高い品性と道徳感を持ちながら、同時に抑制しがたい程の情欲を併せ持ったら、人間はどうなるか?
それが、この小説のテーマだと思う。
そのテーマとなった男が、作者の友人である大隅君なのだが、風貌は男っぽいのに、
「ややともすれば少しく淫靡にさえ聞こえるくらいの、甲(かん)の高い艶麗な聲でよくからからと笑いながら物を云う癖があった。若しも彼の容貌が、彼の一生を貫いた道徳の象徴であるとしたら、彼の聲は正しく彼の他の一方面、即ち情欲の象徴であったかも知れない」
と描写し、彼の中に二つの相反する性質が同居していたことを暗示している。
この大隅君が、作者の誘導に応じて語った女性経験が生々しい。
七歳の時に、子守の娘の性的玩具になり、十三、四歳で女中と初体験をし、中学二年(今の十七歳ぐらいか)で、二人目の女中と経験する。
作者(谷崎)と異なり、発表した詩が文学雑誌に取り上げられ、女性からもラブレターが来るという、藝術においても恋愛においても勝者であった大隅君だったが、一面では神の存在を欲して宗教の道を望み、一面では娯楽的な要素が不可欠な芸術の道にも惹かれ、どちらの道を選ぶのかで苦悶していた。
彼の二面性は、クリスチャンとして教会に行く傍ら、遊郭にも足を向けてしまうということからも分かるが、その二面性により、大隅君が、結婚前日に、かつて、彼のほうから別れた女性と肉体的な関係を結んでしまう事件が起こってしまう。
この事件は、作者の協力で事なきを経て、無事結婚することができたが、結婚したことがさらに大隅君の寿命を縮めることになる。
死因が丹毒もしくは面疔(化膿)と、性病をイメージするようなものになっており、作者は、抑制しきれない性欲と、その罪悪感に神経を病んだことが死の本当の原因ではないかと推測している。
この小説に描かれている大隅君は架空の人物であろうが、モデルは他でもない谷崎自身ではなかったのでないかと私は思う。
谷崎は、少年期に宗教と哲学への高い関心を持ち、聖人となるべく志を持っていたが、女性の美への強い憧れと欲望のために、次第にその軸足を詩や小説といった藝術のほうに変えている。
もし、自分が、違った運命をたどり、青年期に、強い宗教への志を維持し続けると同時に、それと同じくらいの強さの性欲に刺激され続けたなら、どうなるか、という一種の実験的なケースを想定して書いた小説ではないだろうか。
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