丸谷才一の「遊び時間」という書評集?を読み返していたら、ルイス・ブニュエルの「小間使の日記」に関する批評が載っていた。
実は、この映画、2ヶ月前ほどに、DVDで観たのだが、ブニュエルの映画にしては、あまり面白くないなという印象だった。
題材が暗い(幼女強姦殺人)し、ジャンヌ・モロー 演じる小間使いセレスティーヌが、自白させようと、あるいは殺人の証拠を探すために、殺人犯である右翼の下男ジョゼフと寝て、結婚の約束までしてしまうという物語に、真実味を感じられなかったからだ。
丸谷氏は、この作品が、サルトルの中編小説「一指導者の幼年時代」の影響下に作られたのではないかと推論し、ミルボーの原作におけるブルジョア道徳への憎しみと右翼への批判を、現代人の感覚に合うように清新な趣のものにしたとして、一定の評価をしつつも、
映画最後のシーン(暗い天を刺す唐突な稲妻)について、
「ああいう意味ありげな思わせぶりで末尾をしめくくるしかないところに、この映画全体の脆弱さが、 問題映画的な弱さが よく示されている」と評している。
その一例として、ミルボーの原作では、セレスティーヌが幼女強姦殺人犯であるらしいジョゼフと結婚し、軍人相手の酒場で、セレスティーヌは人気者となるが、水兵長にも機関兵にも目も向けず、ジョゼフに首ったけであるという恐ろしい内容になっている。「その停滞の詩情の恐ろしさ」に対抗するだけのものを、この映画は創造しているのか?という、これまた恐ろしく厳しい批評をしている。
丸谷氏は、この批評の中で、ブニュエルの他の作品「アンダルシアの犬」や、ジャン・ルノワールの「小間使の日記」を見ていないこと(当時はビデオなどなかった)、ミルボーの原作しか読んでいないことを悔い、
批評家の仕事はその作品を芸術の歴史のなかに正しく位置づけることにある。
そのためには、その作品と他の芸術作品との関係を関連づけることが手がかりとなるだろうし、
手がかりの第一は彼のこれまでの作品との関係、
第二は彼の師や敵(師が敵である場合は非常に多いだろう)の作品との関係であるに相違ない、
と述べている。
余技である映画批評にも手を抜こうとしなかった若い頃の丸谷氏の批評家の姿勢を感じることができて、懐かしかった。
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