「ぎりぎり」「ぐずぐず」「ふわふわ」「なよなよ」「ゆらゆら」「ねちゃねちゃ」…
これらの言葉は、一般的にオノマトペ(擬態語)と呼ばれるが、本書は語感が鋭い著者らしいオノマトペの考察論になっている。
こんなテーマは国語学者の大野晋も取り上げなかったし、まして、文学者に至ってはどちらかというと邪道、下品と扱われるジャンルの言葉だから誰も書いたことがないだろう。
しかし、そのオノマトペについて、著者は多田道太郎の文章も引いて、そこには「深い闇」があると指摘する。
視覚中心の文明がすごい勢いですすむと、他の感覚の抑圧が深まり、そして抑圧されっぱなしだったそれらの感覚は、あるとき、歴史の皮肉が働いて、いっせいに視覚への反訳をもとめ、いわば反逆をはじめる。手ざわりを視覚化して素材感を出すというようにして…。感覚的、表層的なものが、かえってこれらの社会では、もっと深いものの表現であるという逆説が成立する。なぜなら、深い闇のなかにあったものが、反訳をもとめて浮かびあがるその場所は、理念の体系ではなく、感覚の表層なのだから。そして、著者は、オノマトペこそ、わたしたちのなかの「深い闇」が「反訳をもとめて浮かびあがるその場所」ではないのか?
ぴたりとくる表現が見あたらずいらいらしているときのみならず、…肌で感じる「時代の空気」や「現在という時代の不安」にいたるまで、オノマトペというこの言語表現は、つねに身体的に感応し、音としてその感触を編みなおそうとしている、意味を超えた<言葉>の力の源泉、と説明している。
さまざまなオノマトペを取り上げながら、著者は発音するときの口の動かし方から、アクセント、リズム、類似する言葉と語源、心理分析に至るまで幅広く考察をめぐらしていくが、引用する文章も素晴らしい。
たとえば、吃音(どもること)に関する斎藤環の言葉。
吃音は、これは経験のない人にはわかりにくいと思うけど、発したい言葉を、舌が拒否するんです。発音できずに終わってしまった言葉が、言霊のようにいつまでも心の中にあって、それにいつまでも引きずられる。…吃音というのは、言葉を伝えようとして、間違って、言葉じゃなく肉体が伝わってしまった、という状態なんです。肉体と言葉が乖離している。一粒で二度おいしい、 そんな思いがする本です。
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