2012年8月31日金曜日

深層生活/モラヴィア

十二歳の肥満児の女の子が、十八歳の美しい女性テロリストになる過程を描いた物語だ。

しかし、ほとんどポルノに近いほどのセックス描写と冒涜的な行為に溢れている。

お告げと呼んでいるもう一人の自分の声に忠実に従うことで、少女は、アブノーマルな大人たちとのセックスと冒涜的な行為を、これでもかという程に犯していくのだが、今ひとつ、リアリティが感じられなかった。

近い物語としては、谷崎純一郎の「卍」だろうか。

共通点としては、女性の独白で語られるという点と、レズビアンを取り上げているところだ。
ただし、この物語では、モラヴィア自身と思われる作家が、合の手のように女性に質問しながら、物語が進む。

個人的な感覚としては、「卍」の方に軍配をあげる。
モラヴィアは夫婦を描いた作品の方が質が高いのではないだろうか。

*この8月は、モラヴィア漬けで、ちょっと疲れました。

2012年8月30日木曜日

視る男/モラヴィア

性的な部分に関して言えば、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」の息子側から書いたような小説というのが、一番簡単な説明だろうか?

フランス文学の教授である主人公ドドが、交通事故で寝たきりになった父と、妻と三人で、父のアパートで一緒に暮らしている。
父は物理学の有名な教授で、息子は無名、父は美男子ではないが、いい男で、主人公は美男子だが、いい男ではない。父は財産を持っているが、息子はそれを相続するだけの立場で、アソコ(この物語では、妻が小鳥ちゃんと呼んでいる)の大きさも敵わない。

要するに何から何まで父親に敵わないのに、ドドは、特に父親に反抗する訳でもなく暮らしていたが、妻が家出したことをきっかけに、はじめて、父親に反抗する(夫婦だけで別のアパートで暮らしたいという)。

そして、妻から、家出した本当の理由は、主人公以外の男と浮気をしているからという説明を受けるが、性行為の癖から、実は自分の父親と浮気をしていることに気づく。


題名から分かるように、ドドは、視ることに憑かれた男である。
妻とのセックスも下から見上げる形で行い、ザイール出身の黒人女にも、性器をカメラで撮ることを求め、父の世話をしている看護婦との性的なやりとりも覗いてしまうという、どことなく受け身な行為が多く目に付く。


この物語で、もうひとつ、主人公ドドが変わっているところは、毎朝決まって、世界の終末<核戦争>を考えるところで、女性の性器と核分裂のイメージを重ねてみたり、オッペンハイマーなどの科学者たちが、セックス中のカップルを鍵穴から覗くような好奇心があったからと父親と議論してみたりするところだ。

正直、頓狂な感じも否めないが、この作品の発表当時は、ドドが聖書のヨハネの黙示録を読み上げているシーンで、作品の発表後、翌年起きたチェルノブイリ原発事故を彷彿させるような記述があり、評論家たちは、モラヴィアが世界の終末<未来>まで予見していたのではないかという評価もあったらしい。

私としては、もう一つの巧みな比喩、すなわち、核の恐ろしさをイメージしている主人公<一般市民>があくまで視ることしかできない非力な存在であるのに対し、物理学者の父<核(原子力)推進派>が、事故後も強い力を持ち、主人公を色々な面で圧迫している構図を描くことで、まるで今の日本の現状を現していることを見通していたかのように思わせる眼力の方が、怖いと思った。

2012年8月29日水曜日

夢を見ない

「フェルナンド・ペソア最後の三日間」の訳者あとがきに、ペソアが書いた戯曲「水夫」の一節が、以下のとおり紹介されていた。
もしかしたら人が死ぬのは充分に夢を見ないからかもしれません。
この文章を読んで、ふと、エリアーデの著書『象徴と芸術の宗教学』の中の「四 文学的想像と宗教的構造」の一文が頭をよぎった。

そこには、物語文学の重要性 - 人間は、どんな状況下にあっても、物語やおとぎ話を聞くことが実存的に必要だという事実-に関して考察があり、その証明として以下の事例が述べられていた。
1.シベリア強制収容所についての著書「第七の天」によると、毎週10人から12人が死んでいった過酷な環境の中で、ある棟に住んでいた100人ほどの収容者全員が生き延びることができた。それは、毎晩、ある老女がおとぎ話を話すのを聞いていたからだった。(老女には、一人一人が配給の食糧の一部を分け与えていたので、彼女は物語を尽きることなく話し続ける体力を保つことができた)
2. アメリカの大学で行われた睡眠の実験で、被験者たちは眠ることは許されたが、レム睡眠をとることだけは連続して妨げられた。睡眠には、四つの段階があるが、このレム睡眠だけ、人は睡眠中に夢を見るのだという。実験の結果、レム睡眠を奪われた人たちは、日中、神経質で短気になり、ふさぎ込むようになった。最後に何も妨げず眠れるようになると、被験者たちは奪われていたレム睡眠を取り戻すかのように、「レム睡眠の氾濫」に陥った (つまり、ここでは、人は眠っている夢の中でも、物語を目にしているということですね)。
エリアーデは、上記の証明を踏まえ、人間における物語への希求をこんなふうに分析している。
人間は-いかなる人間であれ-世界について順序立てて記録すること、つまり自分たちの世界に、あるいは自分自身の魂に起こることに絶えず、魅了されている…その一方で、人はこの終わりのない「歴史」(出来事、冒険、出会い、実在の人物や架空の人物との対面など)の中で、自分自身の夢や空想上の体験から知ったり、あるいは他人から学んだりした馴染みのある景色、人物、そして運命を見分けるたびにうれしく感じるのである。
ペソアの「水夫」の一節は、案外、大袈裟なものではなく、事実に即したものなのかもしれませんね。

個人的なことをいうと、ほとんど夢というのを見ない(あるいは覚えていない)。
奈落のように、「ノンレム睡眠」の底に落っこちているのかも。

そして、その代償を埋めるように、エリアーデの幻想小説にはまっているのかもしれませんね。

2012年8月28日火曜日

フェルナンド・ペソア最後の三日間/アントニオ・タブッキ

ポルトガルの詩人 フェルナンド・ペソアの最後の三日間を描いた作品。

一日目の1935年11月28日、ペソアは、十五年間、髭剃りをしてもらった床屋に髭を剃ってもらってから、友人三人とタクシーで思い出の街を走りながら、聖ルイス・ドス・フランセゼス病院に入院する。

そして、真夜中、ペソアは、まず、アルヴァロ・デ・カンポスと会話する。

「フェルナンド・ペソア最後の三日間」の本には、最後に「本書に登場する人物たち」という章があり、このアルヴァロ・デ・カンポスという人物について、

…職に就かないまま、リスボンで暮らし、デカダンス派、未来派、前衛派、ニヒリストであり、今世紀でもっとも美しい詩「煙草屋」を書き、ペソアの生活に入り込み、彼の恋愛を壊してしまい、ペソアの命日1935年11月30日にリスボンで死亡と書かれている。

同じ日に死亡?と思い、よくよく調べてみると、アルヴァロ・デ・カンポスは、ペソアの「異名」(ペンネーム)であることが分かった。
つまり、彼はもうひとりの自分と会話をしていたのだ。(このあたり、とても不思議な印象を受ける)

次に、ペソアは、師と仰いでいたアルベルト・カエイロ(すでに死んでいるので亡霊)と話す。
これが一日目。

二日目の1935年11月29日、ペソアは、リカルド・レイス(医者であり、詩人であったが、君主主義思想のため、ブラジルに身を退いた)と話す。彼もペソアの「異名」の一人。
ペソアは自分が死んだ後も、詩を書き続けることを彼に依頼する。

二人目の面会者は、友人のベルナルド・ソアーレス。とても質素な生活をしていた輸出入会社の「会計助手」。ソアーレスは、ペソアのために、レストランの食事を用意して持ってくる。
カルド・ヴェルデ、オポルト風トリッパ。病気のためペソアが食べ切れなかった分を、ソアーレスが食べる。二食分を支払う贅沢はできなかったので、ペソアの分だけを買ってきたのだ。

ソアーレスが説明する「汗をかいた伊勢エビ」のレシピの部分の説明がとてもいい。
なんだか、読んでるほうも幸せな気分になれる。
用意するのは、バター、タマネギ三つ、トマト、ニンニク少々、オイル、白ワイン、あなたの大好きな古い火酒(ブランデー)少々、杯二杯の辛口ポートワイン、唐辛子少々、胡椒とナツメグ。
伊勢エビは先に少しだけ蒸しておきます。それから今言った材料を加えて、オーブンに入れます。
なぜ「汗をかいた」と言うのか、わたしは知りません。たぶん味の良いスープができるからでしょう。…それからドン・ペドロ氏はおいしいポートワインをわたしにふるまってくれ、それを飲みに出たテラスの下には、カスカイスの湾の明かりがありました。ああ、ペソアさん、あれはとても美しかった…
最後の三日目の1935年11月30日、ペソアは、「異名」の一人である哲学者のアントニオ・モーラに、自分の人生を振り返り、こんな風に話す。
わたしは無限の空間の奥底に、オリオンの偽造者を見ましたし、わたしはこの人間の足で南十字の上を歩きましたし、光る流星のように終わりのない夜を、想像力の間惑星空間を、欲望と不安を横断しました。そして、わたしは男、女、老人、少女でした。西洋のいくつもの首都の大通りの群集であり、わたしたちがその落着きと思慮深さをうらやむ東洋の平静なブッダでした。わたしは自分自身であり、また他人、わたしがなり得たすべての他人でした。…アントニオ・モーラ、わたしの人生を生きるということは、千もの人生を生きることでした…
そして、ペソアは、アントニオ・モーラに、眼鏡をかけてもらい、息をひきとる。

美しい詩のような小さな物語(80ページ程)だ。タブッキがペソアをとても好きだったことが伝わってくる。

2012年8月27日月曜日

蛇/エリアーデ

エリアーデの幻想小説「令嬢クリスティナ」の次に書かれたもので、1937年の作品だ。

75年も前の作品だが、特に違和感なく読むことができたのは、物語のせいだろうか。翻訳のせいだろうか。

あらすじは、大体、下記の図のとおりだが、今まで読んできたエリアーデの作品の中で、一番幻想的な作品だと感じた。

まず、今までの作品で暗い影を落としていた秘密警察や、タントラのオカルティズムといった存在もなく、作為的な筋書きを思わせる推理小説的な展開もない。
また、「蛇」という呪術的な存在は現れるが、どことなく、エロティックな雰囲気はあるものの、恐怖を感じさせない。

「何ら草案なしに、どう筋が展開されるかも知らず、予め結末も知らずに私が書いた唯一の本」とエリアーデが称しているように、この物語の雰囲気は、「俗」から「聖」へと、どんどん変わっていく。

最初は、上流社会の若干退屈なパーティーの場面からはじまるが、謎の青年 アンドロニクが登場し、女性たちが彼に惹かれる中、夜の森の中でのゲームは、人々の隠れた思惑がうずまく妖しい雰囲気になり、真夜中の食事の後での灰色の大きな蛇を追い出す儀式では神秘的な雰囲気になる。
最後に、湖に浮かぶ島で、アンドロニクとドリナが生まれたままの姿になって、美しい朝日を見る場面は神々しい雰囲気までになる。

最も執筆活動に油がのっていた三十歳のエリアーデが、神がかり的な状態になってわずか十四日間で書き上げた傑作かもしれない。


2012年8月26日日曜日

TIME OUT!

夏の暑さを描いている映画の代表作としては、やはり、「Do the right thing」(スパイク・リー監督・主演)を思い浮かべてしまう。
(オバマ大統領が奥さんとの初デートで見た映画でも有名)

真夏のニューヨーク ブルックリンを舞台に、イタリア系の親子が経営するピザ屋で、”バイト”として働く黒人ムーキー(スパイク・リー)を中心に、街で暮らす様々な人々の生活を描いたコミカルな作品だが、終わりの方は、ちょっとしたことをきっかけに人種問題が火を噴くという物語だ。

暑い夏をイメージさせるシーンがとても多いのも特徴で、ビールをおいしそうに飲むシーンや、鉄の容器で氷を削るカキ氷の出店、消火栓を緩めて水浴びをはじめる子供たち、氷を使って体を冷やす恋人たちなど、印象に残るシーンが多い。

しかし、まるで、街に溜まった暑さが、彼らを怒りに駆り立てるかのように、人種問題で人々はいがみ合う、イタリア系、黒人、プエルトリカン、コリアン、ユダヤ系…

暑さのせいではないのだろうが、最近の日本と中国、日本と韓国の関係も、妙にエスカレートしてしまっている。

日本の外務副大臣が、竹島問題で、水泳行事に参加した韓国人の俳優に、「これから日本に来るのは難しくなるだろう」などと発言したらしいが、果たして、政治家が一民間人に対して、ここまで言う必要はあるのだろうか。

「Do the right thing」に出てくる DJ Love Daddyの言葉どおり、タイムアウトにしませんか?


Yo! Hold up! Time out! TIME OUT! Y'all take a chill !
 Ya need to cool that shit out! And that's the double truth, Ruth! 
「そこまで!タイムアウトだ。ののしるのはやめて、みんな少し頭を冷やせ!」

2012年8月25日土曜日

令嬢クリスティナ/エリアーデ その2

エリアーデの幻想小説「令嬢クリスティナ」には、若干9才の美しい少女 シミナが登場する。

シミナは、彼女の叔母であり、屋敷や周辺の村の生き物の血を吸って昔のままの若さを保っている幽霊 クリスティナと幼いうちから接触していたことにより、まるで成熟した女性のような振る舞いをする。

それは、彼女が、クリスティナの代理人の如く、主人公である画家のエゴールを手玉に取るように地下室で性的に誘惑するシーンに象徴されるが、この場面は、エリアーデが書いた小説の中で、もっとも妖しく恐ろしい場面であろう。

シミナが、そうなってしまった理由を、エリアーデは、「早熟」などという問題ではなく、次のとおり説明している。
「自然に逆らって、奇異な状態(生きた肉体のように振る舞う霊的存在)にいつまでも留まることは、周囲のすべてを腐敗させるものになる」
 幽霊との異常な接触に慣れたことがシミナの人間性を根底から腐敗させたというのだ。

人間性が根底から腐敗するというのは恐ろしいことに違いない。
それでも、シミナに一種の魅力を感じるのは、やはり性的な興味のせいなのだろうか?

しかし、私にはどうしてもエリアーデが単なる悪の存在として、あるいはオカルトの犠牲者として、シミナを描いているようには思えない。やはり、魅力的なのだ。

この小説は、発表当時、クリスティナとシミナの性的描写のせいで、ポルノグラフティ糾弾キャンペーンのやり玉に挙げられてしまうことになるが、この善悪定かでない読むものを惑わす感覚も、影響したのではないだろうか。

2012年8月24日金曜日

豹女/モラヴィア

モラヴィアの遺作となった作品。

「軽蔑」と同じく「嫉妬」をテーマにした物語だが、設定が違う。
新聞社の記者として勤める主人公と美しく奔放な妻、その新聞社の株主で主人公より社会的地位が高い男と妻の四人が、アフリカ旅行に行くことになる。

旅行中、度々、妻は、別の男と二人だけで行動をし、主人公は妻が浮気をしているのではないかという猜疑と嫉妬に苦しむ(しかし、一方でそういう状況をわざと招いている主人公もいる)。
今回は、相手の男の妻も猜疑と嫉妬に苦しむ人物として登場し、夫の浮気の意趣返しのように、主人公を誘うが、主人公はその女より、浮気をしているかもしれない妻の魅力にひかれていく。

個人的な感想をいえば、アフリカを舞台にしているところや、設定の違いはあるにせよ、ここで書かれている情景は、すでにモラヴィアのこれまでの小説で語りつくされているのではないかと感じた。
(しかし、モラヴィアにとっては、それでも書き足りなかったのだろう!)

それと、最後の結末は個人的には好きではない。
モラヴィアが過去の思い出に復讐しているかのような印象を持ってしまうからだ。

それでも、嫉妬に耐えて、最後の最後まで妻を愛した主人公の忍耐と、八十近い老作家が、これだけ、性を扱った作品を二年間かけて根気よく書き上げた体力には敬服する。

読者も、主人公同様、様々な不貞、誘惑、嫉妬へと心を揺り動かされる。そして、それに耐えなければならない。

モラヴィアの全著作がローマ教皇庁の禁書リストに掲載されているそうだが、これぐらい心の修行になる反面教師的な書物はないかもしれないと、実は密かに思っている。


2012年8月23日木曜日

海街diary 陽のあたる坂道/吉田秋生

海街diaryは、吉田秋生の連載中のマンガで、鎌倉を舞台に、三姉妹と異母妹の四人の何気ない日常を描いている。少女マンガのジャンルには属しているが、大人の男が読んでも、楽しめる作品だ。

その3巻目である「陽のあたる坂道」で、思わず、はっとさせられるような言葉を見つけた。

看護師として働いている姉妹の長女 幸(さち)は、周りからも 「ダメナース」と思われている同じ職場で働く後輩アライに対し、いつも怒鳴っていてばかりいるのだが、ある時、そのアライが、エンゼル・ケア(亡くなった人の死後のケア)のひとつひとつの処置を、患者がまだ生きているみたいに話しかけながら、とても丁寧に行っていることに気づく。

そして、幸は、同じ病院の同僚と飲んだ席で、こんな告白をする。
…あたしも後輩ナースのマイナス面ばかり見てたのかもしれません。 
妙なカンちがいはするし、作業は遅いし、典型的なダメナースだと思っていたんですが、患者さんの安全にかかわるようなミスは絶対しません。
ひょっとしたら、彼女は「とても大切なこと」とそれ以外のオン・オフがあまりに激しくて不器用なだけかもしれないな…と。
そしてその「とても大切なこと」は案外まちがっていない気がするんです。
そして、 幸は、師長から打診された「緩和ケア病棟」(ガン患者など終末期の患者が多くいる病棟)への異動を引き受けるのとともに、アライもその担当に推薦する。

自分の周りにも、アライさんみたいな人がいたら、そして、
周りの人からは馬鹿にされているけれど、その人の行動をじっくり見たら、
今まで見えなかった短所の裏返しにある長所がくっきりと見えてくるかもしれませんね。

2012年8月22日水曜日

19本の薔薇/エリアーデ

エリアーデが書いた最後の長編小説と言われる本書。

ルーマニアの老作家パンデレと彼のゴーストライター兼秘書的な役割を果たしている主人公が、オフィスで老作家の自伝「回想」の話をしていたある日、息子と称する青年と彼の美しい婚約者(二人とも俳優)が、突然訪ねてくる。

二人は、明日、結婚するので同意してほしいという。そして、青年が老作家の息子であるという証拠は、老作家が若いときに一度だけ書いた戯曲の稽古が行われた1938年12月に関係していることを匂わせるのだが、何故か老作家の記憶は欠落してしまっていた。

その後、老作家は、突然、周りに説明もなく、両足が麻痺した演出家がいる二人が所属する劇団に身を置き、今まで書いたことがなかった「戯曲」を書き下ろすことを宣言する。
そして、老作家が演劇<スペクタクル>をみることを通し、記憶を喪失していた1938年12月の出来事を思い出しつつあることを主人公に告白する。

主人公は、老作家と劇団の関係を探る秘密警察のナンバー3の男から質問を受けながらも、「回想」と「戯曲」の原稿のまとめに追われていたが、ついにそれを完成させ、何故か、老作家の指示により、2ヶ月間のインド旅行に行くことになる。

インド旅行から戻ってきた主人公は、インドに行っている間、老作家のオフィスは、青年と婚約者を含めた劇団員が常駐して稽古をすることになり、その間、奇妙な出来事(婚約者が老婆のように見えたり、青年が少年にみえたりする)がたびたび起きていたことを、オフィスの事務員的な女性から聞く。

そして、イブの日に、老作家から呼び出され、青年と婚約者の三人とともに、トランシルヴァニア南部のシビウの森に行くことになる。
そこには、老作家が記憶をなくしていた1938年12月に、当時若かった老作家が青年の母親だった女優に誘われて泊まった森番の小屋があった。

イブの夜、四人が小屋に辿り着いたとき、ついに、老作家の記憶がすべて蘇ることになるが、何故か、主人公は翌日の朝、ひとり雪の中の切り株に腰掛け、凍傷の状態で発見されることになる。
そして、老作家と青年、婚約者の三人は跡形もなく消え去ってしまっていた。

後日、四人が訪れた森は1941年に伐採され、森番の小屋もなかったことが分かる。
そして、主人公は、劇団の演出家から、三人は”絶対的自由”の世界に消えた可能性を伝えられる。

この物語では、”絶対的自由”を、劇団の演出家のことばで、こう説明している。
…不幸にもかなり近い将来に巨大な収容所の完全にプログラムされた生活と同じことになりそうなその時間と空間から。われわれの子孫は、もし脱出の技法を発見できなければ、そうして、肉体をもちながら自由な存在という、人間の条件の構造そのものの中に与えられてある”絶対的自由”を活用することを知らなければ、…結局、死ぬでしょう。
以上が、物語の大体のあらすじだが、実際、読んでみても謎が多い物語だ(薔薇の本数も謎)。
しかし、エリアーデが亡命した祖国ルーマニアの政治的背景と、世界的な宗教学者としての背景がひときわ濃くあらわれている作品のような気もする。

冷戦時代を髣髴とさせる秘密警察の暗躍、フォークロア的な時間と空間の転移現象、登場人物の行動に込められた宗教的な意味合い(老作家がかかえていた記憶喪失や主人公が度々陥る深い眠りは、様々な文化で根本的堕落を象徴しているという)、演劇という言葉、踊り、音楽という<俗>から<聖>を得るプロセス…

エリアーデ自身が、この作品の特徴を、「日記」でこう述べている。
この小説が文学的に成功していることは疑いない。しかし、これほど巧妙にカムフラージュされたメッセージが解読されるかどうかは疑わしい。
まるで、読者を試しているかのような言葉だが、エリアーデの著書を一通り読んで、改めて再読してみたい小説だった。

2012年8月21日火曜日

金曜日の別荘/モラヴィア

モラヴィア晩年の短編集。
作品中に「不貞の妻との暮らし方」という題名の短編があるが、本書は、まさに、この「不貞の妻との暮らし方」をテーマに、様々な場面を断片として切り取った作品集である。

金曜日になると愛人に会いに行く妻と、そんな妻を許容しながらも精神的に苦しむ夫、
作品を書こうと、十八歳の青年が泊まったホテルで出会った病的に男を求める夫人とその夫、
政治評論家が感じる東西冷戦の危機と、彼の妻と愛人との関係によりもたらされる内面的危機、
愛人に会いに行こうとする妻を撃ち殺す幻想を見る夫、
妻が愛人といる家に、娼婦を連れて行き、意趣返しを試みようとして失敗する夫、
浮気しているかもしれないと疑う妻に、性的ないたずら電話をして、試そうとする夫、
浮気していることを告白した妻を絞め殺しそうになる夫、
浮気な妻の行動の先手をとろうとして失敗する名チェス・プレーヤーを気取る夫、

よくも、これだけと思ってしまうぐらい、モラヴィアは、このテーマにしつこくこだわっている。
しかし、作品で描かれる愛と性から受ける印象は妙に明るくて軽い。
80年代に書かれたせいかもしれないが、90年代、'00年代の重たい空気が感じられない。

読後にふと感じたのは、日本の作家で、こんなふうに男女を描いている作家がいたはずだという漠然とした記憶だった。思い出して、自分でも意外だったが、それは、2009年に亡くなった海老沢泰久の小説であった。

2012年8月20日月曜日

『アベンジャーズ』を観る

何にも考えずに素直に楽しめる映画。

『アベンジャーズ』は、そういう意味で理想的な映画だと思う。

エイリアン+ハリーポッターに出てきそうな悪い魔法使いが結託し、地球を侵略しようとするのに対し、赤レンジャーとロボコップを足して2で割ったようなロボットマンと、ダサダサのアメリカ国旗のユニフォームのスーパーマン、怒ると変身するディズニー映画に出てきそうな緑色の怪物、神さまなのか何なのか、今ひとつキャラがはっきりしないローマ時代の兵士風の斧使い、弓矢使いの殺し屋、ちょっと色っぽい暗殺者の女の子。これら、てんでまちまちのヒーロー達が地球を守るというストーリーだ。

前半は、柳生十兵衛みたいなサミュエル・ジャクソンに召集されたこのヒーロー達がなかなか仲良くなれなくて、ぐじぐじ口喧嘩ばかりするシーンが続き、眠気がさしてしまったが、後半は、このヒーロー達がひたすらニューヨークの街で、建物をばんばん壊しながらエイリアン達をやっつけるシーンは文句なく楽しめた。

私が見たのは、3D吹き替え版だったが、2Dでもあまり変わらなかったと思う。

エンドロールがこれでもかと長々続いたので、見逃した人もいるかもしれないが、最後に、疲れきったヒーロー達が、レストランで黙々とシャワルマを食べる、ちょっと笑えるシーンがある。

このシャワルマという食べ物、何なのかなと思ったら、実はケバブの別称でした。

夏の暑い日、スカッとした気分になれた一本でした。

2012年8月19日日曜日

セランポーレの夜/エリアーデ

エリアーデの幻想小説その三。

インドのカルカッタに住む東洋学者である主人公が、二人の友人(先輩の東洋学者と、アジア協会の図書係兼書記)とともに不思議な体験をする物語。

三人は、図書係の友人が所有している、カルカッタから15キロほど離れたセランポーレの森の中にある別荘に遊びに行く。

その神秘的な静寂に包まれた土地柄に魅せられ、彼らは何度となく、そこを訪れるようになるが、ある日、別荘の持ち主から、主人公が勤める大学の教授であり、オカルト派の一員と噂される男を、セランポーレの森の中で見かけたことを知る。

主人公は、男がタントラの修行に便利な場所を探しにここにやって来たのかもしれないと疑い、大学で偶然会った際に本人に聞いてみるが、人違いだという。

やがて、別の日の夕刻、 再び、大学教授の男がセランポーレの森の中に入るのを目撃する(相手方も三人に気づく)。
そして、その日の夜、三人は別荘からカルカッタに戻ろうと召使の運転手に車を出発させるが、どうした訳か、道に迷ってしまう。見たこともない大きく茂った原生林の下を走る車。
三人が来た道を引き返そうとしたその時、森の奥から、女が刺し殺されたかのような叫び声を耳にする。
自動車から跳び降り、声の主を探そうと森を歩くが、何も見つけられない。それどころか、降りた自動車の姿も見失ってしまう。

やがて、三人は、ニラムヴァラ・ダサという主人の家に辿り着き、その男から、先程の悲鳴は、彼の妻であるリラが匪賊にさらわれ、殺されたということを知る。

服をボロボロにし、極度に疲労しながらも、何とか、別荘に戻った三人は 、別荘の持ち主も加わり、一体何が起きたのか調べようとする。
しかし、分かったことは、三人の記憶に反し、自動車は別荘の前を全く動いていなかったと主張する召使たちの証言と、ニラムヴァラ・ダサという男の妻が殺害された事件は、約百五十年前に本当に起きた出来事であったということのみだった。

主人公は、何故、三人が過去の空間に入り込んでしまったのかという点について、オカルト派の教授の男がやろうとしていたタントラの儀式に三人が偶然近づいてしまったため、男が邪魔だと思い、秘教的な力で、別の時間と空間に三人を放り込んだのではないかと推測をする。

後日、主人公は、ヒマラヤの山中の修道院で、タントラの修行者に、この出来事に関する彼の推論と疑問(三人が過去の出来事を見ただけではなく、ニラムヴァラ・ダサと会話までして過去の時間に修正を加えるような行為までしたことの謎)について話すが、修行者にその推論は全くの誤りであることを以下の言葉と共に告げられる。
…私たちの世界のどんな事件も、実在(リアル)ではないのですよ。この宇宙で生じるいっさいのことは幻影です。リラの死も、彼女の夫の嘆きも、そして君たち生きた人間と、彼らの影との出会いも、そのすべてが幻影です。…
そして、この後、主人公は失神してしまうような恐怖を再び味わうことになる。

以上が物語のあらすじだが、実は、これと似たような話を、山岸涼子のマンガ「タイムスリップ」でも、読んだことがある。

その話は、コリン・ウィルソンの「世界不思議百科」がネタ本であることが明かされているが、中南米ハイチで、博物学者である夫妻が道に迷い、五百年前の十五世紀のパリの建物を目の当たりにするという話だった。
その時は、同行していた助手がタバコの火をつけようとライターを灯したときに、その建物は消えたという。

エリアーデも、どこかでこれに類する話を聞き、物語として仕立てたのかもしれません。

しかし、修行者が言った「この宇宙で生じるいっさいのことは幻影」という言葉は、般若心経にある「空」の概念と呼応する思想ですが、よく考えると、とても怖い認識を述べているような気がする。

2012年8月18日土曜日

ホーニヒベルガー博士の秘密/エリアーデ


エリアーデの幻想小説の一つだが、ちょっと怖い話だ。

インドの宗教・哲学者の主人公が、ある婦人から、夫が集めたインドに関する書籍のコレクションを見に来ないかという誘いの手紙を受けとる。

その夫人の家を訪ねると、亡くなった夫であるゼルレンディ医師が果たせなかった、インドの文化を研究していたと思われるホーニヒベルガー博士の生涯を調べ、伝記を執筆してほしいと依頼を受ける。ただし、執筆は夫人宅でのみ行うという条件付きで。

主人公は、様々な分野の珍しい文献を収めている書庫に興味を引かれたため、依頼を引き受けるが、少しずつ調べていくうちに、ゼルレンディ医師が、ホーニヒベルガー博士の調査をきっかけに、ヨーガに関する研究に熱中していたことを知ることになる。

そんな時、何の前触れもなく、夫人の娘に出会い、ゼルレンディ医師は、実は死んだ訳ではなく、数年前に、パスポートも、お金も、上着も持たずに、突然姿を消したことを知らされる。そして、夫人の真のねらいは、主人公に、夫が失踪した謎を調べさせようとしているのだということも。

主人公は半信半疑に思いながらも、資料をさらに読み込んでいくうちに、ゼルレンディ医師が、サンスクリット文字で書いたルーマニア語の秘密のノートを見つける。

そこには、ゼルレンディ医師が、訓練の末、ヨーガ行にある気息調節を行うことで、睡眠の中で覚醒する術を、また、壁越しに透視する術を身に着けたことが書かれていた。

ゼルレンディ医師のヨーガ行の習熟はさらに進展し、仮死状態になる術、自身の体が他人に見えなくなる術、眉間の間にあるシヴァの眼の獲得、空中浮揚、シャンバラへの道を発見したことを窺わせる記述も発見する。
そして、遂に、ゼルレンディ医師が自身の体を不可視の状態にしたまま、元には戻れなくなってしまったことをうかがわせる記録を読むことになる。

しかし、この物語が恐ろしいのは、この後、主人公が体験する出来事のほうかもしれない。

物語では、エリアーデの本業の分野ともいえるインドのヨーガ行、タントラ、秘術に関する実践・知識が詳しく述べられているが、ゼルレンディ医師が記した以下の文章は、エリアーデも思っていたであろう、安易な興味本位でのオカルティズムへの警鐘が読み取れる。
それほど、きびしい苦行を積まずとも、心を最大限に集中するだけで、同じ成果に到達できるのだ。けれども、私にはよく判っているが、現代人にはそういう精神的努力ができなくなった。現代人は衰弱している、ひたすら消亡の途上にある。苦行をしてもこの緒力はわがものにならず、その緒力の餌食となるのが落ちである。未知の意識状態の探求という誘惑は強力だから、それにかまけて一生を空費することになりかねない。 
そう記したゼルレンディ医師が、オカルティズムの力に魅せられ、自ら制御できず、まさに「緒力の餌食と」なってしまったところが、この小説の恐ろしさかもしれない。

2012年8月17日金曜日

モラヴィア自伝 vita di moravia

本書は、二十世紀を代表するイタリアの作家 アルベルト・モラヴィアの自伝だが、非常に読み応えがある内容だ。

まず一つに、彼の人生が深く二十世紀の歴史的な出来事に関わっている点が挙げられる。

モラヴィアは、1907年イタリア ローマの中産階級の家に生まれ、骨髄カリエスにかかり、闘病生活のため、小学校を退学することになる。

それでも、病床にありながら、ドストエフスキー、ランボー、ジョイス、シェイクスピア、マンゾーニ等の文学作品を読みふけり、二十歳の時に、処女作「無関心な人びと」を書き上げる。
しかし、その作品は、中産階級の退廃を描くものとして、当時のムッソリーニ首相率いるファシズム政権から禁書指定を受けてしまう。

ファシズム政権が台頭し、人種差別による迫害が強まる中、ユダヤ系の血を引くモラヴィアは、偽名を用いながら文筆活動を続け、戦争末期には、ドイツ軍に追われながら、イタリアの山中の山小屋で、9ヶ月間、妻のエルサ・モランテと疎開生活を送る。

戦後は、日本の広島を訪れ、反核運動も行い、晩年は、欧州会議に無党派左翼として立候補し当選もしている。

次に、壮観ともいえる交友関係。

パゾリーニ、ウンベルト・エーコー、サルトル、カミュ、ジャン・コクトー、ノーマン・メイラー、ソール・ベロー、三島由紀夫さらには、ベルナルド・ベルトリッチ、ルキノ・ヴィスコンティ、ゴダール…
モラヴィアは、ロンドン、ニューヨーク、パリ、ベルリン、メキシコ、ロシア、中国、日本、アフリカと、様々な国々を活動的に旅行しているが、至るところで幅広い交友関係を築いている。

三つ目は、数え切れないほどの恋愛の数の多さ。

ちょっと変わった初体験から、一回り年上の既婚者のドイツ女性との恋、十七歳のフランス娘との激しい恋、トスカーナ地方の貴族の娘との恋、旅先で知り合ったドイツ女性の部屋に夜這いするため、雨どいを伝って、テラスから部屋に侵入するも拒まれ、それでも諦めきれず、彼女を追いかけてヒトラー政権が誕生したベルリンにも行く。友人の妻(オランダ女性)にも恋をし(キスまでしたが友情を優先し諦めた)、彼氏がいる画家のスイス女性にも恋をし、彼女を奪ってしまう。メキシコへの旅行の際の電車の車中では知り合ったドイツ女性とセックスをし、アメリカから帰る船中では、イギリス貴族の娘と恋をした。

モラヴィア自身、自分は動物的だと評しているが、こと恋愛に関しては、まさにそのとおりで、彼は何のためらいもなく本能に忠実に行動している。
そして、彼にとっては、生きるうえで、二十世紀の歴史的な出来事以上に、恋愛が大切だったことが分かる。伴侶も、最初のエルサ・モランテと別れた後、二十九歳下の作家ダーチャ・マライーニと、彼女と別れた後、七十歳を超えてからは、四十五歳下のルレーラ・カルメンと結婚している。

こういった色事の記述だけでも、読んでいておもしろいが、何より、モラヴィアの所々に出てくる人生の真実を見透かしたような一言が印象に残る。
私に言わせれば、一つの人生と他の人生に価値の違いはない。
つまり、感性のレベルで、そして健康に恵まれているという条件なら、一般に思われているほどの不公平はないということだ。 
たぶん、特権者は何人かいるだろう。しかしそれは、社会で比較的に高い地位についているとか、財産を持っているとか、権力を持っているとかという連中のことではない。
私の考えでは、特権者とは、創造の分野であれ、学識の分野であれ、芸術と関わりを持っている人々だよ。 
…あらゆる種類の困難なに満ちた長い生涯であるにも関わらず、結局、私は自分を、芸術家であるという事実によって特権者と見做しているからだ。…この観点からすれば、私の生涯の収支は黒字ということになるのかな。…
モラヴィア自伝の最後は、インタビュアーの「その言葉で、モラヴィアの生涯についての話は終ったと思いますか?」の問いに、「そう、そう思う。」という言葉で締めくくられている。
そして、この自伝が印刷された本が完成したその日に、彼は心臓麻痺でこの世を去った。

本当に小説のような、映画のような人生だ。

2012年8月16日木曜日

令嬢クリスティナ/エリアーデ

宗教学者エリアーデが書いた幻想小説のひとつ。

ルーマニアのドナウ川下流域の貴族の屋敷には、未亡人と二人の娘が住んでいた。

その三人を支配するかのように寝室に飾られた生々しく美しい絵姿の令嬢クリスティナ。

令嬢クリスティナは未亡人の姉で、1907年にルーマニアで起きた大農民一揆に巻き込まれ、二十歳前に死んだが、その死体は見つからなかった。

その貴族の屋敷を訪れた画家は、二人の娘のうち、姉と恋仲になりながら、徐々に、三人の女家族の奇妙な雰囲気に気づきはじめる。そんな折、画家は死んだはずの令嬢クリスティナと出会うとともに、屋敷に客人として泊まっていた考古学者から、彼女に関する残虐な噂話を聞く。

ルーマニアのドナウ川流域といえば、ブラム・ストーカーの有名な「吸血鬼ドラキュラ」のモデルにもなったブラド三世がいたトランシルヴァニアのあたりだ。

中世の匂いがまだ残る土地柄、農民の無知と暴力、女貴族の残虐性、夢と現実、オカルティックな現象と秘術そういった様々な要素が融合している作品だが、令嬢クリスティナと彼女が憑依した末の妹が画家を誘惑する官能的な場面などは、驚くほど率直に描かれていている。

エリアーデは、世界各国の宗教とその儀式(オカルト・性的な秘儀を含む)に関する膨大な資料(世界宗教史など)を残しているが、それらをまとめ上げていく中で、やがて頭の中で発酵してしまった妖しい想いを、こうした幻想小説を書くことでガス抜きしていたのではないだろうか。

彼は、この作品をきっかけに、次々と幻想的な小説を書いていくことになる。

2012年8月15日水曜日

磁場

少年のころから実家の庭で遊んでいるのが好きだった。

雨が激しく降ったときなどは、雨どいからいきおいよく側溝に流れ落ちる雨水を飽きもせず、よく眺めていた。自分の耳が水の音でいっぱいになるのを感じながら。

死んだ昆虫の死骸に蟻が群がっている。

むしむした暑い日のどんよりとした雲の下、蝉は鳴きつづける。
緑に淀んだ池に、赤い金魚が姿をみせる。
物置小屋の柱の隙間にある蜘蛛の巣に雷蜘蛛の姿。

それらを何も考えずにボーッと眺める。

そうしていると、こころが金縛りにあったように何も考えない状態になる。
有名な京都や鎌倉のお寺のきれいな庭をみても、そういう状態におちいることはない。

少年期に放出した思念がまだ庭に残っていて磁場のように私を包み込むのだろうか。
完全に私的で行くあてがないどこか憂鬱な思い。

今でも、その場に行くと、何も考えないで庭をしばらく眺めていることが多い。

2012年8月10日金曜日

倦怠/モラヴィア

この小説の主人公を悩ませる「倦怠」は、私も共感するところがある。

自分と事物との間に、何のつながりもないと感じる意識。

学生時代のころ、試験に出る歴史上の人物の名前や遠い世界の山脈や川の名前、数学や物理の方程式、それら、ごたごたした厄介な知識は自分とは何も関係がないと感じ、覚えようという気力がわかない。

列車のコンパートメントで、長い旅の間、いやな相客とともに過ごす気まずい時間。移動したくても、他のコンパートメントとは区切られているため、移動もできず、最後まで鼻を突き合わせていなければならない、そんな感覚。

何かしたいと熱心に望みながら、一方では全然何もしたくない、
誰にも会いたくないが、同時にひとりではいたくない、
家にじっとしたくはないが、外にも出たくない、
旅をしようとは思わないが、家にもじっとしていたくない、
仕事をしたいとも思わないが、やめる気にもならない、
起きていたくはないが、眠りたくもない、
恋愛をしたくはないが、しないことに甘んじることもできない、

こうした相反する気持ちが同時に心に現れ、何時間もじっと身動きができず黙り込み、ぼんやりとする…

この小説の主人公ディーノは、職業にしようとしていた絵描きを、その「倦怠」から辞めてしまった三十半ばの男だが、母親が、かなり金持ちなので、お金には困らない生活をしている。

ある日、彼の住んでいる部屋の近くで住んでいた老画家が死亡する。それも普通の死に方ではなく、彼が付き合っていた十七歳の若い女性のモデル チェチリアとの情事の最中に死んだという。

ふとしたことをきっかけに、彼はチェチリアを自分のアトリエに連れ込み、同じような関係を持つことになる。

やがて、ディーノは、チェチリアとの関係も「倦怠」を感じるようになるのではないか、そうなる前に別れようと思い立ち、実行しようと思った矢先、彼女が他の男とも付き合っていることを知り、自分との時間よりその男との時間を楽しみ、優先させようとしていることを知る。

「軽蔑」でも描かれていた嫉妬心とそこから出てくる欲情が、この作品では、さまざまなパターンのセックスとともに際限なく描かれている。(ローマ法皇庁に禁書の烙印を押された)

それでも、この小説に汚いいやらしさや、暗さを感じないのは、チェチリアの空虚ともいえるほどの無垢な言動から受ける印象と、そんな女性を愛することで絶望し、死の淵まで行った男が「倦怠」を振り切ったかもしれないと感じさせる、ある意味、明るい結末のせいかもしれない。

2012年8月6日月曜日

黒い雨

広島への原爆投下から67年が経った今日、NHKスペシャルで放映された「黒い雨 ~活かされなかった被爆者調査~」は、衝撃の内容だった。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0806/

原爆投下後、黒い雨が降ったことは周知の事実だが、その放射性物質を含む雨を浴びた1万3千人もの被爆者のデータが、昨年末に突然公開されたという。

何が問題かというと、以下の2点だ。
1.1万3千人もの被爆者から聞き取り調査をしたにもかかわらず、黒い雨を浴びた被爆者の健康状況、死因に関する影響について何ら研究されてこなかったこと。 
2.国は平成6年に「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を制定し、原子爆弾が投下された際、指定の区域で直接被爆した人とその人の胎児を、被爆者と認定し、医療を国の負担で無償で受けられる援護制度を開始したが、この黒い雨を浴びた被爆者に対しては、被爆の影響があったかどうか定かではないことを理由に、いまだに認定していないこと。
上記1.の問題については、アメリカの研究機関ABCCが調査を行い、研究者の一人は、明らかに二次被爆の可能性を認める論文も残していたが、当時、東西冷戦の中で、アメリカを非難される材料に使われることを恐れ、闇に葬った経緯が説明されていた。アメリカは、黒い雨などによる二次被爆の可能性を執拗に否定していったという。

上記2.は、上記1.にも関係するが、そのアメリカの無責任な見解に基づき、日本国が、認定を求める被爆者たち(指定区域外の黒い雨などによる二次被爆の可能性がある被爆者)に、「じゃあ、あなたが被爆したことを証明してみなさい」という対応をとったというのだから、恐ろしい。当時の裁判の記録も読み上げていたが、これほど国家の冷血を思わせる文章はないだろう。
そういった国の対応のおかげで、全体の7%しか、被爆者に認定されていないという。

番組では、独自に、被爆した人が癌にかかるリスクを調査している大学教授の研究が紹介されていたが、それによると、癌にかかるリスクは、常識的には爆心地から同心円状に徐々に小さくなるはずが、むしろ、爆心地から北西の地域においてリスクが高くなっていたという。
それは、今回公開された黒い雨が降った地域と重なるという事実も紹介されていた。

番組最後のほうで、母の背中で自ら黒い雨を浴びた男性が、福島から避難してきた被災者に対して、「自分の子供の命を守るためには、被爆のデータを確実に記録しておくこと」を強く主張されていた。国の信頼できない対応を思うと、確かにそうだと思った。

今更の話ではあるが、この広島の黒い雨の影響を真剣に国で分析していたなら、福島原発の事故における緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の活用に対する意識も、全然違うものになっていたのではないだろうか。

2012年8月5日日曜日

軽蔑/モラヴィア

主人公のシナリオライターの夫とその妻の関係が、小さな事件をきっかけに破綻していく。

映画プロデューサーの男と夫婦が食事をした後、車で移動するときに、映画プロデューサーの二人乗りの車に、妻を進んで乗せようとした夫。

そのちょっとした出来事から、二人の仲はおかしくなっていく。
外出も食事も別、夜も一緒のベッドに寝なくなる。窓を開けて寝るのが嫌だとか、いびきがうるさいと言い出す。体を求めると、拒絶され、さらに求めると、機械的に受け入れようとする。

夫は、そうなった原因について、過去の自分のちょっとした浮気のせいなのか、あるいは、冒頭の事件において、自分が映画のシナリオの仕事を得るために、 妻を利用しようとしていると妻が感じたのではないかと疑心暗鬼する。

そして、なぜ、自分を嫌いになったのか、夫が何度も妻を問い詰めると、最初は否定していたが、ついには「あなたを軽蔑しているから」と告白する。

夫としては、かなり堪える言葉だが、この夫は、軽蔑されればされるほど、だんだんと妻の魅力にひかれていく。
映画プロデューサーの別荘に二人で出掛けて、妻が映画プロデューサーに無理やりキスされている場面を見ても、 夫は映画プロデューサーと本当に決別しようという気がなく、逆に妻に対する欲情の度合いを増していく。そういう意味で、この小説は倒錯的な性欲をテーマとして扱っているといってもいいかもしれない。

この小説も、前に紹介した「マイトレイ(エリアーデ)」同様、半分は、作者のモラヴィアの実体験に拠っているところがあり、モラヴィアの妻であり、小説家のエルサ・モランテ(アルトゥーロの島が有名)が、映画監督のルキノ・ヴィスコンティ(ベニスに死すが有名)と愛人関係になってしまい、夫であるモラヴィアが、夜ごと、夜更けに帰ってきくる妻から、愛人ヴィスコンティとの恋愛を聞かされるという辛い経験から生み出されたものらしい。

私がモラヴィアを人として好ましいと思うのは、そんな愉快ではない体験を、「軽蔑」において、妻や愛人への憎悪に向けることなく、物語最後に、妻を慰めと美のイメージに変換してしまったところだ。ある意味、人生の達人ですね。

2012年8月4日土曜日

やがてヒトに与えられた時が満ちて…/池澤夏樹


池澤夏樹が書いたSF小説。

人類が、子供が生まれなくなってしまうという災厄-グレート・ハザード-と呼ばれる出来事により、地球に住めなくなり、地球と月の間に植民衛星を作り、人類の一部が移り住んで二百年経った世界が、この小説の舞台だ。

その世界は、CPUネットワークと呼ばれる巨大なコンピュータシステムによって管理されており、人々は、ほとんどの知的活動(深い思索・文明の進化・発展につながるもの)をCPUに委ねている。そして、もう一つの統治機構である憲法ファイルでは、人々は過去を追憶することが禁止されている。

そんな世界の中で、人々は、欲望を抑えて穏やかに暮らす姿勢を身につけていた。
最小限の性欲、最小限の出生率、最小限の自己表現欲、既存のシステムの内部で完結する精神。

そんな世界に模範的に順応してきた主人公が、奇妙な事件に巻き込まれ、少しずつ、CPU、グレート・ハザード、植民衛星の成り立ちに疑問を抱き、地球での暮らしに関心を抱くようになる。
そんな彼が、ある日、CPUから、遠い天体からの光の情報に含まれた曲線の意味を解いてほしいという委託を受ける。

池澤夏樹らしく、理科的な表現を曖昧にしていないところが、読んでいて心地よい。

たとえば、地球の天候を知らない植民衛星に住む人々が、”曇り”をイメージするときの説明。
曇りというのは、大気内に微小な水滴がたくさん生じて、その不透明性ゆえに太陽の光を遮ること、むしろ乱反射・乱屈折によって太陽の像が地球に届かない状態のことだ。
雲はさまざまな条件で生じ、厚みも密度もいろいろある。厚い雲が空を覆う日には、地上はだいぶ暗くなったようだ。
それと、宇宙食を思わせるような植民都市での、主人公たちが食べる美食の表現が秀逸だ。
たとえば、主人公がガールフレンドと食事を楽しむときの料理の表現。
ミートBにたっぷりのスパイスPをすり込んでステーキにして、ウェッジPのマッシュを添える。
グリーンA を茹でて、グリーンLやフルートGと和え、VSOのドレッシングを作って混ぜる。
カーボハイドはBではなく、Sを注意深く茹でて、ディアリーBとC、それにスパイスBで味つけする。
…飲み物はビヴァWの赤。
この記号だらけの食べ物の組み合わせが、植民都市の生活の単一性、有限性を雄弁に物語っている。

この小説は、1996年に刊行されたものであるが、久々に読んでみて、池澤夏樹の文明観は一貫して変わっていないことを感じる。

2012年8月2日木曜日

対睡眠戦争


エリアーデのインタビュー本「迷宮の試煉」で、彼の少年時代の話が出てくる。

エリアーデ少年は、読みたい本がたくさんあるのに、七時間も寝ていると、たいしたことはできないと感じていた。

そこで、彼が時間を作り出すために始めた習慣は、毎朝、目覚まし時計を2分ずつ早めるということだった。

毎日続けていると、何もしない時と比較して、一週間で一時間ほど稼いだことになる。

そして、一日六時間半まで睡眠時間を削ると、3ヶ月はそのままにして、その時間に慣れるようにしたという。

その後も2分の短縮を進めて、最終的には、四時間半に到達したそうだが、さすがに目眩が襲ってきて、ストップしたそうだ。

エリアーデは、この少年期の取り組みを、自ら「対睡眠戦争」と称した。

少年期にしてすでに、こんな地道な取り組みまでして、自分の時間をひねり出していたのだから、すごい。
ここらへんの意識と実践が、凡人との違いなのだろうか。

日本でも、森鴎外が、「人生は短い。それに対応する手はただひとつ、睡眠時間を減らすことだけだ」と、人には諭していたらしい。

自分のことを言うのも何だが、六時間半ぐらいが限度だろうか。
それでも今どきの時期は、冷房の利いている快適な部屋で、睡魔と闘い、ついついこっくりすることもまれではない。

これもひとつの「対睡眠戦争」 と言っていいのだろうか。とってもレベルは低いけど。


2012年8月1日水曜日

ブルジョワジーの秘かな愉しみ/ブニュエル


題名からして、挑発的で不純なものを感じる。
そして、その印象そのままの映画だと思う。

主人公は、裕福な生活をしている二組の夫婦と、そのうちの一組の妻の妹、ミランダ共和国の大使の男三人、女三人だ。

あらすじらしきものはないが、六人は、度々、晩餐会や昼食を食べようと約束する。しかし、必ず何か事件が起きて、彼らは食事を最後まで食べきることができない。

友人の家を訪ねるが、食事会の日にちを勘違いしてしまい、食べれず。代わりに訪ねたレストランでは、なじみのシェフが急死し、裏方では弔われて、食欲をなくす。

再び、今度は約束の日時どおり、友人の夫婦宅を訪ねるが、夫婦はセックスの途中で、庭先で行為を続け、訪ねてきた友人を待たせる。終わった後に客間に行くとその友人たちは帰ってしまっていた。彼らは、夫婦がすぐに現れないことに警察の影を感じ、怯えて早々に帰ってしまったのだ。(何をしているのかよく分からない六人だが麻薬取引を行っているシーンがある)。

今度こそはと、集まった友人宅の晩餐会では、何故か、軍隊がその友人宅に駐留することになっていて、日にちを間違えて訪ねてくる。それでも食事を続けていると、兵士が見たよい夢(死んだ恋人や友人の幽霊の夢)が披露され、軍隊が立ち去った後も銃撃戦の音で、おちおち食べられない。

それ以外にも、女三人が入ったカフェでは、お茶もコーヒーも飲めず、ここでも、兵隊の亡霊の話。
ミランダ共和国の大使が、一組の夫婦の妻と浮気をしようとするが、そのときに夫が訪ねてきてしまい、成功せず。自分の命をねらうゲリラの女性を捕まえて、いやらしい事をしようとするが、これも女性の抵抗にあって事が果たせず。

こんなシーンがひたすら繰り返される。

また、映画の中で、何故か一組の夫婦宅の庭師の仕事を希望する司教も出てくるが、これも相当にうさんくさい。
ピラミッドがどこの国ににあるかも分からないほど無教養で、偶然、自分の親を殺害した男の懺悔を聞き、迷いもなく猟銃で撃ち殺してしまうような男だ。

神を信じないブニュエルの描く世界観の登場人物だが、このような世界では、人は常に渇きしか感じられないのかもしれない。
それは、映画の中で何度か映る六人が連れ立って、のどかな田園の道をふらふらと歩いているシーンが象徴している。
彼らは連れ立ちながらも、てんで別の何かを考え、孤独にさすらっているように見えるのだ。