上を駆けることになる。

ゲーテの生活様式は丸い円となって完結しているが、デーモニッシュな人たちのそれは、放物線のように無限への急激な上昇、急カーブ、そして突然の急降下を示す。

ツヴァイクは、ゲーテと三人の創作様式についても、ゲーテはこつこつと貯金箱にため込むような資本主義的なものであるのに対し、三人は賭博者のように彼らの生存の全部を一枚のカードに賭けるようなものだったと比較している。

ツヴァイクが、ゲーテよりデーモニッシュな三人に強い共感を示しているのは明らかで、特にクライスト論はその傾向が顕著のような気がする。彼に対する自分の熱い思いが延々と語られ、客観的にクライストを分析しているとは言いがたく、加えて、ツヴァイクの文章は、粘着質で同じことを何度も何度も繰り返し表現を変えて描写しているせいで読みずらい。

しかし、クライスト論がツヴァイク自身の運命も物語っていたのではないかと思って読んでみると興味深い表現はいくつかあった。例えば、

クライストは、己が落ち行く先を承知している。はじめから知っている――奈落の底なのだ、と。

クライストの生涯は、…末路をめざしての急迫、血と肉感性、スリル味と戦慄のけだもの染みた陶酔を伴う、とてつもない狩猟にほかならない。

不幸のくりだすかなりの数の猟犬が、かれのあとを追って来る。狩り立てられた鹿さながらに茂みに身を投げる。にわかに思い直して、猟犬のどれかをとらえ、血祭りにすることもある――運命のさしむけた、いきり立つ猟犬どもの――下賤の者の手にかからぬうちに――いさぎよく一思いに、奈落の底にとびこむ。

  

2022年9月18日日曜日

圧迫/シュテファン・ツヴァイク

 この小説は、数年前だったら、主人公がこんな心持ちになったのは、ツヴァイクの特別な個性によるところだろうと片づけてしまった気もするが、今の日本において読むと、戦争になるとは、こういう風に国家に追い詰められていくのだなという現実(リアリティ)を強く感じた。

1920年の作品だから、おそらく第一次世界大戦のさなか。画家である主人公フェルディナントと妻パウラは、ドイツからスイスのチューリッヒに亡命している。

しかし、フェルディナントは故国からの呼び出しに怯え、自分の本来の意思に反するように、徴兵の兵役能力再検査のために領事館に出頭することを命じる紙を受け取ってしまう。

冷静で賢明なパウラに、自分の生命と自由を守るためには、絶対には行ってならないと説得されるが、フェルディナントは領事館に行ってしまい、これまた、自分の意思に反するような形で入隊の手続きをしてしまう。

絶望するフェルディナントに気づいたパウラは、度重なる説得と妨害を行うが、フェルディナントは故国へ向かう汽車に乗ってしまう…という物語だ。

フェルディナントは、知識人であり、戦争とそれを起こす政治家の蒙昧さを理解し、理性的に反抗できる資質があるにも関わらず、まるで自分の運命が国家からの命令書に記載された通りであり、これに抗うことはできないような心的状況に陥っている。

「まるで学校の生徒が先生の言葉で立上がるように立上がって…ぶるぶる慄えながら命令に従う」

「自分のものではない意志の鉄のぜんまいが身うちに動き、あらゆる神経を緊張させ関節までも引締めはじめた」

例えば、ロシアの善良な国民が(いや、ウクライナの善良な国民でさえ)、こうした目に見えない「圧迫」に押しつぶされ、戦地に向かっているかと思うと気が滅入る。

こんなことはかつての日本でも起きたことなのだ。
そして、その空気感が凍結された地面から死臭のように漏れ出しているのを、今の日本の時代の雰囲気から感じるからこそ、この作品のリアリティを感じるのだろう。

P.S. 石川淳の「マルスの歌」と似ている。この作品も2018年に読んだが、今読んだら、もっと刺さったような気がする。

2022年9月12日月曜日

女の二十四時間/シュテファン・ツヴァイク

ツヴァイクの小説の特徴の一つとして、劇的な感情に一時支配されてしまい、それが原因でその後の人生に傷を負ってしまった人物の運命を描いているという共通点がありそうだ。

この「女の二十四時間」もその一つのようだ。
主人公の男が泊まっていた宿で、二人の娘を持つ貞淑そうに見える三十三歳ぐらいの人妻が、若い感じのいい美男子と駆け落ちしてしまう事件が起きる。

主人公が見ている限り、人妻と若い男が接触した時間は、テラスで二時間の間、話を交わし、庭でブラックコーヒーを飲みながら過ごしだ一時間だけ。

それをきっかけに、主人公は、宿の食事仲間との間で議論が起こる。

食事仲間たちは、人妻と若い男は実は前から付き合っていて、駆け落ちのためにこの宿に泊まりに来たのだと主張する。つまり、わずか三時間だけの話で、堅気の人妻が一夜にして夫と二人の子供を捨てて、運を天に任せ、見ず知らずも同然の若い色男に身を託すなど起こりうるはずがないと。

これに対して、主人公は、長年の間、幻滅を感じてきた退屈な結婚生活のおかげで、精力的に触手を伸ばしてくるあらゆるものに対して心の用意のできている女性の場合、そういうことは起こりうると。

そして、駆け落ちした人妻を、娼婦のように侮辱する食事仲間に対して、そういったことは起こりうるものだと彼女を弁護する。

その話を聞いていた食事仲間のうち、年配のイギリスの老婦人が、主人公に対して、こんなことがあっても、本当に彼女に対する態度を変えることはないのかと繰り返し尋ね、主人公の毅然とした態度を再確認する。

それ以来、老婦人は主人公に対して並々ならぬ関心を抱き、主人公と常に話したいという態度を見せるが、主人公が宿を発つという話を聞き、思いつめたように考えた結果、主人公に自分の過去の話を聞いてもらいたいというお願いをする。

それは老婦人が四十二歳の時に経験した「二十四時間」の出来事だった…という物語だ。

ツヴァイクは、人妻や老婦人を襲った、一夜にして関わった人々の運命を大きく変える当事者の意思や知恵を超えた突発的な出来事を、デーモン(超自然的な力)と呼んだ。

そのデーモンに自ら身を任せる選択をとったとしても、人は許されるべきであるというツヴァイクの信念は、人という不完全な存在に対する寛容性を強く感じ、共感できる。

しかし、ツヴァイクほど共感力が高く、常にそちら側に身を寄せるということは、同時に、自分自身がデーモンに魅入られてしまい、命を絶ってしまうことが起こりうるということでもあるのだろう。ツヴァイクの実際の人生からもその経緯を強く感じる。

2022年9月11日日曜日

旅のネコと神社のクスノキ/黒田征太郎・池澤夏樹

池澤夏樹と黒田征太郎が、原爆で破壊されなかった広島の旧陸軍被服支廠(広島市南区)の建物をテーマに描いた絵本。

陸軍被服支廠とは、陸軍の軍服などを作る工場と、軍服・軍靴のほか、民間に委託して作らせたマント・下着類・手袋・靴下・背嚢・飯盒・水筒・布団・毛布・石鹸・鋏・小刀・軍人手帖なども集められ、保管されていた場所らしい。

こうして作られ、保管されていた着るものや小物類を見ると、戦争に行くにも、旅支度にも似た兵士たちの生活感が想像できる。

これらの物資は、すぐ南の宇品港に運ばれ、船に積まれて戦地に送られた。

陸軍被服支廠の四棟は、爆心からわずか2.7キロのところにありながら倒壊しなかった。分厚い鉄筋コンクリートと煉瓦のカベを持った頑丈な建物だったから倒れなかったというが、この絵本では、陸軍被服支廠から500メートルほど北にある標高70メートルの比治山が守ってくれたのではないかという仮説を書いている。

原爆が落とされた後、被災した多くの人たちがこの建物に収容された。
しかし、医薬品もなく、医師も看護師も足りない状況で、人々はそこで横になって苦しむうちに亡くなり、そのあと、ひとまず二階に運ばれ、後日、別の場所に埋められた。

被爆者の切明千枝子さんによると、怪我をした祖母を倉庫に入れた際、祖母が外へ出してくれと何度も訴えたと話していたという。

「もう息をするのもつらかったんでしょうね。死臭と糞尿と血の臭い。人間の皮膚が焼ける臭い。あれはどう表現していいか分かりません。原爆資料館はあれだけいろいろ資料を集めているけれど、あの臭いだけは取っておくわけにはいかなかったですね」

池澤夏樹の文章と黒田征太郎の絵は、地獄のような世界で花を咲かせる、葉をしげらせる草木に希望を見出す。

絵本だけれど、すごく重たい本だった。


2022年8月13日土曜日

チェス奇譚/シュテファン・ツヴァイク

ツヴァイクが死ぬ直前に書き上げた最後の作品だが、非常に面白い小説である。

物語は、チェントヴィッチという田舎町出身の愚鈍そうな少年が驚異的なチェスの名人になる話から始まる。
彼には文字通りチェスを指すしか能がなく、文章もろくに書けない知性の持ち主でもあった。

そして最も特徴的なのは、常に目の前にチェス盤と駒を置かないと、チェスのプレイが出来ず、自分の頭の中でチェス盤を想像しチェス駒を動かしてゲームを諳んじることができないことだった。

そんなチェントヴィッチを、作品の中の”私”は、こんな風に評しているのだが、チェスという競技の特質を一面で正しく捉えていると思う。

人間は自分を限定すればするほど、他方でそれだけ無限へと近づくことになる。そのような一見世間離れした人々こそがそのきわめて特異な素材の中で、完全に唯一無二の奇妙な世界の縮図を白蟻のように作り上げるのだ。

その私が、チェントヴィッチと同じ十二日間のリオまでの船旅の間に、いかに彼に接近して、その特異な知性を観察しようかと企む。

私は、マッコナーという羽振りのよい財産家の男とチェスを行うことで、チェントヴィッチの関心を惹こうとし、紆余曲折の末、マッコナーがチェントヴィッチとチェスの試合を行うことになる。

一試合目でマッコナーがあっという間に負け、二試合目も、マッコナーがチェントヴィッチが巧妙に仕掛けた罠に嵌ろうとした刹那、一人の紳士、B博士がストップをかける…という物語だ。

とりわけこの小説で興味深かったのは、作品の中の”私”に語ったB博士がチェスを覚える特別なきっかけと特別な環境なのだが、読んでいて息をつかせないほどの面白さだった。

チェスの作品で思い浮かぶのは、ナボコフが書いた「ディフェンス」という小説だが、個人的な好みとしては、この「チェス奇譚」のほうがはるかに面白いと思う。

*翻訳された杉山有紀子さんの文章も読みやすかった。

2022年8月11日木曜日

過去への旅/シュテファン・ツヴァイク

 多和田葉子の連載小説「白鶴亮翅」に、シュテファン・ツヴァイクの名前がちょっとだけ出ていて、それで気になったのが最初。

 プロフィールをみたら、1881年生まれのユダヤ人のオーストリアの作家で、ナチスドイツの台頭を機に、イギリスに亡命し、ついで米国、ブラジルに渡り、旧日本軍によるシンガポール陥落など、戦争の影に覆われていく世界に憂鬱となり、妻と睡眠薬自殺を図り、1942年死去。

 この「過去への旅」は、いわゆるロマンス系物語とでもいうのだろうか。フランクフルトの大工場主である初老の枢密顧問官の私設秘書として雇われた若い男ルートヴィヒが、枢密顧問官の家に住み込むことになる。
そこで出会った枢密顧問官の美しい妻。彼女に密かに恋がれるルートヴィヒだったが、枢密顧問官から、2年の期限付きで将来の出世につながるブラジルでの仕事を提案され、受けてしまう。

 そのことを彼女に伝えると、彼女も気が動転し、二人は両想いだったことが分かる。二人は残された十日間という時間を、隠れるように激しい逢瀬を交わすが、彼女は最後までは許さず、今度会った時にはすべて許すということを伝える。

 メキシコに行ったルートヴィヒだったが、ヨーロッパで戦争(第一次世界大戦)が起こり、ドイツに帰れなくなってしまう。そして、戦争が起きて3年目に、ルートヴィヒは現地のドイツ人商人の娘と結婚し、子供もできる。

 戦後9年が経ち、ルートヴィヒはようやくドイツに帰国し、彼女と再会することができた。   彼女は9年という歳月がたってもそれほど変わっておらず、二人の間には過去の記憶が残っており、ルートヴィヒは彼女の約束の履行を求める。二人はハイデルベルグに小旅行に行き、ホテルに泊まろうとするが、さまざまな卑俗とナチスドイツの軍事的な光景に、大事な逢瀬の雰囲気を壊され、二人の間に越えられない溝があらわになってくるという、残酷な物語だ。

 本書は未完の物語ということだが、わたしには完成しているように見える。
暗くなっていく丘の上で、現実ではなくなった過去を必死に探していた二人の姿にルートヴィヒが気づき、絶望したその刹那が、この物語の終わりにふさわしいような気がする。

2022年7月18日月曜日

映像のポエジア 刻印された時間/アンドレイ・タルコフスキー

 旧ソ連の映画監督 アンドレイ・タルコフスキーが、映画について、シナリオ、映像、俳優、美術、音楽、観客という要素を、主に自作を通して、自らの考え・信念を率直に述べている本だ。

私は、一時、タルコフスキーの映画に強く惹かれ、その映画を何度も見たが、タルコフスキーが映画、特に自作について語っている、まとまった文章があるとは全く知らなかった。

「ぼくの村は戦場だった」「アンドレイ・ルブリョフ」「鏡」「惑星ソラリス」「ストーカー」「ノスタルジア」「サクリファイス」…

これらの作品の中でひときわ熱心に語られているのは「鏡」で、この作品はタルコフスキーの自伝的作品と言われているが、彼が自分自身の記憶と感覚の相当深いところまで降りていって、この映画を作り上げたことが分かる。

「鏡」のなかで私が語りたかったのは、自分自身についてではない。まったくそうではなくて、近い人々とのかかわりのなかで起こってくる感覚について、彼らとの相互関係について、彼らにたいする永遠の慈しみや自分の無能力について、つまり償いがたい義務という感覚について語りたかったのである。

「鏡」の主人公が抱える重い憂愁を感じさせる言葉だ。彼は自分の考えをすべて共有するため、撮影中は、カメラマンや撮影班と片時も離れず過ごす一方で、自分の母親を演じたマルガリータ・テレホワに対しては、母親がその後どういう運命をたどるか、映画における彼女の役割について全く説明しなかった。説明することによってテレホワの演技に影響を与えることを避け、自分の母親同様、自分の運命を何も知らなかった状態に置くために。タルコフスキーは、観客にとってこのうえなく誠実な芸術家だった。

タルコフスキーのこうしたこだわりは映像の完璧な美しさ、詩的な映像がつむぐ本物の記憶のような感覚となって、見る者の情緒と思考を呼びさまし、強い印象を与える。
この映画に対する制作の姿勢は、今や主流となった商業映画とは対極の位置にあることが、あらためて分かる。
(タルコフスキーは商業映画を、観客の中に残っていた思考と感情を完全に決定的に消してしまうものであり、「コカ・コーラ」の瓶のように消費されるものだと言っている)

最後の2章「ノスタルジア」と「サクリファイス」についての説明も興味深い。
「ノスタルジア」は、タルコフスキーがイタリアで撮影したもので、それまでの旧ソ連の雰囲気とは違うものを感じていたが、タルコフスキーによると、

…私が作ったのはあらゆる意味で…道徳的にも、精神的にも、情緒的にも…きわめてロシア的な映画であった。…私は完全に方向を見失ったロシア人についての映画を作っていた。

と語っている点も意外だった。最後の不思議なシーン…主人公のロシアの家が、イタリアの寺院の壁の中に置かれていたことも、そういう意味だったのかと今更ながら理解できた。

そして、以下の文章

「ノスタルジア」において私が重要だったのは<弱い>人間というテーマを継続させることであった。…私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。

を読んで、確かに彼の映画に出てくる主人公たちは、上記のような人々だったこと、そして、彼の映画を観た時に、単に映像の美しさだけでなく、そういう<弱い>人々が起こす奇跡に心を動かされていたことに改めて気づいた。

五十四歳という若さで亡くなったことが本当に悔やまれる。彼が次回作として構想していた「聖アントニウスの誘惑」はどんな映画だったのだろう。

2022年7月3日日曜日

ナチスのキッチン 「食べることの環境史」/藤原辰史

 題名に面白さに手を取ってみたが、台所というどこの家にもある一見ありふれた場所が、どのような進化(変化?)を遂げてきたのかというテーマを、その変化に無視できない影響を与えたナチスドイツ時代の取り組みを紹介していて面白かった。

なぜ、ドイツかという点で言えば、ドイツは第一次世界大戦期に約七十六万人という餓死者を出し、1930年代には再び食料危機に悩まされていた点から、食べ物のインパクトが一際大きな国だった。
加えて、ナチス時代は、いい意味でも悪い意味でも徹底した「合理化」が求められた時代だった。その合理化の波は、家庭の台所というプライベートな場所にも及んだ。

アメリカの機械技師であるフレデリック・ウィンスロー・テーラーが提唱した「テーラー主義」は、分かりやすく言えば、目分量ではなく科学主義を、生産の最大化、最大の能率化を目指したものだった。ドイツは、アメリカと並んで二十世紀前半の産業発展をリードしてきたが、「テーラー主義」のもっとも熱烈な受容国のひとつであったという。

そして、台所の進化に大きく寄与したのが、次の三人の女性というのも興味深い。

一人目は、ヒルデカルト・マリギス…消費者運動の先駆け。主婦向けの消費者相談所を設立。企業と主婦を結び付ける役割を果たし、電化キッチンを使用したレシピ本を出版。家庭用電気製品の導入促進を進めた。母親はユダヤ系であったこともあり、反ナチ運動に身を投じ、最後には女性刑務所で拷問の末、死亡。

二人目は、エルナ・マイヤー…カリスマ主婦のプロトタイプ。「新しい家事ー経済的な家庭運営の指南書」を執筆し、ベストセラーに。機能的な小型キッチンもデザイン担当した。ユダヤ人であった彼女は、イスラエルに移住し、ナチスの迫害を逃れた。

三人目は、マルガレーテ・リホツキー…建築家。「テーラー主義」に基づくシステムキッチンを設計。システムキッチンはドイツのみならず、世界各地で模倣されるようになる。彼女も反ナチ運動に身を投じ、ゲシュタポに逮捕され、監獄に収監されたが、敗戦後解放され、死刑台から生還した。

いずれも反ナチの三人の女性がその能力を発揮することで、意図せずに、ナチスが求めた台所の合理化に貢献したというのは皮肉な事実というほかない。

ナチスは女性を「第二の性」とし、「第一の性」である男性に奉仕すべき存在と蔑視していた。その女性たちに「食」という人間の活動の基礎の無駄を省く重要な役割を求め、後世振り返ると大きな進歩が得られていたというのも皮肉な話である。

しかし、彼女たちの立場に立てば、その当時のドイツは飢餓と戦争の時代だった。

「最大限の節約に心がけつつ、栄養が豊富にあり、おなかも一杯になり、味わい深い料理を食卓にもたらすこと」を目指して彼女たちが発揮した能力は、多くの一般のドイツ国民を救ったことだろう。

本書のあとがきに、食の機能主義が行き着いたところが「瞬間チャージ」と言われる栄養機能食品であったことや、豪華なシステムキッチンをインテリアだけで、ほとんど使用しない話に触れているが、食糧不足が喫緊の問題となっている今、「台所」の復権は再度起こりうるのだろうか。


2022年6月19日日曜日

中学生から知りたい ウクライナのこと/小山哲・藤原辰史

この本で言っていることは、非常にシンプルだ。

マスコミ等の報道は、アメリカ・ロシアといった超大国のパワーゲーム史観、東西冷戦の構造、軍事戦略といった局面だけで、ウクライナ侵攻を語っている場面が多い。中学や高校で教わった歴史や地理の知識に戻り、ウクライナを知ると、狭い視野から抜け出し、多面的な視野を得られるということだ。

「中学生から知りたい」という副題の意味は、「大人の認識を鍛え直す」という思いも込めたという言葉に多少救われたが、この本を読んで、いかに自分が何も知らなかったかということが恥ずかしいくらいによく分かった。

例えば、

ウクライナをめぐる複雑な歴史…ウクライナがモスクワを中心とするロシア帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ハプスブルク帝国、オスマン帝国のはざまで分裂と統合と戦争を繰り返し(歴史家のティモシー・スナイダーは「流血地帯」と呼んでいる)、ウクライナ人民共和国として独立した後も、ソ連の一部に組み込まれ、199年にようやく独立を果たしたこと。
また、一時期ではあるが、ウクライナ民族主義組織(OUN)がナチス・ドイツと連携していた時期があり(現政権は無関係)、これを捉えて、プーチンがウクライナの指導者がネオナチだと言っている根拠にしていること。

多様な宗教…キエフ=ルーシは東方正教会と呼ばれるキリスト教の流れにあり、ユダヤ教徒も多く住んでいて、十三世紀のモンゴル軍の侵攻を受け、残ったモンゴルの遊牧民をルーツに持つタタール人はイスラム教徒で、三つの宗教が共存していた土地だったこと。

地理的に魅力的な土地…ウクライナは黒海の北岸の広大なステップ(草原)地帯であり、ベラルーシやロシアのような森林地帯とは異なっていること、また、非常に豊かな穀倉地帯で、「黒土地帯」とも呼ばれていること。一方、ドイツは軽土と呼ばれる肥えていない土の土地が北部に広がっていたため、肥沃なウクライナの土地を常に欲していた背景があったこと。

ウクライナ語の特色…同じスラブ語派といってもロシア語とは言語的にも近いが、ロシア語にもない特殊なアルファベットを有しており、ポーランド語を勉強した人でも聞き取れないことが多いこと。

等が興味深かった。(地図付きで分かりやすい)

また、以下の厳しい指摘を読んで、改めて日本にとってもこの戦争は他人ごとではないということを改めて認識した。

・ロシアへの経済制裁に日本が加わったことで、ロシアからは非友好国として認定され、サイバー攻撃等の対象となっていること。また、2015年9月に安倍政権下に成立した安保法による集団自衛権の発動が憲法の解釈上認められたため、直接日本への攻撃がなかったとしても、アメリカの戦争に加わるシステムがすでに整備されているということ。

・台湾に中国が攻めてきたときには、鹿児島から沖縄の南西諸島にかけての地域が戦場となることがすでに確定していること(ロシアとNATOのはざまに存在するウクライナの問題は、中国と日米同盟のはざまにある南西諸島の問題と重ねることが可能なこと)

2022年6月12日日曜日

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍/大木 毅

 本書は、1941年6月22日にナチスドイツが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで開戦し、1945年まで続いた「独ソ戦」にフォーカスを当てている。

 この戦争は、数千キロにわたる戦線において数百万の大軍が激突した空前絶後の規模となり、第二次世界大戦の主戦場となった。その被害も半端なものではなく、ソ連では2,700万人の死者が発生し、ドイツでも800万人を超える死者が発生した(日本は230万人)。

 なぜ、これだけの被害が発生したかについて、本書は、この「独ソ戦」には、軍事的合理性に基づいた「通常戦争」の枠を超えた「世界観戦争(絶滅戦争)」と「収奪戦争」の側面があった点を指摘している。戦闘のみならず、ジェノサイド(大量虐殺)、収奪が正当化され、多くの被害が発生した。

 ヒトラーは、ドイツの高級将校たちに、共産主義は未来へのとほうもない脅威であり、敵を生かしておくことのない「みな殺しの闘争(絶滅戦争)」の認識を求めた。

 対するソ連側でも、かつてナポレオンの侵略を退けた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」と規定し、ソ連軍の機関紙では「ドイツ軍は人間ではない。報復は正義であり、神聖である」と、ドイツ軍が行った虐殺行為に対する報復感情を正当化した。

 なぜ、ナチスドイツがソ連へ侵攻したかについては、ヒトラーはソ連を征服し、その豊富な資源や農地を支配下においてゲルマン民族が自給自足できる東方植民地帝国を建設しようという考えを持っていたことによる(誇大妄想的ではあるが、世界的食糧危機が起きている現状を見ると、その狙いは馬鹿にはできない)。
 また、国内的にも再軍備ということで財政はひっ迫し、労働力は不足していたが、国民の反発を恐れたナチス政権は、国民にその負担は押しつけず、ソ連侵攻によって資源や外貨、占領地の人々の労働力の収奪を目的に侵略戦争に突き進んでいく。
(当時占領下にあった旧ソ連領ウクライナだけでも、1700万頭の牛、2000万頭のブタ、2700万頭の羊とヤギ、1億羽のニワトリが徴発されたという)

 人の扱いはさらに酷い。
まず、占領した土地の人々にとって有用な住まいや衣類や食物を奪い、数百マイル以上も歩かせ、ドイツ軍のために一日10時間働かせた。過酷な労働環境で多くの人々は病気、衰弱により死んでいく。ドイツの生産拡大を達成するとともに不必要な人間を抹殺していくというナチス指導部の目標通りの行為がなされた。
(本書では、収奪や絶滅戦争によって利益を享受したドイツ国民はナチス政権の「共犯者」と位置付けている)

 そして、独ソ戦の最終局面では、優位に立ったソ連軍はドイツ本土に踏み入ると、敵意と復讐心のまま、軍人だけでなく、民間人に対しても略奪、暴行を繰り返し、地獄絵図が展開された。

 現在のロシアによるウクライナ侵攻を思い浮かべながら、本書を読むと、プーチンがナチスの侵攻を受けた歴史を都合よく解釈し、自分たちに抗うウクライナの人々を「ネオナチ」と呼び、その侵略から自国民を守るために戦っているという「大祖国戦争」のような主張を述べているのが分かる。また、自分たちがかつては支配・所有していたという認識のもと、他国侵攻を「領土奪還」と正当化する領土の収奪と、ウクライナからの穀物輸出を封鎖し、食糧を人質に各国と有利に外交交渉を進めようとする「収奪戦争」の側面があるということも見えてくる。

2022年6月5日日曜日

興津弥五右衛門の遺書/森鴎外

文語体で書かれているが、落ち着いて読むと文章は簡潔明瞭だ。

興津弥五右衛門景吉が、自分を取り立ててくれた主君(細川忠興)の死を受け、殉死するにあたり、自らの生い立ちを祖父の代から振り返り、細川家に召し抱えられるまでの経緯、景吉が主君の「珍しき品」を買い求めるようにとの命を受け、伽羅の香木を買おうとするが、反対する同僚と諍いになり、その同僚を斬り捨ててしまったこと、しかし、主君は却って景吉を褒め、その後も重用してくれたことなどを遺書にしたためる。

彼の記録によると、このような殉死は珍しいことではなく、他の殿様の死の際にも、多くの家来が殉死していることが書かれており、自分の殉死も過去の習わしの一部であるかのような、いささかも自分が死ぬことに疑念を持っていない雰囲気を感じる。

そして、自分が忠誠を尽くして死ぬことを子々孫々に伝えるべく、遺書を息子に託すという物語だ。

作品の後ろには、歴史小説であることの証のように、興津弥五右衛門景吉の家系図、その後の切腹の様子、子孫の行く末が記されている。

この作品は、当時、明治天皇の崩御を受け、乃木希典大将が自刃した直後に書かれているので、鴎外が乃木希典の心情にある種の共感を持っていたのは間違いないだろう。

夏目漱石もこの事件を受け「こころ」を書いているが、面白いのは、鴎外と対局にあった自然主義文学者たち(白樺派の武者小路実篤など)は、この事件をナンセンスなものと捉えて非難していたことだ。(この感覚の方が今となっては常識的だが)

鴎外としては、この作品をもって、誹謗中傷の言論から、乃木の殉死の名誉を守りたかったのかもしれない。

日本の精神の中心を担っていた武士という存在が体現していた道徳、価値観そういうものが消える。そのことの哀惜が鴎外に筆をとらせたのだと思う。


2022年5月30日月曜日

魚玄機/森鴎外

この作品は、晩年の鴎外の作品としては、異質な印象を受ける。
歴史小説ではあるが、タイトルにもなっているこの物語の主人公「魚玄機」は痴情に絡んで、自らの婢を殺しているからだ。

しかも、魚玄機は色町に生まれた美少女でありながら詩の天才で、同じく詩の天才であった温氏にも認められていた。

その彼女が、李という財産家に見初められ妾になるが、性的不能だった。
その彼女が離縁後、女道士となり、道教の修行中、中気真術により、女に目覚める。
そして、自分より年若い女道士とも関係を持ち、やがて楽士である陳という若者と恋愛関係に落ちる。

しかし、陳が自分の婢(侍女)である緑翹が陳と浮気しているのではないかという猜疑心に囚われ、彼女を絞め殺してしまう。

そして犯行が露見してしまい、魚玄機は死刑に処せられてしまう、という物語だ。

有能な詩人であったのに性欲に囚われ、人生を誤ってしまった女性の悲劇を描いている物語のように思える一方、物語は彼女と同じ詩才があった温氏の人生にも触れているところも面白い。

温氏は詩の才はありながらも、ずけずけとした物言いが災いして出世からは遠ざけられてしまっている。魚玄機が刑に処せられた時には地方の官吏に飛ばされてしまっていた。

共に芸術の才がありながらも、その能力を十分に発揮できないまま、人生を終えてしまった二人。

晩年の鴎外は案外二人の生き方に自分を重ねたような気持になっていたのかもしれない。

2022年5月29日日曜日

山椒大夫/森鴎外

吉田健一の文学展示会に行った際、帰国して間のない吉田に、彼の師匠である河上徹太郎から、日本文学を学ぶのであれば、森鴎外の作品を読んだ方がいいと指導していたという展示物を読んで、確かに森鴎外の文章ははずれがないよなと思ったので、長く敬遠していた「山椒大夫」を読んでみた。

この「山椒大夫」に関しては、物語の悲劇性がどうも肌合いがよくなかった。
山岡大夫や船頭にたやすく騙されてしまった母親にやるせない怒りを感じたからだ。よく考えれば彼女も被害者なのだが、だます悪党よりもあまりにも善人な母親にもう少し用心深く慎重に旅ができなかったのかという変な怒りがあったからかもしれない。

一読したが、非常に長い物語のはずが五十ページ程度に必要最小限に刈り込まれていて、鴎外五十三歳の時の作品らしいが端然とした文章にすきはなく、一流の作家が書いた作品になっているという印象を受けた。

また、想像を裏切られていた点として、厨子王が姉を自殺に追い込んだ山椒大夫に復讐しただろうと思い込んでいたのが、作品では、厨子王は国守となった後、奴婢を解放する政治改革は行うが、山椒大夫への個人的な怨みにもとづいた復讐はせず、「一族はいよいよ富み栄えた」の一文となっていた。

私は、厨子王のあまりにも出来た人格に、彼の心の奥底は、ぼろぼになった母親と姉の無念を思えば、山岡大夫や船頭、山椒大夫への怒りは消えなかったはずだと思った。

私は、かつて丸谷才一が、森鴎外は「美談好き」で、「そめちがえ」という花柳小説すら美談にしてしまったのが原因で作品が面白くない、と評していたのを思い出した。

丸谷才一は、鴎外がそのような「美談好き」となった理由として、彼の社会的立場(軍人であり官吏)や明治人のモラルのほか、当時の日本文学の流れが鴎外の嫌いな自然主義文学が興隆を強めていたこと(美談とは真逆で現実を写実的に表現する)や、江戸期の文明への懐旧の思いかを挙げている。だから、彼は後年、安心して美談が書ける歴史小説と伝記を選んだのだと。

そう考えると、鴎外の職業や時代背景が異なれば、この「山椒大夫」の作風も少し変わったかもしれないと思うとすこし残念だ。もちろん、この作品でも文章は間違いなく一級品なのだが。(説話にあるような残酷な場面をそれこそ自然主義的に書いた作品も嫌だけれど)

2022年5月8日日曜日

チェルノブイリ 「平和の原子力」の闇/アダム・ヒギンボタム

400ページにわたる本文は、膨大な巻末の注釈と参考資料のリストに支えられ、ノンフィクションを読んだという重みがある。

今、この時期にこの本を読み終えて心をよぎったのは、次の点だ。

1.原子力発電所のリスク

本書を読むと、チェルノブイリ原発事故は、決して作業員の過失によって生じたものではなく、RBMKという原子炉が抱えていた重大な瑕疵を隠ぺいしてきた旧ソ連の政府当局の体質が一番の原因だったことが分かる。福島の原発事故も、東京電力が予見出来ていたのに津波対策を怠っていたことをめぐって係争中だが、チェルノブイリは決して特異な例ではなく、自然災害でも原発事故は起こりうることを証明した。
日本ではそれほど放射能による人的被害が報道等で報じられていないが、本書で取り上げられていた多くの犠牲者(原子力発電所の作業員、消防隊員、軍人たち)の甚大な健康被害を思うと、本当にまだ原発を再稼働させる考えを持っているのですか?と問いたくなる。

2.ロシアという国の行く末

今年2月に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻により、チェルノブイリ原発が、ロシア軍に極めて粗雑で危険なやり方で占拠されるという信じられない事件が発生した。
この本を読むと、曲がりなりにも、事故を収束させようと国の威信にもかけて懸命の努力を払っていたモスクワ(ロシア)が、なぜ、こんな国になってしまったのかという思いに駆られる。当時、最高責任者であったゴルバチョフが不完全ながらも掲げていた「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」の精神と逆行している今のプーチン体制にも暗い気持ちになるが、原子力のリスクを全く考慮していないかのようなロシア軍のふるまいに、かつてのソ連が西側と競っていた科学技術力の面影は全く感じられないことも気になった。
当時と全く変わっていないのは、国家の命令で死地に大量に派遣されるロシア国民の命の軽さである。
ロシアという国を捨てて出国するロシア人も増えていると聞くが、大義もなく人の命を粗末にする国は間違いなく滅びる。

3.ドラマ「チェルノブイリ 」との違い

この本を読んで最も印象が変わったのは、チェルノブイリ原子力発電所所長 ブリュハーノフだ。ドラマでは、無責任で上役に調子のよいだけのイメージがあったが、この本では、チェルノブイリ原発の創成期にも触れられており、三十半ばぐらいのブリュハーノフが、十年かけて、チェルノブイリ原子力発電所とその関係者が住むための原子力都市プリーピャチを創りあげた責任者だったということには驚いた。このような仕事ができたということは非凡な才の持ち主であったことは間違いないだろう。その彼が、ほとんど弁明も取り上げてもらえず、事実上の「いけにえ」として、原発事故の責任を取らされたということも、国家に都合よく取り扱われる個人の運命のはかなさを感じた。

2022年4月24日日曜日

少女漫画家「家」の履歴書/文春新書

少女漫画家の大家たちが、どのような家に住んできたか、その履歴をインタビューしてまとめている本。若い時の苦労話も多く載っている。

私が子どもの頃、読んでいた作家の名前が多くあったので読んでみた。

総じて共通しているのは、以下の点だと思う。
・漫画家になるのは親に反対された
・家庭環境がそれほど裕福ではない
・仕事場の確保のために、でかい家を買う

一番、面白かったのは、「ガラスの仮面」の美内すずえだろうか。

名前をトラと名付けられそうになった話とか、一度読んだ漫画を全部頭の中に記憶して、授業中、再現していたという異常な記憶力のよさや、貸本のツケがたまりすぎて漫画が読めなくなったことが、漫画を描くきっかけになった話など、飽きさせない。

「生徒諸君!」の庄司陽子も、講談社の編集部と原稿料を交渉の末、数倍に上げさせた話や、編集者と不倫関係になっていたことが語られていて意外感があった。でも、母親のために「『生徒諸君!』御殿」を建てるなど、性格が(ナッキーみたいに)すごくいい人のように感じた。

「日出処の天使」の山岸凉子は、とにかく、家相・風水のこだわり方が尋常ではない。それは、この人とそのご家族も霊感が強いのか、不思議体験を数多くしているせいかもしれない。文中、

今世の中で流行っているものって、私にとってはもはや古いもの。みんなの想像を裏切らなければ、既成概念を壊す新しいものは作れないと思ってやってきました。

と述べているところが、いかにも山岸凉子らしい。

「パタリロ」の魔夜峰央は、売れない時代、古本屋や図書館で外国の推理小説やSFなど、半年で八百冊は読んでいたというエピソードが興味深かった。それと意外だったのは、2011年ころから五年ほど、経済的に厳しい状況があったということ。一発売れても、漫画家の世界は厳しいんですね(今は翔んで埼玉とか、パタリロの舞台化で持ち直しているようですが)。

他、自分が読んだことのない漫画家のエピソードも載っていますが、やっぱり作品を読んでいるかいないかで興味度合いが全然違いますね。


2022年4月9日土曜日

消えた国 追われた人々/池内 紀

東プロシアの場所は、現在の、北部ポーランド、ロシアのカリーニングラード州、リトアニアのクライペダ(ドイツ名:メーメル)に重なるあたりにあった。

十二世紀末、聖地イェルサレム奪還を目指し出立したドイツ騎士団が、ハンガリー王に国境警備を乞われ、東方に進出したことを契機に、現在の北ポーランドのあたりに城をつくり、自分たちの町を作った。

七百年の歴史を持った国、東プロシアは、第二次世界大戦前の地図には存在していたらしい。

首都ベルリンを持つプロシア王国の東にあたるので東プロシア。
町ごとに人種の構成も異なり、ある町はドイツ人が、別の町はポーランド人が、また別の町はロシア人、さらにまた別の町はリトアニア人が作り、それぞれが自治権を行使していた。

異なる人種が複雑に共存しながら、言語や伝統、生活習慣が違っているにもかかわらず、民族紛争は起こらず、ゆるやかな「民族共同体」が実現していた。

その首都ケーニヒスベルグには哲学者カントがいて、ドイツ騎士団の町トルンには、天文学者のコペルニクスがいた。ドイツ・ロマン派の作家ホフマンも東プロシアの生まれだった。

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって国境が変化し、東プロシアはドイツと切り離された。軍港ダンツィヒはどこの国にも属さない「自由都市」となったが、住民の大半はドイツ人だった。

ヒトラーは強硬に、ダンツィヒとドイツ本国を結ぶ「ポーランド回廊」を要求したが、ポーランド政府は拒否。第二次世界大戦勃発の引き金となった。

第二次世界大戦末期、一九四五年一月、ソ連軍がポーランド国境を越え、東プロシアに入った。ドイツ系住民二百万人は避難を開始したがすでに遅かった。

ソ連軍T34洗車隊が避難民を轢き殺し、ソ連兵は多くのドイツ女性を強姦した。
陸路での避難を恐れた人々は海路に逃げ、ダンツィヒ湾では、ナチス・ドイツが用意した豪華客船ヴィルヘルム・グストロフ号に九千余名の避難民(多くは女性と子供)が乗ったが、ソ連軍潜水艦の魚雷をくらい、冬のバルト海に沈むという悲劇も起きた。
(タイタニックは二千に足りない乗客なので、その悲劇の大きさが分かるが、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺などの加害者としての責任が強調され、この事故の悲劇を主張することはドイツ人にとって禁句だったという)

ドイツ系住民二百万人が、先祖伝来の土地や建物、財産、身の回りのもの一切を奪われ、追い出された。

そのあと、「ソ連・ポーランド管理下」という名目上、ロシアとポーランドから人々が移り、町や村は名前を変えられ、東プロシアという国は消えた。
追放された人々は戻ってこなかった。

本書は、ドイツ文学者で亡くなった池内 紀氏(カフカの翻訳で有名)の紀行文だが、三度にも及んでこの地を旅したという。きっかけは、ギュンター・グラス(「ブリキの太鼓」が有名。ダンツィヒの出身)の新作「蟹の横歩き」(グストロフ号の海難事故を扱っている)の翻訳のためだったという。

当初のタイトルは「東プロシア紀行」というタイトルだったが、旅を重ねなることで「消えた国 追われた人々」に変わった。

池内氏は、あとがきでこんなことを述べている。

私はおぼつかない東プロシアという消えた「国」のなかに、すこぶる現代的な「国の選別」のヒナ型を見た。

生まれた国と育った国、いまや、人が国を選び、あるいは捨てる。国そのものが人によって選びとられ、また捨てられる。第二次世界大戦末期に、力ずくで捨てさせられたとき、千二百万人をこえるドイツ「難民」が生まれた。それははからずも、いち早く二十一世紀を先取りしていた。

この本を読もうと思ったのは、多和田葉子の新聞連載小説「白鶴亮翅」の主人公ミサの隣人Mさんがプルーセン人の末裔で、東プロシアという聞きなれない土地に住んでいたことに興味を覚えたからだったが、あまりにも今のウクライナの状況に酷似していることに驚いた。

悲劇は繰り返してはならないと本当に思う。

2022年3月5日土曜日

エクソフォニー 母語の外へ出る旅/多和田葉子

 Wikipediaで、「エクソフォニー」を調べてみると、Exophony is the practice of (normally creative) writing in a language that is not one's mother tongue.とあった。

母語ではない言葉で書くこと、という意味らしい。

多和田葉子は、日本人でありながらドイツ語でも小説や戯曲を書いているので、エクソフォンな作家と言えると思うが、この本では、母語を離れることで見える、何気ない言葉の意味やそれを使う人々の意識、歴史まで考察していて、興味深い。

例えば、母語以外で小説を書くことの難しさについて、

言葉を小説の書けるような形で記憶するためには、倉庫に次々木箱を運び入れるように記憶するのではだめで、新しい単語が元々蓄積されているいろいろな単語と血管で繋がらないといけない。しかも、一対一で繋がるわけではない。そのため、一個言葉が入るだけで、生命体全体に組み換えが起こり、エネルギーの消費がすさまじい。

という説明は、興味深い。

また、明治時代、日本人がヨーローッパを受け入れなければならなかった事情を、森鴎外の作品「大発見」を引用して語りながら、日本人が草鞋から靴に履き替えたことを取り上げ、

鴎外を読んでいると、西洋が圧倒的に強く、日本が植民地化されてしまうかもしれないという大変な世界情勢のもとで、国が自らの身体に強いて靴を履かせたのだという感じが伝わってくる。そうしなければ文明国と認められず、それを理由に不平等な契約を結ばされたまま、半植民地的な状態が続いてしまう。...歴史書や歴史小説以上に「歴史の手触り」のようなものを伝えてくれた。

と述べ、鴎外が「西洋化」に対してユーモラスで皮肉な距離を失わなかった点を挙げている。

そして、言葉の素性について、

わたしは子供の時に「美」という単語を母語として習い、ずっと後になって外国語であるドイツ語を学んで初めて、Schönheitという単語に出逢ったのだが、実はこれが「美」の元の姿の兄弟だった。ということは、子供の時に出逢った日本語の単語の幾つかは、日本語にやって来た一種の移民だったのだ。

という発見は、外国語を学んでみないと決して実感として湧かない感慨であろう。

最後の方で、作者がとあるワークショップに参加したことで、意味も分からず、一日四時間、フランス語を聞き続けて、

言葉の響きと、響きの持つ仕種や体温や光のおかげで、妙に満たされた気分になってくる。そこにはすべてがあり、意味だけが欠如している。夜になると、異変が起こった。まるで、麻薬でも打ったようになって、生まれてから見たこともないような夢を続けざまに見た。...ひょっとしたら言語の本質は麻薬なのかもしれない。

 という体験談も、とても興味深い。


2022年2月23日水曜日

いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経/伊藤比呂美

 詩人の伊藤比呂美がまとめたエッセイとお経、その現代語訳、著者朗読のCDが付いているという複合型の本だ。

伊藤比呂美は、自身の家族の死を通し、さまざまなお経を読むうち、お経というものは、その昔、ブッダの仏教から大乗仏教というものが派生して、人々が町々の辻々で語って広めて歩いたものだから、語り物として聞いて面白いように作ってあるということに気づく。

舞台がある。観客がいる。いきいきとした対話がある。その対話を聞いている大勢の人々が背景にいる情景が目に浮かぶと。

その解釈から現代語訳された「般若心経」は読んでいて面白かった。

薄暮れの川のほとり、三十~四十人の聴衆がいて、川の向こうではブッダが瞑想中。その川のほとりの階段で観音菩薩が修行者の舎利子(シャリープトラ)に語りかける設定にしたことで、「般若心経」は一つの物語になった。

一つの物語になっただけではなく、観音菩薩はダンスを踊りながら、無い、無いづくめのシンプルで強力な哲学論議をリズムに載せて展開している。

そして、観音の一言一言に、聴衆を代表した舎利子が、驚き、戸惑い、怒り、動揺し、やがて理解するプロセスが描かれている。

最後の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」を、そのまま「ぎゃーてい、ぎゃーてい...」と読み上げるのだが、ことばの響きの力強さが伝わってくる。

読んでいて、心がすっきりと晴れ上がっていくような気分になる。

他のお経も興味深かったが、この「般若心経」は、とびぬけて素晴らしかった。

2022年2月13日日曜日

詩歌川百景 2 /吉田秋生

この第2巻では、寿子(妙の伯母で"若女将"と呼ばれている)の娘の麻揶子が登場する。

麻揶子の絵だけ見ると、妙のおばさんみたいに見えてしまうが、妙の母親の絢子の姉が寿子なので、彼女たちはいとこ同士なのだ。(寿子の息子の仙太郎も同様に妙のいとこ)

民子という人間のできた”大女将”の不肖の娘たち、寿子と絢子という母親たちから呪いをかけられた娘の麻揶子と妙。

麻揶子は、母親である寿子から「あんたは見た目があたしに似てよくないからせめて愛想よくしなさい」と呪文をかけられ、妙も絢子の「自慢のお姫さま」という呪文をかけられるが、相当のエネルギーを使って、その呪文から抜け出すことができた強い精神力を持った二人だ。

その二人が、暴力を振るった父親から受けたトラウマと不貞の母親の存在に傷ついて、いまだ回復できていない和樹を心配するのは自然の流れかもしれない。

父母の陰口を言われ、傷ついた和樹を、妙が、和樹の義姉のすずが好きだった秘密の高台に連れていく場面がいい。

こんなに人の心が分かる妙には本当は医者を目指してほしいと思ってしまった。

2022年2月12日土曜日

日本人にとって聖地とは何か/内田樹・釈徹宗・茂木健一郎・高島幸次・植島啓司

内田樹は、「聖地」を「そこでは暮らせないところ」であり、「敬してこれを避ける」というのが基本であると説明しているのが興味深い。

そこに行くと、自分の感性がザワザワする、そのザワザワには、「よきもの」や「悪しきもの」に対する感知が含まれている。

巷で言う「聖地巡礼」とは異なる説明だが、ここでその「聖地」の例として挙げられているのが、熊野古道や新宮の火祭りなのだが、なんとなく、その意味しているところは伝わってくる。

また、大瀧詠一の言葉「聖地はスラム化する」を引いて、聖地のパワーが強ければ強いほど、周りには卑俗なものが配列されるという説明も面白かった。確かに有名な神社・仏閣・景勝地には、土産物屋とか、一昔前は遊郭などがあったことも説明がつく。聖と俗ですね。

本書は、あまり体系的な読み物ではないが、そのせいで、パラパラと他にも面白い説明があった。

茂木健一郎は、人間の性格の要素の重要な要素を5つ挙げており、第一がOpenness(新しい経験に対して開かれていること)、第二にExtraversion(外向的)、第三はAgreeableness(親しみやすさ)、第四はConscientiousness(物事を最後までやり遂げる力)、第五にNeuroticism(悩んだり嫉妬するネガティブな因子)から構成されているという。この第五をどうなだめたり、抑えるかが重要だと。
これに関して、内田樹は、暴力的なもの、攻撃的なものは、映画でも漫画でもあまり見ない方がいい(そこで見た血なまぐさい映像や心象に心は影響される)と言っているのも興味深かった。それと同じく、不安や怒り、恐れとか、切迫したら、瞬間的にパッと切る、というやり方は、心の調え方としてとても納得できる(実際にやるのは難しいと思いますが)。

植島啓司によると、三世紀の中国の書物に「海賦」があり、太平洋の航海記録が残されているという。イースター島を思わせる記述もあり、三世紀にすでに中国大陸から南アフリカ近くまでの移動の記録が残っているという。(インターネットで無料で読むことができると書いてあるが、ヒットせず。謎です)

魏志倭人伝にも出てくるが、縄文人は海洋民族で、体に蛇のうろこ等を入れ墨していた(司馬遼太郎の「木曜島の夜会」にもその末裔が出てきますね)。内田樹によると、その海洋民族の系列にあったのが平家で、源氏は騎馬民族系だった。源平合戦があり、日本の社会体制が変わり、古代から中世へ時代が転換した。武家が馬を操って日本中を制覇していく時代になった。

と、色々と面白いエピソードが書かれています。


*新宮の火祭りは、私も行ったことがないですが、youtubeで映像がありました。例年2月に行われるようですが、今年は神事のみ行われるとのことです。コロナの影響でしょうね。残念です。

2022年2月6日日曜日

言葉と歩く日記/多和田葉子

この本は、多和田葉子の2013年1月1日から4月15日までの日記なのだが、この期間に彼女は自分の日本語の小説「雪の練習生」をドイツ語に翻訳していた時期でもあったらしい。

その「雪の練習生」で、多和田葉子は、主人公を人間なのか動物なのか分からないまま話を始めたかったのに、ドイツ語では、動物の手足と人間の手足をさす言葉が異なっているので、すぐわかってしまうため、人間の手「hand」と動物の手「Pfote」を組み合わせて「Pfotenhand」という単語を作ったという話が書いてあった。

彼女はその単語作りをやりすぎだと思い、一旦そのアイデアを捨てるのだが、ウィスコンシン大学の日本文学の授業で、ドイツ語を教えているドイツ人女性に「その言葉はとても美しいと思う」と言われ、この造語をまた使う気持ちに変わったというエピソードが面白かった。

言葉には無限の可能性がある。多和田葉子はその可能性を深く探索し、この100日近い間、言葉をめぐって様々な考察を行っているのだが、その試行錯誤が興味深い。

例えば、「自分はなんて駄目なんだろう」という文章は、考えることをやめた結果残ってしまった物質であり、この文章を解体しなければならないと述べている。そして、たとえば「わたしは試験に落ちた」と言えば、主語である「わたし」が失敗を引き受けなければならない代わり、もう一度挑戦することができると述べている。
(この主張は、片岡義男氏の日本語に対する批評とよく似ていると思ったが、実際、この日記の中で片岡義男氏の「英語で日本語を考える」を読んでいたことが書かれている)

他方で、日本語に主語がないという特徴(わたしや彼は人称代名詞ではなく、ただの名詞)について、世界的には主語を省略できる言語の方が圧倒的に多く、むしろ主語がなくては困る言語(英語やドイツ語)の方が少数派であるという金谷武洋氏や月本洋氏の著書を引用し、その主張に共感している。

日本語批評という点でも、はっとさせられる文章が多かったが、なるほどと思ったのが、「炉心溶融」という言葉だ。

彼女は、原発事故の際、ドイツの新聞に比べ、日本語の新聞の書き方があいまいだったことを指摘し、なかでも「炉心溶融」(ろしんようゆう)という単語のインパクトが弱いことを指摘している。ほとんどの人にはどういう意味か分からなかっただけでなく、イメージさえ湧かなかったという感想を述べている。

また、フランスで、福島の原発事故を巡り、それは日本の技術が低いからで、フランスには事故がないと思い込ませるような内容の記事について、

母語で得られる情報だけに頼るのは危険だ。外国語を学ぶ理由の一つはそこにあると思う。もし第二次世界大戦中に多くの日本人がアメリカの新聞と日本の新聞を読み比べていたら、戦争はもっと早く終わっていたのではないか。...書かれていることがあまりに違うということだけで、自分の頭で考えるしかない、なんでも疑ってかかれ、という意識が生まれてくる。そのことが大切なのだと思う。

と述べている。比較はともすれば、知りたくないことや嫌なことにも目を向けなければならない非情の客観性が求められる。

外国で暮らし、外国語と日本語を、その先の文化も含めて、常に比較することを意識している作者だから、言えた言葉かもしれない。こういう言葉は、なかなか、内向きの社会からは生まれてこないような気がする。

2022年1月30日日曜日

溶ける街 透ける路/多和田葉子

多和田葉子の小説は、国境を越える言葉や人々の物語が多いが、この本を読んで、それは彼女の作家としての仕事でも全く同じであったことに、ある種の感銘を覚えた。

この本で、彼女は主に欧米諸国の四十八の町を旅しているが、ほとんどが作家をめぐる現地のイベントやフェスティバル、インタビューや朗読会を機会に訪れた街が描かれている。

彼女は、新型コロナウイルスによるパンデミックが始まる2020年の春まで、自分の作品と一緒にともに、旅芸人のように声がかかった町から町へと旅していたのだ。

人との交流を敬遠する文筆家も多いと思うが、好奇心だろうか、彼女は行く先々の町や人々にオープンに泰然と接しているように思える。

海外への個人としてのプライベートな旅ではなく、作家としてのパブリックな旅をこんなに重ねている日本の作家は、かつていなかったのではないだろうか。

文章は非常に読みやすく、無駄がない。

誇張や自慢はなく、多和田葉子という信頼できる作家が見て感じた一場面を切り取った短文だが、その街の印象が鮮やかに記憶に残る。

このパンデミックの中、この本を読んで、私は新鮮な外の空気をすうっと吸い込んだような気分になった。

2022年1月23日日曜日

コロナ後の世界/内田樹

この本のまえがきが面白い。

作者は、今の日本社会で人々が、しだいに「不寛容」になってきており、「尖った言葉」が行き交っていることを気にしており、最も欠けているものはちょっとした「親切」であると述べている。そして、作者は「どうやったら親切になれるか」ということをずっと考えてきた。

それにもかかわらず、作者がこの本で悪口ばかり書いているのは、「尖った言葉が行き交う現代日本社会を憂えて、人に親切にしようとする男が思い余ってつい「尖った言葉」を口走ってしまう」典型的な事例と述べている。

そのようなエクスキューズ(弁解)を意識しながら、この本を読むと、確かに悪口が多い。その大半は、安倍・菅政権に向けられているのだが、その実、この政権にNOを突きつけず、結果として受け入れてきた日本社会に対する深い失望を感じることができる。新型コロナパンデミックという忖度や改ざんが効かない本当の危機が彼らの無能を証明し、退陣ということになったが。

(本書では、コロナを奇貨として、地方で暮らすことの選択や本当の天職を見つける機会ができたこと、大学がいかに今まで生徒を個体識別してこなかったこと(弱者を顧みない教育を行ってきたこと)を述べ、オンライン授業により、欠席者を把握し、フォローすることが可能になったことで、生徒ひとりひとりを認知し出したという良い傾向がある点も述べている)

「コロナ後の世界」という表題の小文を読むと、「民主制は独裁制よりも危機対応能力が低い」という懸念について、「独裁制は短期的にはたいへんうまくゆくことがあるが、長期的に見た場合に、歴史的な変化や地政学的な変化に対応して、そのつど変身を繰り返すことが原理的にできない」と述べ、他方「民主制は生き延びるために国民に「大人になること」を求めるから、そういった「大人」が一握りでもいれば、破局的事態を迎えても、復元力の強い、臨機応変の国ができる」と述べている。
そして、そのためには「大人」を育てることが民主制(をとる日本)にとって喫緊の国家的課題であると。(内田氏はその「大人」の数をせめて7%いればと言ってる)

本書の後半パートでは、亡くなった大瀧詠一、橋本治、加藤典洋の各氏に対する追悼文が載せられていて興味深かった。とりわけ、内田樹氏が大瀧詠一の大ファンだとは(大瀧詠一の音楽知識の深さについても)知らなかった。

「吉本隆明1967」も内田樹氏の若かりし日の過去(不良化→中卒労働→大検)が直截的に述べられていて、興味深かった。

内田樹氏のこういった個人的なエピソードは初めて読んだような気がする。そのせいもあってこの本のイメージが岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」と少し似ているなと思った。

2022年1月16日日曜日

ETV特集 ドキュメント 精神科病院×新型コロナ/NHK

精神疾患がある人たちが、コロナ禍の状況の中、非常に劣悪な環境で医療を受けている現状を知り、衝撃を受けた。

番組では、日本最大の精神科病院・都立松沢病院で、都内でクラスターが発生したX病院とY病院の患者を受け入れている事例を取り上げていた。

X病院では、コロナ陽性の患者を隔離することなく、大部屋で感染拡大を放置していた。理由は、病院自体が古く設備がなく隔離しようにも空いている部屋がなく満床状態だったため。コロナ陽性の区別なく、感染していない患者も含めて患者のいる病棟をレッドゾーン(汚染区域)として閉じ込めてゾーニングする。

これは保険所の指導だったらしい。その結果、当たり前だがどんどん陽性者が増え、クラスターがX病院のすべての病棟で発生した。さらに病院職員の1/3が陽性となり、事態は悪化する。

この番組で初めて知ったが、精神科病院は一般病棟に比べ医師の数は1/3、看護師数も2/3でよいという元々が脆弱な医療体制の配置基準が定められているという。

日本で精神科病院が作られたのは1950年代で、精神疾患がある人を隔離収容する政策を推進していた。その際、精神科特例として上記の配置基準を定め、安上がりな医療体制を作った経緯があったという。

その結果、精神科病院はどんどん増え、世界の精神科病棟の2割が日本にあるという現状に至り(ただし世界的には退院を促進しているのに日本は長期隔離収容と逆行している)、精神科病院の入院患者数は27万人もいる。この人たちは、このコロナ禍、通常医療より脆弱な医療環境の中にいる。

日本精神科病院の会長が語っていたが、退院を促進できない理由として、精神疾患がある人への根強い偏見があり、社会が受け入れないという現状を指摘していた。また、自分たちは安い医療報酬で、単に医療を提供しているだけでなく、社会秩序を担保する役割を負っているとも。

都立松沢病院の院長も、

「患者さんを退院させるときに一番の抵抗勢力は社会だからね。...自分の問題とは考えたくないんだよね。みんな考えたくない。精神科病院の塀はなぜできるかっていうと、「あの向こう側は知りませんよ」と。きれいな緑があって「あの奥に患者さんを入れておいてください」と...見たくないんだよ。自分が怖いものを」と痛烈な言葉を投げかけている。

Y病院では、さらに信じられない対応がなされていた。病院スタッフが大部屋に陽性患者を集め、患者に了解もなく、病室に南京錠を取り付けて隔離していたという(Y病院はクラスターが発生したこと自体、公にしておらず、患者とヘルプに入った松沢病院のスタッフの証言)。鍵はごはんの時と投薬の時のみ開錠され、多くの患者を詰め込んだ部屋の真ん中にポータブルトイレを設置し、カーテンや仕切りもなく、そこで全員に用を済ませるという非人間的な状況を作り出していた。

恐ろしいのは、保健所が立ち入り監査もして南京錠隔離の事実を把握してながら何も是正していなかったということだ(保健所およびY病院はノーコメント。東京都も後日、病院の運営に支障をきたすという理由で回答を拒否)。

都立松沢病院の院長が最後に語っていた

「世の中に何かが起きたときに、ひずみは必ずぜい弱な人の所にいく。社会には弱い人がいて、僕らの社会はそれに対するセーフティーネットをどんどん細らせていることをもう一度思い出すべきなんだと僕は思う」

という言葉が重かった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009051339_00000

2022年1月2日日曜日

アメリカ 非道の大地/多和田葉子

読者を二人称の“あなた”に仕立て、アメリカの色々な街を巡らせる手法は「容疑者の夜行列車」と同じだが、その雰囲気は、舞台をアメリカにしたせいで、より不安定感が増しているような雰囲気がある。

人工的な街で、見知らぬ人々が接触する。人々はフレンドリーだが本当には分かり合えない壁のようなものがあって、人と人の触れ合いが何処か希薄で、ふと気づくとぽっかり暗い孤独な穴が垣間見える、そんな社会。

私は読んでいて、カフカが書いた「失踪者」と似たアメリカの世界をこの本から感じた。

第一章 スラムポエットリー ニューヨーク

空港での入国手続きの描写が秀逸。詩人が出る何かの大会のから騒ぎ的な熱狂の様子は、「失踪者」で描かれたアメリカの選挙の雰囲気と似ている。

第二章 鳥瞰図 シカゴ

高層ビルの最上階で、旅行者とあなたが、見知らぬビジネスマンのオフィスで景色を鳥瞰するエピソード。ネクタイの図柄とエレベータのボタンの描写がいい。

第三章 免許証 ロサンジェルス

アメリカの車社会が垣間見える。バスから見る何気ないアメリカの危うい日常。

第四章 駐車場 ニューヨーク

「真昼の大型スーパーマケットの駐車場は、夜のガソリンスタンドの次に寂しい場所だ」という、まるで詩のような一節。この物語に出てくるクララのような女性は確かにいるような気がする。

第五章 フロントガラス ボストン

この作品は、少し犯罪をリアルに描きすぎているような気がする。タイトルの「非道」を感じたのはこの作品だけだ。

第九章 水の道 サンディエゴ

ここで描かれるシーワールド(水族館)は、カフカの「失踪者」の「オクラホマ劇団」と雰囲気がとても似ている。後ろから声をかけてくる男の描き方が秀逸だ。