東プロシアの場所は、現在の、北部ポーランド、ロシアのカリーニングラード州、リトアニアのクライペダ(ドイツ名:メーメル)に重なるあたりにあった。
十二世紀末、聖地イェルサレム奪還を目指し出立したドイツ騎士団が、ハンガリー王に国境警備を乞われ、東方に進出したことを契機に、現在の北ポーランドのあたりに城をつくり、自分たちの町を作った。
七百年の歴史を持った国、東プロシアは、第二次世界大戦前の地図には存在していたらしい。
首都ベルリンを持つプロシア王国の東にあたるので東プロシア。
町ごとに人種の構成も異なり、ある町はドイツ人が、別の町はポーランド人が、また別の町はロシア人、さらにまた別の町はリトアニア人が作り、それぞれが自治権を行使していた。
異なる人種が複雑に共存しながら、言語や伝統、生活習慣が違っているにもかかわらず、民族紛争は起こらず、ゆるやかな「民族共同体」が実現していた。
その首都ケーニヒスベルグには哲学者カントがいて、ドイツ騎士団の町トルンには、天文学者のコペルニクスがいた。ドイツ・ロマン派の作家ホフマンも東プロシアの生まれだった。
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって国境が変化し、東プロシアはドイツと切り離された。軍港ダンツィヒはどこの国にも属さない「自由都市」となったが、住民の大半はドイツ人だった。
ヒトラーは強硬に、ダンツィヒとドイツ本国を結ぶ「ポーランド回廊」を要求したが、ポーランド政府は拒否。第二次世界大戦勃発の引き金となった。
第二次世界大戦末期、一九四五年一月、ソ連軍がポーランド国境を越え、東プロシアに入った。ドイツ系住民二百万人は避難を開始したがすでに遅かった。
ソ連軍T34洗車隊が避難民を轢き殺し、ソ連兵は多くのドイツ女性を強姦した。
陸路での避難を恐れた人々は海路に逃げ、ダンツィヒ湾では、ナチス・ドイツが用意した豪華客船ヴィルヘルム・グストロフ号に九千余名の避難民(多くは女性と子供)が乗ったが、ソ連軍潜水艦の魚雷をくらい、冬のバルト海に沈むという悲劇も起きた。
(タイタニックは二千に足りない乗客なので、その悲劇の大きさが分かるが、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺などの加害者としての責任が強調され、この事故の悲劇を主張することはドイツ人にとって禁句だったという)
ドイツ系住民二百万人が、先祖伝来の土地や建物、財産、身の回りのもの一切を奪われ、追い出された。
そのあと、「ソ連・ポーランド管理下」という名目上、ロシアとポーランドから人々が移り、町や村は名前を変えられ、東プロシアという国は消えた。
追放された人々は戻ってこなかった。
本書は、ドイツ文学者で亡くなった池内 紀氏(カフカの翻訳で有名)の紀行文だが、三度にも及んでこの地を旅したという。きっかけは、ギュンター・グラス(「ブリキの太鼓」が有名。ダンツィヒの出身)の新作「蟹の横歩き」(グストロフ号の海難事故を扱っている)の翻訳のためだったという。
当初のタイトルは「東プロシア紀行」というタイトルだったが、旅を重ねなることで「消えた国 追われた人々」に変わった。
池内氏は、あとがきでこんなことを述べている。
私はおぼつかない東プロシアという消えた「国」のなかに、すこぶる現代的な「国の選別」のヒナ型を見た。
生まれた国と育った国、いまや、人が国を選び、あるいは捨てる。国そのものが人によって選びとられ、また捨てられる。第二次世界大戦末期に、力ずくで捨てさせられたとき、千二百万人をこえるドイツ「難民」が生まれた。それははからずも、いち早く二十一世紀を先取りしていた。
この本を読もうと思ったのは、多和田葉子の新聞連載小説「白鶴亮翅」の主人公ミサの隣人Mさんがプルーセン人の末裔で、東プロシアという聞きなれない土地に住んでいたことに興味を覚えたからだったが、あまりにも今のウクライナの状況に酷似していることに驚いた。
悲劇は繰り返してはならないと本当に思う。
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