2012年9月18日火曜日

灰皿

私は煙草を吸わないけれど、煙草という嗜好品が、映画や小説の中で、心情的な風景を描くのに、格好のアイテムであるということを認める。

ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」では、ジャン・ポール・ベルモンドが唇をなぞるように、煙草を吸う場面が強く印象に残っているし、

タルコフスキーの「鏡」では、不在の父親を所在なさげに待つ母親が細い木の柵に腰掛けて、風に揺れる草原を見つめながら煙草を吸う場面が風情があっていい。

日本映画でいうと、和田誠の「麻雀放浪記」だろうか。主人公の坊や哲が、クラブのママから、煙草は色々な合図に使えるから吸いなさいと諭され、ルーレットゲームが付いたライターを渡される場面が印象に残っている。

灰皿というのも、見ようによってはとてもよい小道具になりそうだ。
火をつければ、まだ吸えそうな長い吸い殻、フィルターぎりぎりまで吸われた短いもの、クシャクシャに折り曲げられた吸い殻 、真っ直ぐの吸い殻、フィルターに噛んだ後が残っている吸い殻、口紅のついた吸殻。

人それぞれに吸殻にも個性がある。そして、それらが一同に集合すると炭火のようにどこからか煙が立ち、嫌なにおいがする。

モラヴィアの短編小説に「灰皿」という作品がある。
何一つとして最後までやりとげられない主婦が、自分の行為を灰皿にたとえている。
たとえて言うなら、この一日は、神経症のタバコ吸いが長い時間をかけ、長い吸いさし、短い吸いさし、あるいは文字どおり火をつけたばかりの吸いさしでいっぱいにした灰皿に似ているかもしれません。わたしの一日はやりかけの行為、それも半分もすんでいない行為でいっぱいなのです。今思い返してみると、それらの行為は火が消えて冷たくなり、ぷんと臭い吸いさしタバコに似ているのです。
煙草というのは、人間の欲望の形が隠しようもなく露になってしまう鏡のような存在なのかもしれませんね。

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