ツヴァイクが、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェをテーマに、三人の生涯には、人間の力を超えた魔人的(デーモニッシュ)ともいうべき共通点があったことを取り上げている。
住み心地のよい生活を捨てて情熱の破滅的な台風のなかに突き入り、命数に先んじて精神の恐ろしい惑乱、感覚の致命的な陶酔に落ち、狂死し、あるいは自殺し果てるという運命。
三人のうち、誰一人妻子を持たず、家財を持たず、永続的な職業、公務を持たなかった。現世における浮浪人、アウトサイダー、変わり者として、世間から軽侮され、無名の生涯を送った。
その原因を、 ツヴァイクは三人には根元的かつ本来的に生まれついた焦燥(デーモニッシュなもの)があったことを指摘している。この焦燥のために彼らは、自分自身から抜け出し、自分自身を超えて無限の彼方へ、根元的な世界へ駆り立てられる。しかし、デーモニッシュなもの(焦燥)が無限に満たされるためは、有限のもの、地上のもの、彼らの肉体を非常に破壊し去るほかに道はない。
中庸の人々は、この焦燥の衝動を自らのうちに抑えつけ、道徳の麻酔をかけ、仕事で紛らわし、秩序の中にせき止めてしまうが、焦燥は、とくに創造にたずさわる人々には、日々の作品に対する不満足という形をとって創造的に促進的に働き続ける力となる。
しかし、デーモニッシュなものをコントロールできず、その下僕となってしまうと、人生は常に危険と危機を暗示するあやしい雲行き、悲劇的な雰囲気、宿命に包まれる。
ツヴァイクは、三人と対称的に生涯を送った人物として、ゲーテを挙げている。
ゲーテは、人生のどこかでデーモニッシュなものと遭遇し、その危険性を認識し、創造活動において、その暴力的、痙攣的、火山的なものを否定し続けた。
彼に人生は、三人とは異なり、人生にしっかりと深く根を張り、裕福な邸宅に住み、妻子もあれば、孫もいて、確実な友人たちや女性たちがいつも彼のまわりを取り巻いていた。
ゲーテの創作活動が年とともに定着的・堅固なものになっていくのに対し、デーモニッシュな者たちは、ますます刹那的、不安定になり、狩り立てられた獣さながら地上を駆けることになる。
ゲーテの生活様式は丸い円となって完結しているが、デーモニッシュな人たちのそれは、放物線のように無限への急激な上昇、急カーブ、そして突然の急降下を示す。
ツヴァイクは、ゲーテと三人の創作様式についても、ゲーテはこつこつと貯金箱にため込むような資本主義的なものであるのに対し、三人は賭博者のように彼らの生存の全部を一枚のカードに賭けるようなものだったと比較している。
ツヴァイクが、ゲーテよりデーモニッシュな三人に強い共感を示しているのは明らかで、特にクライスト論はその傾向が顕著のような気がする。彼に対する自分の熱い思いが延々と語られ、客観的にクライストを分析しているとは言いがたく、加えて、ツヴァイクの文章は、粘着質で同じことを何度も何度も繰り返し表現を変えて描写しているせいで読みずらい。
しかし、クライスト論がツヴァイク自身の運命も物語っていたのではないかと思って読んでみると興味深い表現はいくつかあった。例えば、
クライストは、己が落ち行く先を承知している。はじめから知っている――奈落の底なのだ、と。
クライストの生涯は、…末路をめざしての急迫、血と肉感性、スリル味と戦慄のけだもの染みた陶酔を伴う、とてつもない狩猟にほかならない。
不幸のくりだすかなりの数の猟犬が、かれのあとを追って来る。狩り立てられた鹿さながらに茂みに身を投げる。にわかに思い直して、猟犬のどれかをとらえ、血祭りにすることもある――運命のさしむけた、いきり立つ猟犬どもの――下賤の者の手にかからぬうちに――いさぎよく一思いに、奈落の底にとびこむ。
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