2011年9月25日日曜日

インド風噛みタバコ、バター茶、パパ

藤原新也が若いころに書いた「印度放浪」「西蔵放浪」「全東洋街道」を読むと、どうみても美味しくはなさそうなのだが、不思議と食してみたいというものがでてくる。
こういうのは、私の嗜好が変というより、作者の筆力のせいといっていいのかもしれない。

まず、「印度放浪」でいうと、旅をしている作者がパロディという街に着いたときに質問してきた役人が噛んでいる「パン」というインド風噛みタバコが、すごく気になる。

「石炭や銀紙にくるんだ苦甘い香料、ドングリのような渋い味の木の種、その他数種の得たいの知れぬものを、ニッケとドクダミを混ぜたような味のする青い葉っぱにくるんで、口の中に抛り込む。…
それは文字どおり怪奇な味であり、まさに無謀な味であり、それは味というにはあまりに秩序を欠いている。音にしてみれば、楽団が何かを演奏する前の音合せのように、カネやタイコやラッパが、それぞれかってにやっているような感じで、とどのつまり、何を食っているのかさっぱりわからない。…
たとえば、インド世界的混沌を、そのまま口に抛りこんだようなものである。
…唾が大量にやたら出てくる。ペッと吐くと喀血したように唾が赤くなっている。そしてまた口の中でモグモグやってパッと出す。これを何べんもくり返すのである。」

たぶん間違いなく不味いのだと思いますが、一度、試してみたい気持ちが抑えられない。

次に、「西蔵放浪」に出てくる僧侶(親しみをこめてか、ゴロツキ寺の坊さんと酷評されている)が飲んでいるバター茶である。

「…またある者は、バターのたっぷり入った塩茶と砂糖茶を入れ替えとっかえ、一日に二十杯も、三十杯戯(あじゃら)飲みして、戯(あじゃら)話に耽っている」
「読経がやや進んだところで、小僧が台所の方から登ってきて大きな真鍮の薬罐に入ったバター入りの塩茶を、次々に僧たちの木椀に注いでゆく。僧たちは経を唱えながら、経の中継ぎの所で休んでは、その湯気の立つバター茶をすする。…」

この場合、チベットの乾燥した空気、坊さん、バター茶という3点セットが魅力的なのかもしれない。おそらく、日本の茶の間で同じ味を再現しても美味しくないだろう。

さいごは「全東洋街道」に出てくるヒマラヤ山中の山寺の朝食で「パパ」という食べものだ。

「遠くから見るとそれは焼きたてのフランスパンのように見え、近くにくるとそれは黄粉をまぶした大きな餅のように見えた。目の前に置かれるとどう見ても土のかたまりとしか見えないものに成り果てていた。…土のかたまりの横に小さな器の青汁が置かれた。匂いがした。ちょうどそれは小鳥に与える《すりえ》そっくりの匂いと色をしている。」
「あの土のかたまりのようなもの…それは木材をノコギリで切った折に地面にたまる木くずを三日ほど髪油-椿油など-に浸しきわめて少量の味の素を振りかけてねり固め、それを一時間ほど蒸したような味と思えばいい。」

作者は、これを初めて食べたとき、「メシを食って自殺を考えた」というが、山寺滞在の六日目には味を感じ、おいしいと感じたそうだ。

これを食べたいのは、やはり、作者が六日目に感じた舌の革命を体験したいからだと思う。
そう考えると、これも俗世を断ったヒマラヤの山深い寺でないと本当の味は分からないのかもしれない。

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