性的な部分に関して言えば、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」の息子側から書いたような小説というのが、一番簡単な説明だろうか?
フランス文学の教授である主人公ドドが、交通事故で寝たきりになった父と、妻と三人で、父のアパートで一緒に暮らしている。
父は物理学の有名な教授で、息子は無名、父は美男子ではないが、いい男で、主人公は美男子だが、いい男ではない。父は財産を持っているが、息子はそれを相続するだけの立場で、アソコ(この物語では、妻が小鳥ちゃんと呼んでいる)の大きさも敵わない。
要するに何から何まで父親に敵わないのに、ドドは、特に父親に反抗する訳でもなく暮らしていたが、妻が家出したことをきっかけに、はじめて、父親に反抗する(夫婦だけで別のアパートで暮らしたいという)。
そして、妻から、家出した本当の理由は、主人公以外の男と浮気をしているからという説明を受けるが、性行為の癖から、実は自分の父親と浮気をしていることに気づく。
題名から分かるように、ドドは、視ることに憑かれた男である。
妻とのセックスも下から見上げる形で行い、ザイール出身の黒人女にも、性器をカメラで撮ることを求め、父の世話をしている看護婦との性的なやりとりも覗いてしまうという、どことなく受け身な行為が多く目に付く。
この物語で、もうひとつ、主人公ドドが変わっているところは、毎朝決まって、世界の終末<核戦争>を考えるところで、女性の性器と核分裂のイメージを重ねてみたり、オッペンハイマーなどの科学者たちが、セックス中のカップルを鍵穴から覗くような好奇心があったからと父親と議論してみたりするところだ。
正直、頓狂な感じも否めないが、この作品の発表当時は、ドドが聖書のヨハネの黙示録を読み上げているシーンで、作品の発表後、翌年起きたチェルノブイリ原発事故を彷彿させるような記述があり、評論家たちは、モラヴィアが世界の終末<未来>まで予見していたのではないかという評価もあったらしい。
私としては、もう一つの巧みな比喩、すなわち、核の恐ろしさをイメージしている主人公<一般市民>があくまで視ることしかできない非力な存在であるのに対し、物理学者の父<核(原子力)推進派>が、事故後も強い力を持ち、主人公を色々な面で圧迫している構図を描くことで、まるで今の日本の現状を現していることを見通していたかのように思わせる眼力の方が、怖いと思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿