インドのカルカッタに住む東洋学者である主人公が、二人の友人(先輩の東洋学者と、アジア協会の図書係兼書記)とともに不思議な体験をする物語。
三人は、図書係の友人が所有している、カルカッタから15キロほど離れたセランポーレの森の中にある別荘に遊びに行く。
その神秘的な静寂に包まれた土地柄に魅せられ、彼らは何度となく、そこを訪れるようになるが、ある日、別荘の持ち主から、主人公が勤める大学の教授であり、オカルト派の一員と噂される男を、セランポーレの森の中で見かけたことを知る。
主人公は、男がタントラの修行に便利な場所を探しにここにやって来たのかもしれないと疑い、大学で偶然会った際に本人に聞いてみるが、人違いだという。
やがて、別の日の夕刻、 再び、大学教授の男がセランポーレの森の中に入るのを目撃する(相手方も三人に気づく)。
そして、その日の夜、三人は別荘からカルカッタに戻ろうと召使の運転手に車を出発させるが、どうした訳か、道に迷ってしまう。見たこともない大きく茂った原生林の下を走る車。
三人が来た道を引き返そうとしたその時、森の奥から、女が刺し殺されたかのような叫び声を耳にする。
自動車から跳び降り、声の主を探そうと森を歩くが、何も見つけられない。それどころか、降りた自動車の姿も見失ってしまう。
やがて、三人は、ニラムヴァラ・ダサという主人の家に辿り着き、その男から、先程の悲鳴は、彼の妻であるリラが匪賊にさらわれ、殺されたということを知る。
服をボロボロにし、極度に疲労しながらも、何とか、別荘に戻った三人は 、別荘の持ち主も加わり、一体何が起きたのか調べようとする。
しかし、分かったことは、三人の記憶に反し、自動車は別荘の前を全く動いていなかったと主張する召使たちの証言と、ニラムヴァラ・ダサという男の妻が殺害された事件は、約百五十年前に本当に起きた出来事であったということのみだった。
主人公は、何故、三人が過去の空間に入り込んでしまったのかという点について、オカルト派の教授の男がやろうとしていたタントラの儀式に三人が偶然近づいてしまったため、男が邪魔だと思い、秘教的な力で、別の時間と空間に三人を放り込んだのではないかと推測をする。
後日、主人公は、ヒマラヤの山中の修道院で、タントラの修行者に、この出来事に関する彼の推論と疑問(三人が過去の出来事を見ただけではなく、ニラムヴァラ・ダサと会話までして過去の時間に修正を加えるような行為までしたことの謎)について話すが、修行者にその推論は全くの誤りであることを以下の言葉と共に告げられる。
…私たちの世界のどんな事件も、実在(リアル)ではないのですよ。この宇宙で生じるいっさいのことは幻影です。リラの死も、彼女の夫の嘆きも、そして君たち生きた人間と、彼らの影との出会いも、そのすべてが幻影です。…そして、この後、主人公は失神してしまうような恐怖を再び味わうことになる。
以上が物語のあらすじだが、実は、これと似たような話を、山岸涼子のマンガ「タイムスリップ」でも、読んだことがある。
その話は、コリン・ウィルソンの「世界不思議百科」がネタ本であることが明かされているが、中南米ハイチで、博物学者である夫妻が道に迷い、五百年前の十五世紀のパリの建物を目の当たりにするという話だった。
その時は、同行していた助手がタバコの火をつけようとライターを灯したときに、その建物は消えたという。
エリアーデも、どこかでこれに類する話を聞き、物語として仕立てたのかもしれません。
しかし、修行者が言った「この宇宙で生じるいっさいのことは幻影」という言葉は、般若心経にある「空」の概念と呼応する思想ですが、よく考えると、とても怖い認識を述べているような気がする。
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