司馬遼太郎の歴史小説のなかでも、二人の対立する主人公が出てくる「国盗り物語」、「翔ぶが如く」は、どちらも好きな作品です。
「国盗り物語」は、一介の学僧から身を起こし、権謀術数のかぎりを尽くして美濃一国の国主となった斎藤道三の二人の愛弟子、 一人は道三の古典的教養を引き継いだ明智光秀と、もう一人は道三の中世的な権威を破壊する革新性を引き継いだ織田信長が、最後に衝突を避けられないまま、本能寺に行き着くという物語。
「翔ぶが如く」は、明治維新の中心的役割を果たした薩摩の西郷隆盛と大久保利通が、明治初年の近代国家の成立時期に、征韓論をめぐって激しく対立し、やがて、政府側の大久保利通と、薩摩士族代表の西郷隆盛(西郷の虚像といってもいいかもしれない)が、西南戦争で戦い、西郷が敗れ、勝った大久保も暗殺されるという物語だ。
読んでいて不思議に感じるのは、戦国時代の「国盗り物語」のほうが現代的だと感じることだ。道三や信長が目指していた合理性は非常に納得がいくし、光秀がその合理主義を危険だと感じる感覚も理解できる。
一方、「翔ぶが如く」においては、この物語の前段にあたる「竜馬がゆく」の明るさの反動のせいか、西郷隆盛が明治維新後、全く生気を失った存在になってしまうことや、彼の説く征韓論が非常に理解しがたい部分がある。
また、大久保利通については、合理主義が見え隠れする一方、立憲君主制という天皇中心国家を作り上げていくところに、後世から見れば太平洋戦争の敗戦につながっていく暗い影を感じ、すなおに共感できないところがある。
そして、一番の違和感(魅力といってもいいかもしれない)を覚えるのは、やはり彼らの人格だろう。
それは江戸時代が生んだサムライの精神というべきなのだろうか。
西郷や大久保は、今の政治家とは比べものにはならないほど、人間として大きいのに加え、明治国家を作り上げていく動機にも私欲が感じられない。
自分が、多少難解なこの物語にひかれるのは、今では絶滅してしまったこのサムライの精神を、西郷や大久保に強く感じるせいかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿